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ルソーのように5人子供ができても孤児院の玄関に置き去りにしたりはしない――3月5日の手紙(4) If I Have Five Children, Like Rousseau, I Shan't Leave Them on the Steps of a Foundling Asylum: The Letter of March Fifth (4) [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』4年生3月5日の手紙の、「3月5日の手紙 The Letter of March Fifth」と「ジュディーの幸福論――3月5日の手紙(2) Judy on Happiness: The Letter of March Fifth (2)」(と「どんな空が自分の上にあろうとも、わたしはいかなる運命にもむかう心をもつ」――3月4日の手紙 (3) "Whatever sky's above me, I've a heart for any fate": The Letter of March Fifth (3)」)で引用した箇所につづくパラグラフです。

However, Daddy, don't take this new affection for the J. G. H. too literary.  If I have five children, like Rousseau, I shan't leave them on the steps of a foundling asylum in order to insure their being brought up simply.  (Penguin Classics 119)
(でも、ダディー、このJ・G・H に対する新たな愛情をあんまり文字どおりに取らないでください。もしもわたしに、ルソーのように、5人子供ができるとしても、単に〔純真なる?  simply ただただ?〕その成長を保証するためにと孤児院の玄関の踏み段に置き去りにするなどということはいたしません。)

  ペンギン版のエレーン・ショーウォルターは、Rousseau に63番の注を付けています (Penguin Classics 353)。――

Rousseau: Jean[-]Jacques Rousseau (1712-1778), Swiss-born French philosopher and author of The Social Contract.  Rousseau had five children with a servant girl and placed them in an orphan asylum.
(ジャン=ジャック・ルソー (1712-78) はスイス生まれのフランスの哲学者で『社会契約論〔民約論〕』[1762] の著者。ルソーは女中の娘とのあいだに5人の子をもうけ、孤児院にいれた。)

  ショーウォルターは書いていませんけれど、伝記的なことがらは、ルソーの有名な『告白』に自ら書かれています。これはなかなかに微妙なハナシですので、長いのですが、該当箇所を書き抜いてメモっておきたいと思います。

  その前に、簡単にルソーについて書いておきます。ルソーは1732年に故郷のスイスのジュネーヴを離れ、ヴィラン男爵夫人に庇護されて教育を受けました。愛人関係となった夫人と別れたのち、1740年からリヨンで家庭教師、そして1742年に新しい記譜法を発表してパリに出てディドロと親しくなります。1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子を産ませ、いずれも孤児院に送りました。

  内気で皆にからかわれるテレーズ(ル・ヴァスール夫人の末娘)をかばったルソーもまた内気な性格で、「この共通した気質は、二人の間を遠ざけるようにみえながら、かえって急速にむすびつけ」る。母親はそれに気づいて腹を立て、娘を折檻しますが、その手荒な仕打ちのために二人の仲はさらに深まり、テレーズはルソーを保護者として頼るようになります。

  彼女が身をまかす前に、口ではいえないで、察してもらいたそうにして、もじもじしている様子にわたしは気づいた。ところが、当惑の真の原因を想像するどころか、わたしはまったく的はずれの、しかも彼女の品行を侮辱するような原因を考え出したのである。病気がうつる危険を警告しているのだと思いこんで、わたしはとまどった。思いとどまりはしなかったが、数日のあいだ幸福感は害された。〔・・・・・・〕やっとたがいに心のうちを説明しあった。彼女は、ものごころのつくころ、自分の無知と、誘惑者のたくみさのために、一度だけあやまちを犯したことがあることを、涙ながらに告白した。彼女のいうことがわかったとたん、わたしは歓声をあげた。「処女なんて!」とわたしはさけんだ。「パリで、しかも二十歳にもなった女に、だれがそんなものを求めるもんか! ああ、テレーズ! ぼくはしあわせすぎる、貞淑で健康なおまえが、ぼくのものになったんだから。そして、ぼくが求めていなかったものが、見つからなかったんだから。」
  最初は、ほんのなぐさみにするつもりだった。しかしそれ以上に深入りし、一人の伴侶をこしらえてしまったことに気づいた。このすぐれた娘と少し慣れ、また自分の境遇を少し反省してみて、ただ快楽ばかりを求めていたのに、それがわたしの幸福にも大いに役立ったことを感じた。消え去った野心のかわりに、心をみたしてくれる、なにかはげしい感情がわたしには必要だった。つまり、ママンのかわりがほしかったのだ。だが、今はもう、ママンといっしょに暮らすわけにはいかぬ以上、ママンの手で教育されたこのわたしといっしょに暮らしてくれるひと、ママンがわたしのうちに見出したような、素朴で従順な心のもちぬしが必要だった。
(桑原武夫訳『告白』 (筑摩書房「世界文学大系17」) 203)

