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半分と四分の三 Half and Three-Quarter Bindings [Marginalia 余白に]

チャールズ・L・ウェブスター社の『ハックルベリー・フィンの冒険』の案内チラシ(prospectus, flyer)で "Half Morocco" とされている、いちばん高いアメリカ版初版が売られていた(すでに売れていたけど)のを見ました。――

IWH5087B104.jpg
image: Ziern-Hanon Galleries at GOAntiques.com <http://www.goantiques.com/detail,adventures-huckleberry-finn,321843.html>

  本についての詳しい記述の半分くらいを引いておきます。――

FIRST EDITION, FIRST PRINTING, FIRST STATE. Square Octavo, original three-quarter brown publisher's morocco and marbled boards, marbled edges, gilt-decorated spine, marbled endpapers. First edition, first printing, first state of Twain's masterpiece, one of approximately 500 copies bound in publisher's three-quarter morocco binding. Copies of Huckleberry Finn were assembled haphazardly by the printer and there has yet to be agreement among bibliographers as to the priority of many points: This copy has all of the commonly identified first state points. First issue points include: On page 13, the list of illustrations has "Him and another Man" listed on page 88 (first state -- this was corrected later); Page 57 reads "with the was" (first state, this was later corrected to "with the saw"); page 9 with uncorrected "decided" (first state, this was later corrected to "decides"); Illustration on Page 283 with straight fly line (second state, curved line preferred); Copyright page dated 1884, as usual; signature number "11" on page 161 missing (first state); Final "5" dropped on page 155 (this was later replaced with a five of a different typeface); Dropped "I" in "Col," on page 143 and in "body" the "b" is broken. Frontispiece portrait shows sculptor's name and has the "Heliotype Printing Company" imprint (no priority is assigned because this was separately printed and tipped in).

  書誌学者(文献目録編纂者)のあいだでもまだ議論があるようなことも書いてありますが、とりあえず異同のメモとして引いておきます。

  気になったのは、"original three-quarter publisher's morocco"、"publisher's three-quarter morocco binding" というふうに、「ハーフ」ではなくて「四分の三」と記述していることです。このあと、マック・ドネルというひとの書誌からの引用があって、そこでも確かに「四分の三」となっています。――

"The relative rarity of the cloth and leather bindings is clear. Less than two weeks before publication, [the publisher] Webster announced that he was binding 20,000 copies in cloth, another 2,500 in sheep, and 500 copies in three-quarter leather. The remaining 7000 copies of the first printing were probably bound up in similar proportions. Leather copies dried out, cracked apart, and have survived in even fewer numbers than the original production numbers would promise" (MacDonnell, 35).

  たぶんテキサス州オースティンの Mac Donnell Rare Books の店主で、ポーとかメルヴィルとかマーク・トウェインなどの初版本蒐集や文献目録作成で知られた Kevin B. Mac Donnell だと思うのですが、詳しいことは知りません。出版2週間前のチャールズ・L・ウェブスター社の広告ではクロス装を20000部、シープ革装を2500部、四分の三革装を500部となっていたそうです。

  よくわからんのは、記述の最後のまとめには

      [. . .]       Maker: Mark Twain
                         Title: Huckleberry Finn First Edtion, First State, Publisher's Leather Binding
     Style: Half morocco leather binding
     Type: half morocco leather binding

    と、ふたたび「ハーフ」と書かれていることです。ハーフ装なのでしょうか、4分の3装なのでしょうか? そもそも半分と四分の三ってどうちがうのでしょう?     

  オックスフォード英語大辞典を見ると、"half-binding" は、"A style of binding of books in which the back and corners are of leather, the sides being of cloth or paper" と定義しています。背と角の部分が革で、サイド(なんて訳したら適当かわからず)は布または紙になっている本の装丁スタイル。そして、ちょっと意外だったのですが(無知だったとも言う)、もともとアメリカニズム (orig. U. S.) で、初出は1821年でした。用例のふたつめは1864年のウェブスター辞典のタイトルだけ出ていて、つまり、ウェブスター初版の改訂版でこの語がおさめられた、ということです。

  "three- quarter" を見ると、2番のD に複合語と連語が並んでいるなかに、"three-quarter binding" があって、"a style of bookbinding having more leather than half-binding: see quot." (ハーフ装よりも多くの革のある本の装丁のスタイル――用例参照)と書かれています。用例を見ると、"*Three quarter binding is a very wide back and large corners. The sides may be of anything, paper, cloth [etc.]." という1897年の文章が引かれています。

  勝手に推測するに、総革 (full leather; full binding) に対してつくられたハーフ装 (half binding) というのがそもそもきっちり半分ではなくてアバウトにつくられ、それと差異化すべく豊富に革を使ったものが四分の三装 (three-quarter binding) と呼ばれてつくられた、ということなのかしら。

  神保町の老舗の古本屋の雄松堂のウェブサイトのなかにある、「新・古書への扉:ビアボーム「全集」-装丁を眺める」というページ(Net Pinus 64号: 2006/06/26)には、「この全集の装丁は全てが革ではなく、背と、背とは接していない角の部分が革で、残りはクロス(布)で覆われています。このような装丁を「半革装」(half bound)と言います。[写真5](*2)」という記述があります。

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[写真5] image: 雄松堂 Net Pinus 64 <http://yushodo.co.jp/pinus/64/door/index.html>

    注の2番は「実際に古書目録の中に出てくる表記は、使われている材料が明記されていることがほとんどです。モロッコ革が使われている場合にはhalf morocco(半モロッコ革装)、子牛革の場合はhalf calf(半子牛革装)と表記されています。また、背だけが革の装丁は quarter bound (背革装) と呼び、この場合にも、目録の中ではquarter calf(背牛革装)とかquarter morocco(背モロッコ革装)と表記されます。[写真6]」というものです。

  このマックス・ビアボーム全集の装丁は、上の『ハック・フィン』と比べて、むしろ革の部分が多いようにさえ見えます。

  本の厚みによって背に使われる革の量が変わるのだから、純粋に2分の1とか4分の3とか面積で決まっていてあまったぶんは表・裏表紙にもってくるとかいうのでなければ、それぞれアバウトで、4分の3も「ハーフ」の中に入れることもあるのでしょうか。同様に背革 quarter (leather) binding も厳密に4分の1とは思えません(わかりませんが)。

