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「私の青春時代と恋愛――私は恋愛とともに成育する」――佐藤春夫の「わが恋愛生活を問はれて」 [魂と霊 Soul and Spirit]

のちに『退屈読本』におさめられる佐藤春夫 (1892-1964) のエッセー「わが恋愛生活を問はれて」の初出は『婦人公論』大正10 (1921) 年10月号(初出時のタイトルは「私の青春時代と恋愛――私は恋愛とともに成育する」)。

考えへ込んでゐては結局言へない。フランクに言ふより外に手がない。で、僕の霊の上に影を落としてる女は五人ある。

に始まるが、佐藤春夫の霊の上に影を落としている「女」は生身の女ではない。――

  第一。これは拙著「殉情詩集」のなかに歌はれてゐる「少年の日」である。要するにお伽話〔お伽噺に傍点(`)〕で、相手は僕にとつて先づお伽話の王女だ。
  〔・・・・・・〕
  第三。これは一部の小説〔小説に傍点(`)〕だ。
  第四。これは第三のものよりも多く小説〔小説に傍点(`)〕だ。どうも少々ストリンドベルヒの縄張りだ。
  第五。小説でもなければ抒情詩でもない。言はば、叙事詩だ〔叙事詩に傍点(`)〕。いや手の込んだ押韻戯曲だ。だがこれ以上を今は問はないでくれ。ここにベルレイヌにこんな詩がある――

  もっとも、過去の自作はそれぞれ背後に女性を秘めているということが研究者からは指摘されていて、第一は大前俊子(中村俊子)、第二〔「これは同じく「殉情詩集」のなかの「ためいき」だ。これは要するに事件そのものが叙情詩だ〔叙情詩に傍点(`)〕。僕は足かけ三年思つてゐて、その人と口を利いた事は十ぺんとはない。もう八年ぐらゐ前のことだ。だが、若し私が今この人と二人きりで出会ふやうなことがあつたら、やはりいくらか胸がどきどきするだらうと思ふ。この人は、私に、常に人生になければならない憧れの要素を私の心のなかへ沁み込ませて消えていつた――ちやうど暮春の夕ぐものやうに美しく。」〕は尾竹ふくみ(安宅ふくみ)、第三は遠藤幸子(川路歌子)、第四は米谷香代子、第五は千代夫人(元 谷崎潤一郎の妻)。やれやれ。 

  そう言って、第五の一節に続いて引用されるポール・ヴェルレーヌ (1844-96)の詩――

たつたひとりの女の為めに
私の霊はさびしい。

今ではやうやう忘れはしたが
私の心も霊も

どうやらあのひとから離れては来たが
しかも私はあきらめられぬ。

〔・・・・・・〕

  たとえば女の子に(春夫はもちろん女じゃないけれど)「私の心はさびしい」といわれたならりりぃの「心が痛い」と同じくらいには容易に共感できるかもしれないけれど、「私の霊はさびしい」といわれたときには、ちょっと引いてしまうのが現代の日本語ではないかしら。そして、春夫訳のヴェルレーヌの第2連は「私の心も霊も」と別扱いしているのです。

要するに以上すべての彼の女たち〔=彼女たち〕に幸あれ。私は時に彼等の或る者を憎むことがあるが、然し憎(し)みは消えやすい。愛はどこかへ霊のうつり香になつて残る。私も彼女たちの誰からも、仇敵と思はれてゐようとは信じられない。私は私の青春をかくもむごたらしく斬り刻んだ私の運命を愛しよう――さうするより外には仕方もない事だ。多謝す、私の故人たちよ、おん身たちは兎に角私に人生を与へた。或る場合には私の理智が欠けてゐた。或る場合には私の意志が弱かつた。しかし私はいつも一途に思ひ込みはした。自他を欺き弄んだことは決してない――さう自ら信ぜられることが私の慰めである。私はいつかは血をもつてこれらのすべてを描き出すだらう。

  あー、故人となったから霊なんだ、と思うとさにあらず、霊が彼女らなのではなくて、彼女らが僕の霊の上に影を宿しているのです。僕の身も心も霊もさみしい。・・・・・・おまえ誰やw。


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