  へたすると『カサノヴァ情史』的なノリです。ママンという、ふた昔、いや三昔前の少女マンガを思い起こさせる言葉(個人的)は、母親ではなくて、ヴィラン男爵夫人のことです。ルソーはテレーズを教育しようとしますが、うまくいきません。――

まず彼女を教育しようと思ったが、骨折り損だった。彼女の精神は自然がこしらえたままで、教養や配慮はききめがないのだ。打ち明けていうと、字はどうにか書けたが、読むことは満足にできなかった。ヌーヴ=デ=プチ=シャン街に移住したとき、窓の真向いにポンシャルトラン旅館の日時計があったが、その時間を教えこむのに一ヵ月以上も努力した。今でもまだ十分にわかってはいない。一年の十二ヶ月を順にいうことができず、どんなに努力して教えても、数字は一つもおぼえられない。

  ルソーはテレーズのとんちんかんな言葉遣いを辞典にして、彼の交際している人たちのあいだで有名になったりもしますが、「こんなに愚かな女も、いざというときにはすぐれた助言者」となること、また高い身分の人のあいだでも「彼女の意見、良識、応答、ふるまいは一同の尊敬の的となり、またわたしは彼女の美点について、心からの讃辞をうけた」とも書いていますし、「わたしは世界一の天才といっしょにいるような楽しさでテレーズと暮らした」とも書いています (204)。

  ルソーはこのころオペラの作曲をしたり、それから化学に関心を新たに示して本を書き出したりするのですが、1847年の秋にシュノンソー離宮に化学の本の共著者のフランクイユ氏と一緒に旅行に出かけます。で、そのあとに、記されているのが子供のはなしです。――