  久永内科の久永光造さんの古書サイトのなかの「本の装丁について」 というページも楽しいです。ハーフ・モロッコ装の例としてあがっているなかにつぎの本があります。――

↓表紙は ハーフ モロッコ です マ-ブル紙とモロッコ皮との境界には金箔による金線が入っています  マーブル紙は大理石様の模様以外に左上から右下にかけて かすかに うすい帯状の平行線が見えますが これは透かしマーブル紙といって非常に製作困難で マーブル紙としては最も高級なものです ハーフモロッコといってもこの程度のもにもなると へたなフルモロッコより好まれ高く評価されています

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image: 「本の装丁 モロッコ革 マーブル紙 べラム 久永内科 久永光造」 <http://www4.ocn.ne.jp/~hisanaga/soutei.htm>

  ということで、ハーフというのは(意味の)幅が広いのかなあ、と。

  一生懸命、「四分の三」を明記している本を探すと、つぎのようなものが見つかりました。――

emersonaddress1844b.jpg
image: "Sample Offerings," Seneca Books, LLC. <http://www.senecararebooks.com/Sample_Offerings.html>

  " Bound in three-quarter brown morocco, raised bands, and gilt lettering." と記述されています。

  もうひとつ「ハーフ・モロッコ」の例――

153664.jpg
image: Louella Kerr Books - Catalogues- <http://www.louellakerrbooks.com.au/cat113.htm>

    やっぱり古本屋さんのサイトです。記述――

BUTLER, Samuel
Erewhon
London, Trubner & Co, 1872. First edition ppviii, 246, [2 blanks]. Roy 8vo, bound in half morocco with marbled boards by Sangorski & Sutcliffe, original brown cloth covers bound in at rear. A very fine copy

  Sangorski & Sutcliffe というのは、1901年に創設された、イギリスの有名な装丁工房会社で、ウィキペディアにも載っています。1872年の初版本を装丁しなおしたのですが、オリジナルのクロス表紙は最後に綴じてある、ということです。

  面積の計算をしてみようか、と一時は思ったのですが、すっかりやる気がなくなりましたw。

/////////////////////////////////////////

"History of Sangorski & Sutcliffe" <http://www.bookbinding.co.uk/History.htm> 〔Sangorski & Sutcliffe のHP。宝石を入れた有名な『ルバイヤート』や工房の写真あり〕

"Publications" Department of Preservation & Collection Maintenance, Cornell University Library <http://www.library.cornell.edu/preservation/publications/> 〔コーネル大学図書館〕

"September 2003 Fine Art and Antiques Auction Catalog" Aspire Auctions, Inc. <http://www.aspireauctions.com/auction23/3864.html> 〔quarter から half, three-quarter, full まで出品あり〕


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『おちゃめなパッティ大学へ行く』のエピグラフについて Epigraph to _When Patty Went to College_ [When Patty]

このあいだ本の部分の名前について書くときに、ジーン・ウェブスターの When Patty Went to College (1903) を参照したのですが、その献辞 (Dedication) が気になって、内田庶訳『パティ、カレッジへ行く』(講談社マスコット文庫、1967年)を底本として組みなおしたブッキング(復刊ドットコム fukkan.com を楽天と共同で運営している出版社)の『おちゃめなパッティ大学へ行く』(ブッキング、2003年)を開いてみました。そしたら、案の定というか、献辞は訳されておらないのでした。翻訳ってこういうことがしばしばあります。ちなみに『あしながおじさん』の献辞は "TO YOU" (あなたへ) という、謎めいたものです。まだ奥さんと別れられずにウェブスターと結婚できないでいるマッキニーを指しているという説がなんとなくまことしやかに有力ですが、幼いひとびとがこれを見ると、「わ、自分のために?」とよい誤解をする可能性もあるし、いや、それは誤読でないかもしれない。作品の構造を考えてみると、手紙の書き手であるジェルーシャ・アボットの声と、その手紙を編集した誰か(著者?)の声がかさなって、手紙の宛て先を示しているようにも結局思われます(だから、あなた=読者でいいのかもしれない)。・・・・・・

  さて今回のおはなしは献辞ではなくてエピグラフについてです。エピグラフ (epigraph) というのは、作品の冒頭や、章の冒頭に置かれて、あとにつづく本文の内容をそれとなく暗示しつつ、一種の「銘」として、読んだ後でああ、なるほどと響き合っていることがわかるような文章のことです。引用の場合が多いです(ということは他のテクストと関係性を築くという働きもあります)。題辞とか銘句という、パソコンで一発変換してくれない熟語に訳されることもありますが、カタカナで呼ぶことのほうが文学関係では多いかと思います。

  で、『おちゃめなパッティ大学へ行く』には、目次と本文(1 ピータースは情にもろい)とのあいだの7ページに、つぎのような詩が刻まれています。――

リラのさかりも
バラのさかりも
ことしの春はもうこない
リラのさかりも
バラのさかりも
ナデシコのさかりも
すぎてしまった
     モリス=ブショール

  しかし、自分のもっているセンチュリー初版にはこういうエピグラフはついていませんでした。ですから気になって、プロジェクト・グーテンベルクの e-text <http://www.gutenberg.org/files/21639/21639-h/21639-h.htm> と、Grosset & Dunlap 社の1913年のリプリントの e-text <http://www.archive.org/stream/whenpattywenttoc00websiala#page/n5/mode/2up> を見てみました。が、やっぱり見当たりませんでした。それらしいコトバで検索をかけても見つかりません。

  で、謎です。

  訳者が挿入したものなのでしょうか。わかりませんが、注釈だけ書き留めておきます。モ(-)リス・ブショール Maurice Bouchor, 1855-1929 はパリ生まれの詩人・彫刻家です。1875年の詩集 Poèmes de l'amour et de la mer (『愛と海の詩』)の第2部 La mort d'amour (「愛の死」)におさめられているのが "Le temps de lilas et le temps de roses" (「リラの時とバラの時」)という16行詩で、7行に分かち書きされた引用は、その第一連の訳であるようです。――

Le temps des lilas et le temps des roses
Ne reviendra plus à ce printemps-ci;
Le temps des lilas et le temps des roses
Est passés, le temps des oeillets aussi.

