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第二次ポエニ戦争とジュディーの戦況報告 Second Punic War and Judy's Reports from the Scene of Action [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月10日の手紙(3通目の手紙)の後半でジュディーははじめて学業についての報告をします。

     And now I suppose you've been waiting very impatiently to hear what I'm learning?
     I.  Latin: Second Punic war.  Hannibal and his forces pitched camp at Lake Trasimenus last night.  They prepared an ambuscade for the Romans, and a battle took place at the fourth watch this morning.  Romans in retreat.
     II.  French: 24 pages of the "Three Musketeers" and third conjugation, irregular verbs.
     III.  Geometry: Finished cylinders; now doing cones.
     IV.  English: Studying exposition.  My style improves daily in clearness and brevity.
     V.  Physiology: Reached the digestive system.  Bile and the pancreas next time.
                        Yours, on the way
                        to being educated,
                                           JERUSHA ABBOTT.  (Penguin Classics 17)
(さてわたしが何を学んでいるのかお聞きになりたくてずっとむずむずしていらっしゃるのではないかと思います。
  I. ラテン語。第二次ポエニ戦争。ハンニバルの率いる軍は昨晩トラジメヌス湖畔に陣を張った。ついでローマ軍の攻撃にそなえて伏兵を配置、今朝第4刻に戦闘を開始。ローマ軍退却中。
  II. フランス語。「三銃士」を24ページと第3変化不規則動詞。
  III. 幾何。円柱を終えて、今は円錐にはいる。
  IV. 国語。説明文を勉強。私の文体は日に日に明晰と簡潔の度を増して改善中。
  V. 生理学。消化系に達する。つぎは胆汁と膵臓。
               教育途上にある
                       ジェルーシャ・アボット)

  とりあえずラテン語について。

  第2次ポエニ戦争はローマとカルタゴのあいだで紀元前264年から同146年のカルタゴ滅亡にいたるまで大きく3度にわたって行なわれた戦いの2期目で、紀元前219年から同211年にかけての戦争をいいます。ウィキペディアの「第二次ポエニ戦争」がなかなか詳しい説明をしています。 

770px-Hannibal_route_of_invasion-en_svg.png
"Route of Hannibal's Invasion of Italy" image: "Second Punic War," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Punic_War>

  紀元前218年5月にカルタゴを出発したハンニバル軍は海岸線に沿って南フランスを進み、9月、アルプスを越えてイタリア北部に現われます。11月、ティキヌス川付近でカルタゴ軍がローマ騎兵を破り、指揮官スキピオを負傷させます(ティキヌスの戦い)。カルタゴ軍は南進し、12月18日、トレビア川岸でローマ軍を奇襲し、大損害を与えます(トレビアの戦い)。年があらたまって紀元前217年――

元老院はガイウス・フラミニウスグナエウス・セルウィリウス執政官に選出、新たに4個軍団50,000名を動員した。両執政官はそれぞれ2個軍団を率いて北上し、分散してカルタゴ軍を待ち構えたが、ハンニバルは彼らの予想を裏切り、アペニン山脈を越えて南下した。フラミニウスはこれを追撃、セルウィリウスとの挟撃を意図していたが、ハンニバルは逆に各個撃破を狙っていた。カルタゴ軍はトラシメヌス湖畔の隘路と丘陵を利用して、進撃して来たフラミニウス軍を伏撃、多大な損害を与えた。(トラシメヌス湖畔の戦い) 〔「第二次ポエニ戦争」〕

  トラシメヌス湖畔の戦いが起こったのは紀元前217年6月のことです。――

紀元前217年6月24日(日付は諸説ある)早朝、フラミニウス率いるローマ軍はトラシメヌス湖畔に差し掛かった。この日は濃霧のために視界が悪く、ローマ軍は接触までカルタゴ軍の存在に気が付かなかった。ローマ軍先鋒とカルタゴ軍重装歩兵の戦闘が始まると、直ちにカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方へ回りこみ、退路を断つと同時にローマ軍を前方へ押し込んだ。この時点でローマ軍は大混乱に陥っていたが、丘陵の陰から軽装歩兵とガリア兵が出現すると混乱は頂点に達した。側面奇襲に成功したカルタゴ軍は、長く伸びたローマ軍隊列を分断し、またたくまにこれを壊滅させた。ローマ軍の前衛がカルタゴ軍重装歩兵の戦列を突破したが、逃亡出来たのは6,000名に過ぎなかった。戦闘は三時間で終了した。〔「トラシメヌス湖畔の戦い」〕

この戦いにおけるローマ軍の死者は15,000名を超え、指揮官のフラミニウスも戦死した。一度は逃亡に成功したものたちも、カルタゴ軍の追撃によって大半が降伏に追い込まれた。一方のカルタゴ軍の損害は1,500名から2,000名程度であった。

  ところで、ジュディーは翌月の11月15日の手紙で、「最新の戦況報告」としてハンニバルの戦いを再び報告しています。――

LATEST WAR BULLETIN!
NEWS from the Scene of Action.