  わたしがシュノンソーで太っているあいだに、パリではテレーズがべつの太りかたをしていた。そしてもどってみると、中途半端で投げ出しておいた事態は予想外に進行していた。今の境遇では、まったく困ったことになるところだったが、ありがたいことに、食事仲間がそこを切り抜ける唯一の手段をさずけてくれた。これは、あまり簡単に語ることのできない重要な物語の一つなのである。というのは、いちいち注釈を加えれば、自己を弁護するか、非難するかしなくてはならなくなるだろうが、そのいずれもわたしはここでやってはならないからである。
  アルトゥーナがパリに滞在していたころ、わたしたちは飲食店には行かずに、近所の、オペラ座の袋小路とほぼ向かいあった、仕立屋のおかみさんのラ・セル夫人というひとのところに食事に行くことにしていた。ここは料理はまずいが、善良で確実な人たちが集まるというので評判がよかった。事実、ふりの客は入れず、常連のだれかの紹介が必要だった。礼儀正しく、機智にとんではいるが、猥談ずきの老遊蕩児グラヴィル三等騎士がその家に泊っていて、騒ぎ好きで派手な、若い近衛士官や近衛騎兵たちをひきつけていた。ノナン三等騎士はオペラ座の踊り子全部のナイトをもって自認していて、毎日、楽屋のあらゆるニュースをもたらす。退役陸軍中佐で、分別ある好老人のデュ・プレシと、近衛騎兵士官のアンスレの二人が、この青年たちのあいだにいくらかの規律をたもたせていた。ここにはまた商人や、金融業者や、軍の糧食御用商人らがやってきたが、いずれも礼儀正しく、正直な、同業者のうちでも目立った人たちだった。ベス氏、フォルカード氏、そのほかにもいたが、名前は忘れた。要するに、あらゆる職業のすぐれた人たちが集まっていた。ただ僧侶と法律家はべつで、これには一度もお目にかかったことがない。仲間に加えない約束になっていたのだ。ここの食事はかなりの大人数で、たいてい陽気だが騒々しくはなく、きわどい話もずいぶん出たが、下品にはならなかった。老三等騎士の話はすべてみだらな内容のものだが、彼はむかし身につけた宮廷の作法をけっして忘れることなく、なにか下品な言葉を口にしてもたいへんおもしろかったから、女のひとでも、とがめはしなかったにちがいない。彼のそうした調子が一座の規準となって、若者たちもみな無遠慮に、しかし品を落とすことなく、めいめいの色事を物語るのだった。しかも女の話は、すぐ近くにその倉庫があっただけに、ますます事欠かない。というのは、ラ・セル夫人のところへ行く小路に、有名な流行品店のラ・デュシャプトの店があり、当時きれいな娘を何人かやとっていたので、みなは食事の前後におしゃべりに行ったからである。もしわたしがもっと大胆だったら、この連中同様そこで楽しんだだろう。彼らと同じように入って行きさえすればいいのに、それがどうしてもできなかった。このラ・セル夫人のところには、アルトゥーナが帰って行ってからも、しばしば食事をしに行った。そこでおもしろい逸話をたくさんきいたし、また彼らのあいだで支配的な生活方針を徐々に身につけたが、さいわいにもその風習には染まらなかった。ひどい目にあわされた正直者、欺かれた夫、誘惑された妻、人目をしのぶ出産、こういったことがここでのごくあたりまえの話題だった。そして孤児院にいちばんたくさん子供をいれたものが、つねにもっとも賞讃されていた。こうした空気にわたしも感染した。まことに愛すべき人たち、そして腹の底はじつにまじめなこの人たちの間で行なわれている考え方をもとにして、わたしは自分の考え方をきめた。そしてこう思った。これがこの国の習慣なのだから、ここに住む以上はそれに従っていいはずだ、と。これこそわたしの求めている給与の策だったのである。わたしはなんのためらいもなく、敢然とそれにたよる決心をした。* ただひとつ克服せねばならないのは、テレーズの心配である。彼女の体面をまもるための、この唯一の手段を承知させるのに、なみなみならぬ苦心を要した。母親も、このうえ赤ん坊の世話までしなくてはならなくなるのをおそれて、わたしの味方になってくれたので、ついにテレーズも同意した。サン=トゥスターシュ街の角に住む、グアンという用心ぶかくて確実な産婆をえらんで、その手にテレーズのからだをあずけることにした。そしていよいよその時になると、テレーズは母親につれられてグアンのところへ行き、お産をすませた。わたしは何度か見舞に行き、二枚のカードにまたがるように頭文字の組合せを書いたのをもって行った。その一枚は赤ん坊の産着におさめられ、赤ん坊は、普通の形式にしたがって、産婆の手で孤児院の事務所にあずけられた。その翌年も同じ目にあい、同じ手段で切りぬけた。ただし頭文字を組み合わせたカードだけはやめた。今度はもうわたしも考えこんだりしなかったが、テレーズのほうは相変わらず、なかなか承知してくれなかった。彼女は泣く泣く従った。この宿命的な行為が、その後わたしの考え方や運命にどれほどのはげしい変化をもたらしたかは、おいおいわかるだろう。今はその最初の時期だけにとどめておこう。その結果が思いがけなく、また苛酷なものであった以上、わたしは後にもう一度このことに触れざるをえなくなるであろう。
(219-220)

