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キボウという名の橋 (2) A Bridge Named "Hope" [歌・詩 ]

希望という名の光について考えていたら希望という名のあなたのことを思い出して、岸洋子の「希望」の話者はなんで毎日のように汽車に乗っているのだろう、という疑問に頭を揺らしていたら、希望という名の夜汽車の歌が浮かんで、つなぎに書き留めたつもりが、敬愛するshjさんからコメントをもらって、それに返答しながら、あれこれ考えた「キボウという名の橋 (1)」のつづきです。

  「また明日」と書きながら1日あいたのは、本が何冊も見つからなかったのと、話が歌詞のはなしからはなれてクソ六かしいところへいきそうでブレーキが働いたからかもしれません。

  本は見つからないのだけれど、いっそWEBをサーフィンして、典拠不詳にテクストを編み上げてみるのもいいかな、と思いつつ、いやいや、自分の頭からなんかひねりだそう、いや、なんだかんだ言ったって、もとから自分の頭にあったものなどなく、知識の蓄積とは原初的な引用のふるまいなんだから、と折衷的に・・・・・・

  先の (1) 〔「キボウという名の橋 (1) A Bridge Named "Hope"」〕で、いささか乱暴にこう書きました――

・・・・・・歌詞全体を吟味するつもりもなく、中心的に考えたいのは最後から2連目です――

雨上がりの君の空に
キボウという名の橋が架かる
ためらえばすぐに消えてしまうから
負けない気持ちで渡りきるんだ

  このあとはリフレインで、「だって、だって、時はいつだって/呆れるくらいわがままだよ、って/なぜかあなたの隣にいるだけで/心の声が響いてくる」でおしまい。

  この一連が示しているのはまことに人間中心主義的 (anthropocentrist) 擬人主義的 (anthropomorphist) 世界観であります。

  人間とモノとコトバの関係を考えるときに、20世紀の示唆的な文章のひとつはフランスの小説家アラン・ロブ=グリエの1958年の評論「自然・ヒューマニズム・悲劇」でしょう(これは『ヌーヴォー・ロマンのために』におさめられているはずですが、その本が見つからない)。

 ロブ・グリエの理論のなかでも、特に忘れてはならないと思われるのは、その比喩批判、とりわけ隠喩批判です。一言でまとめてしまうと、世界のなかにある事物は人間と無縁に、人間よりも先に存在しているのに、隠喩はそれを人間化してしまい、人間の世界のなかに取り込んでしまう、ということです。だからロブ・グリエは、事物を事物としてことばのなかに存在させるために、隠喩を排除しました。これは「唯物論」を厳格な立場で理解することです。代表作「嫉妬」に出てくる黒人の記述は、そこにまったく意味が付与されていないがゆえに、初めて黒人が黒人として小説のなかで描かれた反人種差別的な記述であると考えられました。不思議な理屈だなあ、と思うひともいるかもしれませんが、こういうものの考え方もあるのです。たとえばストーリーと呼ばれるものも人間が勝手につくるもので、世界のなかには事物や事実が雑然と存在しているのだから、それをそのまま記述するとそこには物語がないことになるのです。ひとをたぶらかすためにわけのわからないことを書いているわけではないのです。*

*NEIMUROYA、「アラン・ロブ・グリエに学ぶこと」、ブログ『文字は殺し、精神は生かす』2008.2.27 <http://muroyanei.blogspot.com/2008/02/blog-post_27.html>