    Korin Kormick による英訳――

The time of lilacs and the time of roses
Will no longer come again to this spring;
The time of lilacs and the time of roses
Has passed, the time of carnations also.

  この詩は、前に別の歌で参照したことのある The Lied and Art Song Texts Page をみると、フランス語の原詩の歌としては、Charles Bordes, 1863-1909 により "Amour évanoui" として、そして、こちらのほうが有名ですが、Ernest Amédée Chausson (1855-1899) により "Le temps des lilas" として、曲をつけられて、歌われました。
"Ernest Chausson - Le temps des lilas [v: Nathalie Stutzmann; pf: Inger Södergren]

  エルネスト・ショソンはブショールの友人で、1875年の詩集 Poèmes de l'amour et de la mer の詩に1882年から10年にわたって曲をつけて1892年に完成したのでした(タイトルは単数形にして、Poème de l'amour et de la mer 作品19)。もともとオーケストラと声楽のための作曲でしたが、1893年2月にショソン自身がピアノを弾いてデジレ・ドメストというテノール歌手により発表、同年ソプラノ歌手エレノール・ブランと管弦楽でコンサートを開いています。全体で30分足らず。

  以上、メモ。

  「愛の死」ですから、リラとバラの時はわたしたちの恋(愛)とともに死ぬ(最終連――"Le temps des lilas et le temps des roses/ Avec notre amour est mort à jamais.")、という詩であります。いちおう謎のエピグラフなのですけれど、なにを考えていたのでしょうねー。青春時代の喪失なのでしょうか。いやだわー。

    この問題についてはちょっと考えてみようと思います。

Le temps des lilas et le temps des roses

Le temps des lilas et le temps des roses
Ne reviendra plus à ce printemps-ci; 
Le temps des lilas et le temps des roses
Est passés, le temps des oeillets aussi.

Le vent a changé, les cieux sont moroses,
Et nous n'irons plus courir, et cueillir 
Les lilas en fleur et les belles roses;
Le printemps est triste et ne peut fleurir.

Oh! joyeux et doux printemps de l'année,
Qui vins, l'an passé, nous ensoleiller,
Notre fleur d'amour est si bien fanée,
Las! que ton baiser ne peut l'éveiller! 

Et toi, que fais-tu? pas de fleurs écloses,
Point de gai soleil ni d'ombrages frais;
Le temps des lilas et le temps des roses
Avec notre amour est mort à jamais.

 

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Bouchor, Maurice, 1855-1929


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『パティ、カレッジへ行く』の献辞 Jean Webster's _When Patty Went to College_, Dedicated to "234 MAIN AND THE GOOD TIMES WE HAVE HAD THERE" [When Patty]

ジーン・ウェブスターがヴァッサー大学を卒業した2年後の1903年3月、在学中に発表していた短篇小説を編んで発表されたのが、When Patty Went to College (New York: Century, 1903) でした。
  『あしながおじさん』の前年に発表された Just Patty (New York: Century, 1911) は、時間的にはさかのぼって、主人公のパティーがセント・アーシュラ学院という寄宿学校の最高学年(4年目らしい)に進級したところから始まっています。パティーはまもなく大学に親友のプリシラと進学することを決めている、そういう時期のおはなしで、全12章ないし12の物語からなります。「100年前のセーラー服 (1) Sailor Suits of a Hundred Years Ago」でも書いたように、このセント・アーシュラは、ウェブスターがヴァッサー大学進学前の1894年から1896年まで通った、ニューヨーク州ビンガムトン市のレイディー・ジェイン・グレイ・スクールというフィニッシング・スクールがモデルになっていると言われています――キャンパスのつくりや、建物の名前や制服など。
  When Patty Went to College のほうは、全15章(長篇小説と考えると)で、パティーが4年生に進級したところから話ははじまり、まもなく卒業という春の一日ではなしは閉じています。どこにも校名は出てきませんが、自伝的なものが反映されているならば、出版の事情から考えても、『あしながおじさん』のなかでジュディーの初めて出版社に売れた短篇小説が大学生活に取材したものであったことなどから考えても、ヴァッサーがモデルになっていると考えるのが自然です。し、実際、湖が校舎の裏手にあるとか、パティーが地元の新聞社の報道員として大学生活の記事を書く(ウェブスターは地元ポーキプシーの新聞 Poughkeepsie Sunday Courier のコラムを1週3ドルの原稿料で書きました〔Elaine Schowalter, Introduction x〕)とか、ヴァッサーにおけるウェブスターの姿を彷彿とさせる要素はいろいろあります。
  そして、この本は、人ではなくて、部屋(とそこにおける時間)にささげられています。――

Patty(1903)_dedication.jpg

  "To 234 Main and the Good Times We Have Had There"

    「234 Main と私たちがそこで過ごした楽しい時間に」

    本文に大学の名前は出てこない、と書きましたが、パティーがプリシラとふたりで住んでいる部屋は 399 であることが最初の物語で示されています――"By ten o'clock that night the study carpet of 399 was neatly folded and deposted at the end of the corridor above, whence its origin would be difficult to trace." (その夜の10時には399号室の書斎のカーペットはきちんとたたまれて上の階の廊下の端に置かれ、どこから来たのかたどるのは困難となった); "the study floor of 399 was a shining black" (399号室の書斎の床は黒く光っていた) ("Peters the Susceptible" 15)。

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4年生のパティーと用務員のピーターズ

  それから、この最初の話で辞書をもらいにセーラー服姿でやってくる新入生のGenivieve Ainslee Randolph (彼女はなぜか Lady Clala という名前にされてしまいますw)が Emily Washburn とイタリアから来たOlivia Copeland と3人で住んでいるのが321号室であるのは9番目の話で示されています――