  これが1747年と1748年、ルソー35歳のころの話です。桑原武夫は *印のところに歴史的注釈を付しています(原文の漢数字をアラビア数字に変更)。――

パリでの捨て子は多かった。当時人口約60万であったが、1740年には3,150、1745年には3,334 の捨て子があった。ビュフォンの『博物誌』によると、1772年には18,713 の出産があったが、うち7,676 人が孤児院におくられている。

  つぎの第八巻のはじめのほうにつづきの話が書かれています。心情の悔恨を理性(つまりは頭=リクツ)の側にくみすることでおさえるような屈折した(ふつうに読めば身勝手な)文章です。――

  人間の義務について哲学的考察をめぐらしているあいだに、ある事件がおこって、自分自身の義務についてもっとふかく反省させられることになった。テレーズが三たび妊娠したのである。行為によって主義を裏切るには、あまりにも自己に誠実で、またあまりにも誇り高い心をもつわたしは、自然と正義と理性の法則、さらには宗教の法則にてらして、自分の子供たちの前途や、その母親と時分との関係などを検討しにかかった。ところでこの宗教なるものは、本来はその創始者同様にけがれなく、神聖かつ永遠であるのに、人間がそれを純粋なものにするような顔をして、かえってけがしてしまい、勝手な方式にしたがってたんなる口先きだけの宗教と化してしまったのだ。実行しなくてもいいとなれば、不可能なおきてを定めることくらい、なんでもないことだから。
  たとえ結果においてまちがっていたにせよ、わたしがそれに従ったときの落ち着きはらった気持は、まさにおどろくべきものである。もしわたしが、やさしい自然の声に耳をかさず、正義と人道との真の感情が心のうちにけっしてとざすことのない、そうしたたちの悪い人間の一人だったら、こうした冷酷さもごく当然のことであろう。しかし、この心情のあたたかさ、感じやすさ、すぐに愛着をおぼえ、それにしばられるはげしさ、愛着を絶たねばならぬときの胸をひき裂かれる思い、同胞にたいする生まれつきの親切心、偉大さ、真実、美、正義にたいする熱烈な愛、あらゆる悪への嫌悪、憎んだり害をくわえたりするだけでなく、そんな気をおこすことすらできぬ性質、すべて徳高いもの、寛大なもの、愛らしいものいっさいを目にすれば、はげしく快い感動をおぼえる心、――すべてこうしたものが、義務のなかでももっともこころよい義務までも容赦なくふみにじらせる堕落した心性と、同じ一つの魂のうちで結びつくことが可能だろうか。いや、わたしは感じる、そしてはっきりという、それは不可能だと。生涯の一瞬たりとも、このジャン=ジャックは冷酷無常な男、人道にもとる父親にはなりえなかった。わたしはあやまちをおかしたことはあるだろうが、けっして冷酷になることはできなかった。理由をあげだせば、きりがなかろう。それがわたしをあやまらせた以上、他人をもあやまらせることもあろう。わたしはこれをよむ若い人たちを、わたしとおなじあやまちにおちいらせたくないのだ。ただ、つぎのことをいうにとどめたい。すなわち、わたしはわが子を自分の手で育てることができなかったので、彼らの教育を社会施設に託し、将来、ごろつきや山師などよりも、労働者か百姓になるようにしておけば、それで市民および父親にふさわしい行為をなすことになると信じていた。そして自分をプラトンの国家の一員と思っていたのである。そのとき以来、一度ならず、心情の悔恨によって、自分がまちがっていたことをおしえられた。しかし理性はそんな注意をあたえてくれなかった。それどころか、自分の処置によって子供たちをその父親の運命から守り、また彼らをみすてなくてはならなくなったとき彼らをおびやかすにちがいない運命から、彼らを守ってやったことを、天に感謝したことがたびたびあるくらいだ。その後、デピネ夫人やリュクサンブール夫人が、友情からか、寛大さからか、あるいは何かほかの動機からか、子供を引きとってやろうといってくれたが、その手にゆだねたところで、はたして彼らはもっと幸福だっただろうか。あるいは少なくとも、もっとまともな人間に育っていただろうか。それはわからない。が、両親を憎み、おそらくは裏切るような人間になっていたことは確実である。それよりも、両親を知らなかったほうがはるかにましだ。
  そういったわけで、三番目の子供も、はじめの二人同様、孤児院にいれられた。その後の二人も同様である。つまりわたしには全部で五人の子供があったのだ。この処置はたいへんよく、道理にかない、また正当であるように思えたが、それを大っぴらに自慢しなかったのは、もっぱら母親への気がねからである。だがわたしたち二人の関係をうちあけてあった人たちのすべてには、そのことをしゃべった。ディドロにも、グリムにも。また後ほどデピネ夫人に、さらに後にはリュクサンブール夫人にも、話した。だが、なにも必要にせまられてではなく、こちらからすすんで率直にしゃべったまでのことで、かくそうと思えば、だれにでも簡単にかくせたのである。というのは、産婆のグアンは正直な女で、たいへん口がかたく、わたしは信頼しきっていたからだ。友だちのうち、打ち明けて得をしたのは、医者のチエリだけである。彼には、テレーズが一度難産したときに手をかしてもらった。要するに、わたしは自分の行為をいささかも隠しだてしなかった。これは、わたしが友人にはなにごとも隠せない人間であるからだけでなく、実際、その行為をすこしも悪いと思っていなかったからだ。すべてを考慮した上で、わたしは子供たちのために最善の方法、あるいは自分で最善と信じた方法をえらんでやったのである。わたし自身、彼らと同じように育てられたらよかったと思ったし、いまでもそう思っている
。(219-220)