ロブ‐グリエは人間中心的な言葉の用い方、小説におけるヒューマニスティックな比喩の、アナロジーの使用を導く視線をこう規定している。「人間とものとの間にかけられた魂の橋として、ヒューマニズムの視線は、なによりもまず連帯性のしるしである。」1このような視線を批判してさらにこう続ける。「人間は世界を見つめるが、世界は彼に視線を返しはしない。」2この闘いにバルトは連帯を「ロブ‐グリエ派なるものはない」(1958)において表明するのである。「視線は、ロブ‐グリエにあっては本質的に浄化的な行為であり、たとえ苦痛をあたえるものであっても、人間と対象〔もの〕との連帯の切断である。」3人間とものとの古い視線の既成の連帯には異議を申し立てるのではあるが、彼は新しい視線の下(外)への連帯を控えめながら呼びかける。「あらゆる点で共同の闘争に対する欲求を先行させねばならないように思われる」4。**
1) アラン・ロブ‐グリエ/平岡篤頼訳「自然・ヒューマニズム・悲劇」『新しい小説のために』(新潮社、1967)、60項。
2) アラン・ロブ‐グリエ/平岡篤頼訳「自然・ヒューマニズム・悲劇」『新しい小説のために』(新潮社、1967)、67項。
3) ロラン・バルト/篠田浩一郎・高坂和彦・渡瀬嘉朗訳「ロブ‐グリエ派なるものはない」『エッセ・クリティック』(晶文社、1972)、137項。
4) ロラン・バルト/篠田浩一郎・高坂和彦・渡瀬嘉朗訳「ロブ‐グリエ派なるものはない」『エッセ・クリティック』(晶文社、1972)、141項

**Puis Sang-soo、「ロブ-グリエのイノベーションについて」、『Puis Sang-soo's Red Notebook』 <http://sites.google.com/site/puissangsoo/home/report/about_innovation_of_alain_robbe-grillet>

  さてと、どんどんむつかしくなりそうなので、引き戻しておくと、自然の事物を人間の感情や思考や行動のヒユとして使うのって、人間の思い上がりじゃないの、というのがとりあえずのロブ=グリエの批判する人間主義(ヒューマニズム、だけど細かく言えば、それは人間中心主義、擬人主義としてのヒューマニズムだと言える)的隠喩の問題です。

  隠喩(メタファー)とは、とウィキペディアを参照しようとしたがわけわからんことが書いてある(w)ので、とりあえず(都合の)よい例をあげておくと、・・・・・・う~ん、うーん、「人は城、人は石垣、人は堀」(伝 武田信玄)の「城」「石垣」「堀」、♪「愛は空、愛は海、愛は鳥、愛は花、愛は星、愛は風、愛は僕、愛は君」(井上陽水)の「空」「海」「鳥」「花」「星」「風」、そして「僕」と「君」。どうでっしゃろw

  厳密にはメタファーとは、「~のような」(英語だとlike とか as でつながるような)というふうにタトエであることが明示されないヒユの種類なのだけれど、ロブ=グリエ的問題意識からは、「暗い海のような僕の心」だって「暗い谷間のような君の心の奥」だって、「暗い谷間をさまよう心」だって、おんなじ問題を抱えているように思われます。そして、このようなヒユ問題と、文学における情意の反映としての自然、あるいは逆にいえば、自然描写が登場人物の心的状態の「象徴」であるような描写というのも同じ問題を持っていることがわかります。

  「雨がしとしと日曜日、僕はひとりで君の帰りを待っていた」(ザ・タイガース「モナリザの微笑」)、「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃんしとっぴっちゃん/哀しく冷たい雨すだれ/おさない心を凍てつかせ」(橋幸夫「子連れ狼」)

  ジョン・バースが初期の長編小説『フローティング・オペラ』のなかで、作家がどうしようもなく天候の記述を登場人物の心情に重ねて行なってしまうみたいなことを書いている一節がありました(見つからない本の一冊)けど、積極的にはT・S・エリオットのいう「客観的相関物 objective correlative」の説って、人間的主体と客観的自然が相応して作品を構築するわけで、やっぱり人間中心主義的なものなのでしょう(か)。

  ロブ=グリエのエッセイのタイトルには「自然」が入っていて、そのへん、今日のエコロジー的な思想と共振するところもあり、志村正雄の『神秘主義とアメリカ文学』でロブ=グリエの当該論文に触れていたところを参照したく思っただけれど(やっぱり見つからなかった本でした)。

  別方向に話を広げると、ネイチャー・ライティングの系譜の中で、その人間中心主義的姿勢ゆえに批判されることの多いのが19世紀のエマソンですが、エマソンは代表的なエッセイ『自然』の冒頭で、哲学が「自我 Me」と区別するもの、すなわち「魂 Soul」以外の宇宙のすべてのものは「人工 Art」も含めて「自然 Nature」という名前のもとに入れられる(「哲学的に考察すると」 "philosophically considered" という限定が入っていて、「霊」的なものがまだ入ってこないのがミソなのだと個人的には思いますが)みたいなことを言っています。すなわち自我対自然というときの自然ていうのは花鳥風月・海山川森野湖的な自然だけでなくて個としての人間をとりまくものすべてという構図です。