She was sitting on a window-sill in the corridor, pondering on the general barrenness of things, when she suddenly remembered her friends the freshmen in study 321.  She had not visited them for some time, and freshmen are usually interesting at this period.  She accordingly turned down the corridor that led to 321, and found a "POSITIVELY ENGAGED TO EVERY ONE!" in letters three inches high, across the door.("Patty the Comforter" 136-137)。
(パティーは廊下の窓の敷居に腰かけて、ものごと全般の不毛さを思いやっていたが、ふいに321号室の新入生の友人たちを思いだした。パティーはしばらく訪ねていなかったし、それにこの時期〔試験前の時期〕の1年生はたいがいおもしろい。それでパティーは321号室につづく廊下を歩いていって、ドアに、「どなたも絶対入室お断り!」とたて3インチの文字で書かれているのを発見した。)

  ジーン・ウェブスターがヴァッサーでどの部屋に暮らしていたのか、調べがつきませんでしたが、2年生のときに Adelaide Crapsey と同室になった、ということは確かです。そしてその年には、 class president となる Margaret Jackson とも一緒で、3人部屋(というかそれぞれのベッドルームと共同の書斎一室からなる suite)でした。

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1年生のオリヴィア・コープランド

  (ちなみに『あしながおじさん』では、以前書いたように、ジュディーたちの部屋のあるファーガスン・ホールは1907年に建設される9階建ての「塔」をもった Jewett House がモデルだと思うのですけれど、部屋番号は、1年生のときは個室で215号室、2年生のときは258号室です(1年のときに同じフロアで二人部屋だったサリーとジュリアのふたりと今度は一緒に3人部屋に入ります)。

Daddy-Long-Legs(Century,1912)100.jpg
Daddy-Long-Legs (Century,1912) 100

  サリーは class president に立候補して当選し、結果「「258」 のわれわれはいまやたいへんな著名人になっています」 (We're very important persons now in "258.") というところで部屋番号がでてきます (Century 113/ Penguin Classics 53)。

  同室の同級生が学年委員となるのは作家の伝記と同じです(マーガレット・ジャクソン)。ところでジュディーのモデルは詩人のアデレイド・クラプシーといわれるので、残るひとり、すなわちジュディーに鼻の高さを嫌悪されるジュリア・ペンドルトンがウェブスター自身となってしまいます。これはなかなか刺激的な考えかもしれません(w)。

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2年生のジュディーとサリーとジュリア Daddy-Long-Legs (Century,1912) 114

  と、話がそれましたが、献辞にある "234 Main" がいつの学年のときのものかはわからない(可能性としては同室の相手が変わっただけでウェブスターは234だったということもありえます)のですが、ともかく、Main Building 、つまり建学当初からあった校舎内の部屋にジーン・ウェブスターの思いはささげれておるのでした。独立した寮の建物、ストロング・ハウス Strong House (1893)  とレイモンド・ハウス Raymond House (1897) ではなくてです。

  いま、パラパラと見ていたのですが、どうやらパティーたちの部屋がある建物は Phillips Hall というみたいです ("Impressionable Mr. Todhunter" 51; "Patty and the Bishop" 274)。Main というのは出てきません。ですから献辞は現実の過去、というか、現在完了の時間と空間に対するものだということが確認されます。


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ウェブスターが1年生のときのヴァッサー大学のカタログをまた見てみる Vassar Catalogue for 1897-1898 When Jean Webster Was a Freshman [Marginalia 余白に]

ジーン・ウェブスターが1年生のときのヴァッサー大学の便覧 The Thirty-Third Annual Catalogue of Vassar College をまた見てみました。寮のこととか書いてないかなあと。

  68ページから始まる "The College and Its Material Equipment" という章の冒頭の概説と、一項目の Main Building の記述を書き写しておきます。――

THE COLLGE AND ITS MATERIAL EQUIPMENT. (大学とその設備)

     The College is situated near the city of Poughkeepsie, which is on the Hudson River Railroad, 73 miles from New York.  Electric cars run regularly to and from the city.  The Western Union Telegraph Company has an office in the building.(大学はポーキプシー市近郊に位置する。ポーキプシーの駅はハドソン・リヴァー鉄道路線にあり、ニューヨークから73マイル(約120キロ)。電車が市とのあいだを往復して定期的に走っている。校舎内にウェスタン・ユニオン電報会社のオフィスがある。)
     The College buildings comprise to the Main Building, a structure of five hundred feet long, containing students' rooms, apartments for officers of the College, the chapel, the F. F. Thompson library, and office; Strong Hall and Raymond House, residence buildings; the Vassar Brothers' Laboratory of Physics and Chemnistry; the Museum building, containing the collections of Natural History, the Art Galleries, the Music Rooms, and the Mineralogical and Biological Laboratories; the Observatory; the Alumnae Gymnasium; the Conservatory; houses for the President and for Professors; and various other buildings.(大学の建物は――メイン・ビルディング(本館)(幅500フィートの建物で、なかに学生の部屋、大学職員の住居、チャペル、F・F・トムソン図書館、事務室がある)/ストロング・ホールとレイモンド・ハウス(寮棟)/ヴァッサー・ブラザーズ物理化学実験棟/美術博物館(博物学の収集物と美術ギャラリー、音楽室、鉱物生物学研究室を含む)/校友体育館/温室/学長と教授の住宅/その他種々の建物からなる。)

             The Main Building (本館)

     This building is warmed by steam, lighted with gas, and has an abundant supply of pure water.  A passenger elevator is provided.  Every possible provision against the danger from fire was made in the construction of the building.  In addition to this there is a thoroughly equipped fire service, a steam fire engine, connections and hose on every floor, Babcock extingushers, and fire pumps.(この建物はスチーム暖房、ガス照明で、豊富な真水を貯蔵している。エレベーター備え付け。火災の危険に対するあらゆる可能な対策が建物の建造においてとられている。これに加えて、完全装備の消防隊[? どこに?]、蒸気式消防車[? どこに?]、各階ごとの連結器とホース、バブコック消火器、消防ポンプがある。〔よくわからんです〕
     The students' apartments are ordinarily in groups, with three sleeping-rooms opening into one study.  There are also many single rooms and some accomodating two students.  The rooms are provided with necessary furniture.  The construction of the building is such that even more quiet is secured than in most smaller edifices.  The walls separating the rooms are of brick, and the floors are deadened. (学生の部屋は通例複数室で、三つの寝室が一つの書斎にむかいあっている。個室も数多くあり、また学生二人にむく部屋もある。部屋には必要な家具が備わっている。これより小さな建造物以上にずっと静穏が確保されるように建物はつくられている。部屋を分ける壁はレンガ材で、床は防音にされている。) 〔Thirty-Third Annual Catalogue of the Officers and Students of Vassar College, Poughkeepsie, N. Y.: 1897-98 (Poughkeepsie: A. V. Haight, 1897), pp. 68-69 <http://www.archive.org/stream/annualcatalogue00collgoog#page/n717/mode/2up>〕