  ルソーの年譜を見ると、1747年ではなくて1746年の暮れに第一子の出産、そして捨て児があったようです。テレーズ・ルヴァスールとの関係が始まるのは1745年3月でした(ルソー32歳)。1748年、第二子の出生と捨て児。

  ルソー自身は、1712年6月28日にスイスのジュネーヴに生まれますが、7月7日に母親が亡くなり、伯母に育てられます。10歳の1722年7月に父親が出奔、牧師の家に預けられました。ですから、ルソーも孤児でした。1724年にはジュネーヴに戻り伯父の家に住みますけれども、翌年には5年契約の徒弟奉公に入ります(彫金)。しかし1728年3月、15歳のときに(3月13日、散歩に出て市の門の閉鎖に遅れ、翌日に)ジュネーヴを去り、以後、彷徨と仮装の人生が始まります。

  さまざまな女性と関係をもちながらも、テレーズとは1768年の8月に結婚しています(56歳)。1778年7月2日、散歩のあとテレーズと朝食、午前11時ルソー死す(享年66)。テレーズは翌年の9月に、ルソーの知己であったジラルダン公爵の従僕と再婚しました。

  『告白』の記述を信じれば(つまり、他の資料も参照しないと確かなことはわかりませんが)、ルソーは孤児院に子供を送るのに、グアンという「産婆の手で孤児院の事務所にあずけられた」ということで、玄関口に遺棄するということはしなかったことになります。

  もしかすると、「孤児院の玄関の踏み段に置き去り」というのは、ジュディー自身の体験の再現なのかもしれません。(あるいは単に記述を簡潔にしておもしろくするための改変かもしれません。あるいは事実を調べたのかもしれません。わかりません。)

  ジュディーの遺棄については、2年生の9月25日の手紙で、クラスに外国の修道院校で子供の頃に3年過ごしたためにフランス語が得意な子がいることで、冗談めかして、"I wish my parents had chucked me into a French convent when I was little instead of a foundling asylum." (わたしの親が、わたしがちっちゃかったときに孤児院ではなくてフランスの修道院校に投げいれてくれていたらよかったのに)と言うところに間接的にほのめかされている可能性があると思うのですが、もろもろの訳書を見ると、なんかぜんぜん違う感じもするので、もうちょっと他の場所も読みなおしたり考えたりしてみます。