At the fourth watch on Thursday the 13th of November, Hannibal routed the advance guard of the Romans and led the Carthaginian forces over the mountains into the plains of Casilinum.  A cohort of light armed Numidians engaged the infantry of Quintus Fabius Maximus.  Two battles and light skirmishing.  Romans repulsed with heavy losses.
          I have the honor of being,
          Your special correspondent from the front
                                             J. ABBOTT. 
(最新の戦況報告!
戦場よりの報道ニュース。
11月13日木曜日の第4刻、ハンニバルはローマ軍の前衛を敗走せしめ、カルタゴ軍を率いて山を越え、カシリヌム平原に侵入した。軽装備のヌミディア人の騎兵隊はクイントゥス・ファビウス・マクシムスの歩兵隊と交戦。2度の戦闘と小競り合いの末、ローマ軍は多大の損害をこうむって撃退された。
      前線特別従軍記者の光栄に浴する
                        J・アボット)

  この戦いはなんなのか、というと、残念ながら日本語ウィキペディアの「第二次ポエニ戦争」は記述していません。クイントゥス・ファビウス・マクシムスはローマの将軍ですが、トラシメヌス湖畔の戦いにおけるローマ軍の大敗を受けて、元老院により「独裁官」に任命された人。しかし、ファビウスは持久戦を選びます。元老院は戦いを望む声を受けてファビウスの独裁官の任期が切れるとルキウス・アエミリウス・パウルスガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出、しかしふたりは紀元前216年8月2日の「カンナエの戦い」でカルタゴ軍に完敗します。カシリヌム(英語 Casilinum の発音だと「キャシライナム」みたいな感じ)は現在のカプア Capua で、イタリア半島南西部のカンパニア州にあった古代都市です。カシリヌムはカンナエの戦いにおけるカルタゴの勝利によって、カルタゴの側につくことを宣言します。この町一帯はクイントゥス・ファビウス・マクシムスは紀元前217年に占拠していたところ。元老院は再評価されたファビウスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスを執政官として建て直しを図ります。上のウィキペディアの地図だと、トラシメヌスとカンナエのあいだにカプアが入っていて、それは正しいのでしょうが、カンナエの戦いの前にここでハンニバルとファビウスの戦いがあったのではないのだと思います。このカシリヌムは216年から215年にかけての冬の戦いで、カルタゴ軍が奪取するので、そのときの戦いのことではないかと思われるのですが、まだ調べがついていません。〔4:50am 追記: 間違っていました。紀元前212年の "Battle of Capua (212 BC)" でした。〕ヌミディアというのは今日のアルジェリアにあたるアフリカ北部の古王国ですが(ついでながら nomad の意)、騎兵で知られるところのようで、要するにハンニバル軍の騎兵兵力です。

  ということで、いろいろ調べがついておらんのですけれど、調査は続行するとして、現時点で二点書きとめておきたいと思います。

  ひとつは、ジュディーが、勉強の分野 (field) を、戦場 (field of battle) と見立てて、「戦況報告」をしていることです。それはつづく12月19日付の手紙のなかの土曜日の数行の短い文章にも表れています。――

I have the honor to report fresh explorations in the field of geometry.  On Friday last we abandoned our former works in parallolopipeds and proceeded to truncated prisms.  We are finding the road rough and very uphill.  (Penguin Classics 25)
(幾何の領野における新たな探索を報告する光栄に浴します。先の金曜日に我々は平行四面体の作業を断念し、截頭角柱に進みました。道は荒れて険しいと我々は見ております。)

  あるいは、記事「洗濯釜 Washboiler」で引いたクリスマス休暇時の行進の絵も、同じイメジャリーのなかにあるでしょう。

  もうひとつは、ファビウスをここで言及することの伏線的意味合いなのですが、これは思案中なので、先送りにします。デハマタ。

    ・・・・・・やっぱ、ついでに覚え書的にもひとつ書き留めておくと、watch というのは、古代ローマで夜間を3ないし4ないし5に分割した区切りのことで、船乗りの夜間の見張りへと受け継がれ(?)るわけですが、まだ調べ中ですから断言できませんけれど、上の第一と第二の引用の watch がどちらも 4th watch だというのが気になります。前者(the Battle of Lake Trasimene トラシメヌス湖畔の戦い)はどうやら早朝3時間の戦いなので、あたりなのでしょうけれど、ふたつめのは手紙が11月15日付で、戦いが11月13日木曜日の 4th watch というのが気になります。だいたい曜日まで書けるのはなぜでしょう? 万年カレンダーがあったって、暦日の確定は中世以前はむつかしいです。そうすると、実は2日前の実際の大学の授業時間のことをふざけて指しているという可能性はないでしょうか。自信3パーセントしかないです。ただのメモ。

  ・・・・・・塩野七生でも読むしかないか。


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