  ということで、『あしながおじさん』2年生10月の手紙に描かれた3人の部屋割りはみごとにこの記述にあっていると思われます。

Daddy-Long-Legs(Century,1912)100.jpg

  右下の Corridor (廊下)がどうやら線で示されているところがわかりにくいところかもしれません。たぶん Study だけが廊下に面していて、そこから個人のベッドルームに分かれるのでしょう(自信99パーセント)。

  ちなみに、このあと1893年につくられた100人収容の寮、ストロング・ホールの記述があって、「一人部屋と、二人用の3室からなるスイートからなる」 (It is arranged in single rooms, and in suites of three rooms for two students)、と書かれています。あと、こちらには食堂の記述があって、建物の北の部分に2階分の天井の高さのダイニング・ルームがある (The dining room, the height of which extends through two stories, is at the north end of the building" と書かれています。女子学生のおしゃべりでうるさい食堂のモデルはこの建物のものなんですかね。

  あと、冒頭の Electric cars というのは、いまはやりの電気自動車ではもちろんなくて(といってもガソリン自動車の前にすでに電気自動車は存在していましたけど)、train とは区別される street car というか tram というか、路面電車みたいなものだったのではないかと思います(今日アメリカには一部都市をのぞいて市街電車はなくなっていますけれど、第一次大戦前まではけっこうあったそうで)。 ちょっと調べてみないとわかりませんけれど。・・・・・・とりあえずウィキペディアの記事「アメリカ路面電車スキャンダル」参照。

    あ、それとも the city というのはニューヨーク市のことを指しているのかしら。昔の路線図を調べてみねば。


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建物の向き (1)――建物の向きの指示は大学向きだったっていえるのかい Direction(s) of Buildings (1) [Marginalia 余白に]

マーク・トウェインのコネティカット州ハートフォードの家についての和栗了氏の論文「家のドアを開けないで」で自分は知ったのかと思うのですが、マーク・トウェインの家の玄関は東を向いているのだそうです。「マーク・トウェインの八角形をいれた家 Octagonal Shapes in the Mark Twain House」に孫引きした図面を見ると、精確なところはわかりませんけれど、なるほど、Mark Twain House の画像として多く見られるアズマヤ ("THE OMBRA") は南の方角で、玄関はほぼ真東(下の図で真下)にあるのだと了解されます。

MarkTwainHouse-plan.jpg

 

  さて、マーク・トウェインのことは専門でもないしよくわからんのですが、マーク・トウェインの姉の娘の娘のジーン・ウェブスター(ったって専門であるわけでもないですが)が、どうやらヴァッサー大学の Main Building (「本館」と訳していいものやらいまだ自信なし)に暮らしていたらしいことを、ここ数日の記事で、確認したうえでの話です。

  さっきから探していて見つからないのですが、ヴァッサーの校舎を中心とした建築ガイド本を、ついこのあいだ衝動買いして、自分が過去にかかわってきた日本の大学のいずれに対するよりも深い知識を外国の大学にさらにもちつつある今日この頃なのです。それで、文章を参照(適当な記憶はあるんですけど)するのは先送りにして、図版だけ引いておきます。――

Vassar-AxisPlan.jpg
based on the top figure "Diagram of buildings located along the cardinal axis" of page 31 of Vassar College: An Architectural Tour (New York: Princeton Architectural Press, 2004)

  図の真ん中の大きなインベーダーみたいなのが Main Building です。ここは1865年に完成した最初の大学校舎です。えーと、この図は上が東、左が北、ですけれど、ちょうど南北のラインが通っている北の端にある小さなインベーダーが、1907年建造のJewett House です。後ろの●がタワーです(「塔 Tower」参照・・・・・・ほんとは丸くないです。純然たる八角形でもないです)。

   正門は縦の、東西のラインの下の、つまり西の下のほうの、黒いかたまりの細くなっているところですが、とりあえず、大きいインベーダーが真西を向いていること、つまり本館の正面は西であること、は了解されると思います。

   謎をはらみつつ自分でも混沌とした頭でつづく~♪

  追伸。半分で拙速に出すのは、夕方まちがってほんの数行で一時公開したためでございます。まことにすいませんでした。


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建物の向き (2)――建物の向きの指示は大学向きだったっていえるのかい Direction(s) of Buildings (2) [Marginalia 余白に]

昨晩ののつづきです。

  本、見つかりました。Karen Van Lengen and Lisa Reilly, Vassar College: An Architectural Tour (New York: Princeton Architectural Press, 2004).  引用します。――

The positioning of the campus's first structure, Main, was controversial.  Vassar had wanted to align it with Raymond Avenue but President Jewett convinced him that placement along the cardinal points would serve as an "educating force," and so Main was oriented directly west, toward, but not in view of the great Hudson River.  This early decision to place the college within its larger geographical context was to remain an important force in the future development of this section of the campus, associating the college with its larger habitat―the Hudson River Valley.  All of the buildings located on the flat plain near Main follow this initial alignment.  Later, as the college expanded, building along the Casperkill and Fonteyn Kill would be located in relation to the local landscape, rather than on the established axis, and their siting would follow the topography of the creek beds.  These two contiguous systems are today seamlessly joined by the landscape plan that has evolved incrementally and has been largely created by the Vassar community itself.  (30)
(キャンパスの最初の校舎、メイン(本館)をどの場所に置くかについては議論があった。ヴァッサーはレイモンド・アヴェニューの通りに沿うように望んだが、ジュウェット学長は、方位にあわせて建てることで「教育の力 educating force」として作用するとヴァッサーを説得した。結果、メインは真西を向くこととなり、ハドソン河のほうを向いてはいるけれども河が見える位置にはない。大きな地理的コンテクストに大学を位置づけるというこの最初期の決定は、その後のキャンパスのこの部分の展開に影響力をもって残りつづけることとなった。大学は、ハドソン河ヴァレーという大きな環境と関連付けられたのである。メインのそばの平地に位置する建物はすべてこの最初の配列にならった。のちに、大学が拡充し、キャスパーキルとフォンテイン・キル〔kill というのは、川、水路です〕に沿って建物がつくられたときには、定着した軸線ではなくて、風景との関係で配置されるようになった。つまりクリークの川床の地勢に従ったのである。この2種類の体系は、主としてヴァッサーのコミュニティー自身によってつくられ進展してきた風景計画によって、今日ほころびなく結び合わさっている。)