  それで、エマソン批判というのは、ロマン主義批判とつながっていて、その中心は人間中心主義 anthropocentrism という意味でのヒューマニズムの批判(20世紀初めのT・E・ヒュームとか)であったのが、ネイチャー・ライティングやエコ・クリティシズムの見直し・流行とともに擬人主義 anthropomorphism 的な思想が問題にされてきた(それは、主観の投影としての自然とか、人間が自然に対して神にとってかわってふるまうとかいうだけでなく、「言語」――エマソンの『自然』の中心となるのは「言語」の章――を中心としたヒューマニズム思想の問題なのだけれど、ここでは詳述する余裕はないです)。

  さて、問題の所在をなにげに確認したところで、ようやく問題の歌詞に戻って、「雨上がりの君の空」というのは、詩の中では、直前の連の歌詞が「誰もがみんな繰り返していく/Fine after rain 涙と笑顔の Story Maybe/そう、だからこそ立ち止まらないで/歩いてゆこう」なのであるから、「誰もがみんな繰り返」すこととして「Fine after rain」――英語・英文法的にはよくわからんが、雨のち晴れ、ですか?――、そして、それぞれ rain=涙、Fine=笑顔という構図が示されておるのですから、当然のことながら「雨上がり」の「」=rain=涙ということになります。「キボウという名の橋が架かる」「君の空」は、それが現実の空を見上げて、君(の心)を投影しているにせよ、君(の心)を空にたとえているにせよ、実は違いはなく、同じ人間中心主義的思い上がりをはらんでいます。さらに一人が空を占有することによって、個人主義的ヒューマニズムをはらんでいます。

  「俺の空」と「君の空」は個人主義の表現としては変わらない(「マルチャン俺の塩やきそば」とは意味が違う)。

  ところで「キボウという名の橋」について、「ためらえばすぐに消えてしまう」と書かれていることから明らかなように、これは空との関係でいうと実は橋ではなくて虹です。「橋」にせよ「虹」にせよ君(の心)にあらわれた「希望」のヒユなのですから、(希望→)キボウ(→虹)→橋という、かなり屈折した、言語象徴的置き換えが、人間精神を空&天気にたとえる隠喩の伝統にかぶせられているのがわかります。

  だからなに? って、まー、どうでもいいんだけどw

  たぶん、イライラするのは、わけのわからない日本語で、でもそれはこの歌がとりたててということではないのかもしれない。あーあ。

  しかし、気を取り直して、わけのわからなさの焦点を絞ると、「だって、だって、時はいつだって/呆れるくらいわがままだよ、って/なぜかあなたの隣にいるだけで/心の声が響いてくる」という、冒頭と結びで反復されるコトバです。この「心の声」は話者の心の声でしょうか? しょうね。「時」を擬人化するのは普遍的なことかもしらんけれど、呆れるくらいわがままなのはあなたなんじゃないの、と思えて腹が立ってしまうのでした。時は呆れるくらいわがままだから、キボウという名の橋はためらえばすぐに消えてしまうから(「時」によって消されてしまうから)、(時に対して)負けない気持ちで渡りきるんだ、ということなのでしょうけれど。

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  23時過ぎに追記――

  1) あとは、「という名の」という日本語表現の多くに共通する問題だと思うのだけれど、「名」を付けるのは誰? 名指すのは誰? というのがイライラさせられる問題なのかもしれません。「希望の橋」といわれれば、はー、ヒユですね、ととりあえず了解しますけど、「キボウ(希望)という名の橋」と言われると、なんか橋ゲタに「希望」という名前が刻まれているような感じ。このモッテマワッタ感じにいらいらするのだと思われ。

  2) (人間が)名前をつけることによって初めてモノが存在するみたいな人間中心主義と類比的な自分勝手さを「という名の」という表現は臭わせていると感じられるのかも。


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