  それから、引用文中の "[brought up] simply" は、訳者によってさまざまに解されています。「質素に育つ」というのが多いみたいですけれど。ルソーを読んだあとでは「強調」であると結論しました(自信89パーセント)。


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morichanの父

kaoru さん、こんばんは~♪ ナイスどうもありがとうございます。
by morichanの父 (2010-01-06 20:33) 

peco

テレーズの再婚の早さに驚きました。
そして捨て子の多さにも。
by peco (2010-01-07 11:38) 

morichanの父

peco さま、新年あけましておめでとうございます。
はい、3分の1以上が孤児院というのはちょっと信じられないですよね。なんか別の資料が見つかったら報告します。

今年もよろしくお願いします。
by morichanの父 (2010-01-08 14:14) 

Ruthy

学校も行かず教養も無い18世紀の女性が50歳代で一人では生きていけなかったと思います。ルソーが亡くなった7月から翌年9月に再婚したのですから、それほど再婚が早いとも思えませんが・・・・・?? (その間どのように生きてきたのか?)    結局テレーズは、子供を一人も手元において育てられなかったのでしょうか??   テレーズの気持ちをちっとも汲む事をしない身勝手な男。   食べていくのに精一杯な時代だったとは言え、そう簡単に自分の子供を5人も放棄できますか??  
by Ruthy (2014-01-26 08:29) 

アリョーシャ

ルソーさんは子供を孤児院に送ったことは、のちに死ぬまで後悔していますよ。(確か『告白』か『散歩者の夢想』か)
ただ、あの時は冷酷にそう処置したのではなく、心から良かれと思ってしたのだと、そう言いたいのではないかなと思います。
しかし、もちろんテレーズは辛かったでしょう。彼女はルソーの人間性の温かさを十分理解していたと思いますが、子供を育てるということを奪ったのは、それだけは恨めしかったでしょう・・。
by アリョーシャ (2016-06-12 18:16) 

通りすがり

 はじめまして。ルソーが好きな人は、誰しもこの捨て子問題に興味を抱いていると思います。僕もそうです。だからこの記事はとても価値のあるものだと思います。

 結論を言えば、ルソーが相当に酷い男であったことは疑いようのない事実です。よく口にされる「時代的な制約」という擁護論も、僕からすれば少し厳しい理屈に思えます。

 実際にルソーと関係のあったルイ=セバスティアン・メルシエは、自著『18世紀パリ生活史』(岩波文庫)の中でルソーとの思い出を語っていますが、そこには黒人の身体的特徴を「面白おかしい」ジョークにして笑いをとろうとするルソーが描かれています。読めば分かるのですが、ルソーの表現は相当露骨です。

 重要なのは、メルシエはルソーの信奉者であり、メルシエ自身はこのエピソードをルソーを貶めるものとして紹介しているのではなく、むしろ自分の敬愛するルソーはこんな面白いことも言っていたんだぞ、それを読者諸君の前で初公開だと、自慢話のような向きさえ感じられるような語り口で紹介していることです。これは、この文章を読んで激昂する人間が存在する可能性を、微塵も感じることなく過ごせる環境にメルシエがいたことを意味します。

 上記の話と比べると、ルソーの「子捨て」は、ルソー視点で描かれた『告白』の内容を素直に事実として受け入れたとしても、すでに当時のパリでは「隠れてやるものだった」ことが明白で、時代の制約という概念で擁護することは非常に難しい気がするのです。だいたい「信用のできる産婆」がどうのと言っているところからして「やましさ」全開じゃないのと...。何の信用だよ...。

 まあ、僕がルソーを愛してやまないのは、人の弱さや愚かさの結末が、等身大のリアリティーから描かれているという、その一点にあるんですけどね。まあ、分かるけどさ、そこはもっと頑張ってほしかったな、っていう。長文失礼しました。


by 通りすがり (2017-09-23 00:03) 

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