  ということで、東西南北という方位にあわせた建造と、水系を中心とする自然の風景にあわせた建造が、混在している、ということです。

  このあいだ古いPhotoshop 2.0 が無事インストールできたので、ひまにまかせて色づけしてみました。青いのが後者の建築です。黒いのは東西南北の軸に沿った建物群。ふつうの地図と違って、上が東で左が北です。――

Vassar-AxisPlan,withBuildingsThatFollowtheNaturalTopography.jpg
Figure II, based on the top figure "Diagram of buildings located along the cardinal axis" of page 31 of Vassar College: An Architectural Tour (New York: Princeton Architectural Press, 2004)

  グレーの箇所は川と湖です。メイン・ビルディングの右上にあるのが Sunset Lake、下(西)にあるのが Vassar Lake (元の名は Mill Cove Lake)。ヴァッサー湖と大学のあいだにある広い道が Raymond Avenue です。サンセット湖から北東にのびている川がキャスパーキル、そしてフォンテイン・キルの元の名は Mill-Cove Brook といったので、それはヴァッサー湖とつながっているクリークなのでしょう(自信50パーセント)。ハドソン河はどこにあるかというと、図の下(西)を南北に流れています。下の地図(上が北)だと南北にハドソン河が流れていて、東に大学があります。

 
大きな地図で見る

  目測で、大学からハドソン河まで2マイルは離れていると思われます。

  さて、上に引いた文章でよくわからないのは、創設者のヴァッサーの考えに反対して方位に従った建造を進言した初代学長のジュウェットは、南北に流れる大河ハドソンとの関係で校舎を位置づけたのか(なんだかそういうふうな流れで上の文章は解釈しようとしているように見えます)、それとも、それはそれとして、真西とか真東とか、方位を最重要としたのか(そういうふうに自分は読みたいのですが)、です。ちなみにジュウェットの名を冠した5番目の寮は当初 "North" という名でしたが、図の南北方向(水平方向)の軸の上に、ということは、東西の中心として位置づけられているように見えます。

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The Hudson River Valley, image via "Hudson Valley," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Hudson_Valley>

  ☆ ☆ ☆

  建物の方位で、ヨーロッパ文化において伝統的に際立っているのは、キリスト教の教会です。すなわち、祭壇は東を向くように建造され、教会堂の入口は西でした。太陽がのぼる東を向いて礼拝するのは異教の習慣をいれたのだ、という批判(?)がなされうるかもしれませんが、キリスト教会は、「主の栄光は東から」(「エゼキエル書」43章)を典拠として正当化した、とされています。

  はじめ、はじめチャペルがメイン・ビルディング内にあったということと関係するのかなあ、とも思ったのですけれど、ジュウェットのいう「教育の力 educating force」は、どうも純粋に宗教的なものとも思えないような気もします。それとも結局のところ宗教的なものが背後にあったのかしら。

  『あしながおじさん』3年生の4月の末ごろの手紙に、夜明け前に2マイル歩いて山(One Tree Hill 一ツ木山?)に登り、太陽サンサンご来光を仰ぐエピソードが出てきます。ひそかな太陽神崇拝があったのでしょうか(w)。

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Daddy-Long-Legs (Century, 1912) 226


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ヘイマーケット事件 The Haymarket Affair [φ(..)メモメモ]

前に記事「チョルガッシュ、ゴールドマン、無政府主義 Leon Czolgosz, Emma Goldman, and Anarchism in America [Marginalia 余白に]」や「ウォルター・クレインとメイ・デー(前) Walter Crane and the May Day (1st Part) [カリフォルニア時間補遺] 」で、1886年5月にシカゴで起こったヘイマーケット暴動について書きました。

  いまだに首謀者がわからないこの事件(諸説については英語のWikipedia "Haymarket affair" 参照)は、歴史的には "the Red scare" (大文字で "the Red Scare" というとアメリカ史では1919年から20年にかけての、国際的な共産主義の浸透をおそれた米政府による過激派外国人の国外追放、労働運動弾圧、数千名の共産党嫌疑者の不当逮捕の起こった「赤の恐怖」を指します)の端緒でした。

  事件の3年後に出版され、アナキズムをマルクス思想に根ざすものとして「赤の恐怖」をアメリカ国民に強く訴えるとともに、ヘイマーケット暴動について詳述したのが Michael J. Schaack のAnarchy and Anarchists: A History of the Red Terror, and the Social Revolution in America and Europe; Communism, Socialism, and Nihilism in Doctrine and Deed; the Chicago Haymarket Conspiracy, and the Detection and Trial of the Conspirators (Chicago: F. J. Schulte, 1889) (『アナキーとアナキスト――赤の恐怖と欧米における社会革命の歴史、コミュニズム、社会主義、ニヒリズムの教義と行動、シカゴのヘイマーケット策謀と陰謀者の捜査と審判』)でした。このシャーク(あるいはスカーク?)というひとはシカゴ警察の Captain (いちばん上のひとではないが、部隊を指揮していた)で、捜査や逮捕の中心人物でしたから、それなりに「偏り」があると想像されますが、この本の "commentary" 付きのpdf.ファイルがWEB にありました――"Homicide in Chicago :: Anarchy and Anarchists (1889)" <http://homicide.northwestern.edu/pubs/anarchy/>。でもファイル自体はただのリプリントみたい。でも付随する新聞の切り抜きとか、もうちょっと広いシカゴの文化史関連文書とか、あるいは本自体の多数の図版のリストとか、それなりに見やすく、興味深いです。

  このひとがピンカートン探偵社を使って捜査というか操作をしたり、偽証や買収などの不当なふるまいをしたことは立証されていて、ノーザン・イリノイ大学のどこぞのサイトに引かれている Frank Donner, Protectors of Privilege: Red Squads and Police Repression in Urban America  (Berkeley, CA: University of California Press, 1990), pp.12-22. などは、Schaack をさんざんに批判しています <http://www3.niu.edu/~td0raf1/history498/From%20Frank%20Donner.htm>。

  でも、逆に、ローカルには、警察が弛緩していたシカゴに数年前に赴任した Schaack がドイツふう軍隊風な規律をもちこむことで警察は立て直されたのであり、捜査においては「探偵」として英雄的な活躍をしたのだ、全米的には、彼の600ページに及ぶ詳しい著作によって反共・保守の思潮が高まったのだ、とする考えもあります。

  2006年に Death in the Haymarket: A Story of Chicago, the First Labor Movement and the Bombing That Divided GIlded Age America ( 『ヘイマーケットにおける死――シカゴ、最初の労働運動、金メッキ時代のアメリカを割った爆弾の物語』)を書いた歴史家 James Green のインタヴューが紹介記事 "The Haymarket Riot Remebered: NPR" <http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=5369420> で聞けます。

  以上、メモ。

  このごろとりわけ19世紀末から20世紀はじめにかけての風物の図版に昔以上に興味がわいてきていて、先日、10年以上前に買って本棚の奥に詰まっていた Album of American History という4巻だか5巻だかの大型ハードカバー本を数年ぶりにひっぱりだしました。James Thuslow Adams が主幹となって、たぶん第2次大戦中に編集されたもので、とりあえずひっぱりだすことのできた第3巻1853-1893 は1946年に出版されています。同じ Scribners 社から同じAdams がDictionary of American HistoryAtlas of American History の編集をしていて、姉妹編みたいなものかもしれません。

AlbumofAmericanHistory3-388s.jpg

  テクストは、まあ、なんというか、保守的な立場といえるかしら。「シカゴにおける戦闘的な8時間労働運動の結果として、ストライキ参加者と警察のあいだで何度か衝突が起こっていた。過激派グループによりビラが作成され、警察に対する報復と1886年5月4日のヘイマーケットでの大衆集会を呼びかけた。」というのがいちばん上のパラグラフ。そして3枚の画像それぞれにキャプション的な説明文があります。「集会当日、騒乱が予想される場所に、多数の警察予備隊が配置された。」 「警察が群集に散会を命じたとき、爆弾が投げられ、7人が死亡、多数の負傷者を出した。」 「犯人たちに対する民衆の反発のムードのなか、首謀者の8人が有罪判決を下され、左に示すように4人が絞首刑となった。」

  まんなかの絵は Harper's Weekly 1886年5月15日号からとられていますが、上下の2枚は Schaack の著書 Anarchy and Anarchists から引かれています。下の公開(?)処刑の図は645ページです。Schaack の本は他にも "Execution of the Nihilist Conspirators" 39ページとか、多分に扇情的に処刑シーンを入れているように思われます。サミュエル・ピープスの時代のように広場で "hanged, drawn, and quartered" というような演出(いちおう「Hanged, Drawn and Quartered――『あしながおじさん』のなかのサミュエル・ピープス(4) Samuel Pepys in Daddy-Long-Legs (4) [Daddy-Long-Legs] 」参照)がなされなくなった現代であればこそ、ジャーナリズムや出版が人々におよぼす影響力は強いのかもしれません。

  ちなみに、同じ Album of American History 第3巻の419ページには1889年6月8日の Leslie's Illustrated Newspaper からとられた "Electrocution" の絵があって、その記述によると、電気椅子による死刑はニューヨーク州で1888年に始まったのだそうです。A[lbert] R[ichard] Parsons (1848-87), August Spies (1855-87), George Engel (1836-87), Adolph Fisher (1858-87) の4人が、警官殺害を教唆したとして絞首刑に処されたのは1888年11月11日のことでした。死罪を宣告されていたLouis Lingg (1864-87) は一番若かったのですが、処刑前日に自殺しています。

  扇情的と書きましたが、人の死、とりわけ暴力的な死というのは、心をゆさぶるところがあります。8人の警官と少なくとも4人の労働者が死亡した(そして4人が刑死した)この事件を、"riot" と呼ぶか "massacre" と呼ぶか、"affair" と呼ぶか、あるいは犠牲者を "martyr" (殉難者)と呼ぶときに警官か、警官を含まないのか、立場によっていろいろでしょうが、さまざまに心ゆさぶる事件であったのは確かです。

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Walter Crane, "Anarchists of Chicago" Liberty (November 1894)


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タンスをウィンドウ・シートに改造する Converting a Bureau to a Window Seat [Daddy-Long-Legs]

1月12日の記事「ウィンドウ・シート Window Seat」の最後のところで、「窓辺に腰をおろして外を眺めるのが好きだと思われるジュディーは、大学の寮の部屋の窓が高いので、自分でウィンドウ・シートをこしらえることになります。その工作・工程がよくわからないので、その話はまた別の機会に」と書きました。

  それは、10月10日の手紙で、ミケランジェロの話(「マイケル・アンジェローとミケランジェロ Michael Angelo or Michelangelo」参照)とメーテルリンクの話(「メーテルリンクは新入生の女子の名前か Somebody Mentioned Maurice Maeterlinck, and I Asked If She Was a Freshman」参照)をして無知を語ったあと、部屋の模様替えの話(前段は「茶と黄のシンフォニー  Symphony in Brown and Yellow」参照)に移ってでてきます。

The windows are up high; you can't look out from an ordinary seat.  But I unscrewed the looking-glass from the back of the bureau, upholstered the top, and moved it up against the window.  It's just the right height for a window seat.  You pull out the drawers like steps and walk up.  Very comfortable!
(窓が高いです。ふつうのイスだと外が見えません。でも、タンス (bureau) の後ろからネジを抜いて鏡をはずし、上を布張りにして、窓際に寄せました。ちょうどウィンドウ・シートにおあつらえむきの高さになります。引き出しを踏み段みたいにひっぱり出して、のぼるのです。とても快適!)

  いくつか既訳を並べてみようと思ったのですがバラバラに散らばって参照できませんw。ひとつだけ、白木茂の説明的な訳を――「それから、たんすのこと。これを、ひとことお知らせしておかなければなりません。あたしのへやの窓はとても高くて、ふつうのいすに腰をおろしていたんでは、外がまるっきり見えません。それで、あたしのたんすは鏡台つきなんですけど、この鏡台をはずしてしまって、問題の窓の下におきました。たんすの高さは、ちょうど、窓べりと、おんなじなんです。ひきだしを段々にして、これにあがると、まったくすてきな見晴らし台です。」(正進社名作文庫 24-25)

  ちょうど窓べりとおなじ高さだと危ないと思うんですけど(爆)。

  この一節には、bureau, upholster, window seat という、意味がモワ~ンとしたコトバがん並んでいて、それで最初とまどったのでした。bureau というのは、イギリス英語としては、つまりもともとの意味としては、引き出しつきの(書き物)机 (a writing-desk with drawers) です。これを通例鏡つきの洋服ダンスの意味で使いだしたのはアメリカニズムです。アメリカニズムには dresser というコトバもあって、こちらはbureau より後発で19世紀末に使われだしたようですけど、少なくとも現在ちがいはないみたい。日本語のカタカナコトバとしては、引き出しつき事務机のほうはイギリス英語のbureau から、鏡つき洋服ダンスのほうはアメリカ英語の dresser からいただいた、ということでしょうか。

  それから upholster というのは、第一の意味として、部屋をじゅうたんや家具やカーテンなどで装飾する、家具を取り付ける、という意味、それから二番目に、イスとかソファーに詰め物やスプリングや覆いなどをつける、布張りする、、という意味があります。ここではもちろん二番目の意味ですが、それでも意味が細分しているのでよくわからないのです。まあ、綿とかクッションを入れたうえで表面を布張りするというようなことまでやるとは思われませんので、畳んだ布を上に敷くくらいかなあ、と勝手に想像しています(要するに「アップホルスター」とは呼ぶけれど、実態はほとんどそれではない、みたいな)。

  window seat については前の記事で書いたように、窓の外を見るのに適当な高さ(だから普通の窓との関係だとベンチくらい)の長いすだと思うのです。そして、いま、OED をひいてみたら、"window-seat, a seat fixed under a window or windows, in a room usually in a recess or bay, often upholstered; also a seat by the window in a train, bus, aeroplane, etc." と書かれていました。しばしば "upholstered" されている。なるほど。それでジュディーはこだわったのね。

A-WINDOW-SEAT-BUILT-OUT-FROM-THE-WALL.jpg
"A Window Seat Built out from the Wall" image via "XXI. Window Seat And Cushon Covers," [from Home Furnishing, Practical And Artistic, by Alice M. Kellogg] <http://chestofbooks.com/home-improvement/furniture/Practical-Home-Furnishing/XXI-Window-Seats-And-Cushion-Covers.html>

   upholstered window seat を探していきついたページより。ウィンドウ・シートの歴史が書かれています。もともと厚い壁だったときに窓の下の部分にベンチを設けたのが、壁が薄くなってからもつくられたという話。

  このタンスは卒業生の競売 (Senior auction) で買ったということですし、どうやら5ドル未満だったらしいので、立派なものではないのかもしれません。でも時代が時代ですから、勝手なイメジとしてはこんなものかな――

H01-05_Dresser_Mirror.jpg
「ドレッサーセット」 image via 「ミラノデザイン/ヴェニスシリーズ」 <http://www.milano-design.co.jp/venice.html>

  豪華すぎるでしょうか。ではこんな――

dresser.jpg

  でも長さからいうとこれとか快適そう――

18355686.jpg
image: cana さん@フォト蔵 <http://photozou.jp/photo/properties/228471/18355686>

Dresser-Complete.jpg
image via "A Dresser For Child's Playroom" <http://chestofbooks.com/crafts/popular-mechanics/Mission-Furniture/A-Dresser-For-Child-s-Playroom.html>

  これはアンティークのように見えますが、じつは設計図もついていて、DIY のページです。

Details-of-Dresser.jpg

  ウィンドウ・シートに正座すると部屋の内部に向かうことになり、窓の外に背を向けることになるので、横向き、あるいは斜め向きで座る長さが必要ですよね。完全前向きは子供が電車の窓外を見る姿勢ですが。

  記事「ウィキペディアの外部リンク External Links of Wikipedia」で間接的に紹介したイラストレーター Laura Diehl さんの絵をあらためて見ると、タンスとクッションと窓の関係で苦心したさまがうかがえます――"Laura Diehl Illustration News: Daddy Long Legs (just about done)" <http://ldiehl.blogspot.com/2009/03/daddy-long-legs-just-about-done.html>。足元にチェストの角が出ています。でも奥行きがないです。ブランケットみたいのが手前からチェストの上まで伸びています。手前に何があるのかわかりません(たぶんベッド?)。窓が開いているだけでなく、窓の枠より上に座っています。とても危ないです。

  自分のえらく勝手な計算では、ふつうのウィンドウ・シートは35~45センチの高さで、窓は60~90センチ(適当に書いてます)。ジュディーの部屋の高い窓は少なくとも120から140センチくらいあって、タンスが80センチから100センチくらいかなあと(すっげー適当)w。タンスが70センチ足らずなら段々いらんと思いますし。


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ヴァージニア州リッチモンドのガートルード・スタインと古い馬頭馬繋ぎ柱 Gertrude Stein, Richmond, Virginia, with an Old Horse-Head Hitching Post [カリフォルニア時間補遺]

ガートルード・スタイン Gertrude Stein, 1874-1946 について前のブログ「カリフォルニア時間」で書いたことがありました(タグ: ガートルード・スタイン)。スタインが馬繋ぎ柱と写っている写真が目に留まったので記念に残しておきます。1935年2月7日、ヴァージニア州リッチモンドで古い hitching post を抱えるようす。写真を撮ったのはカール・ヴァン・ヴェクテン Carl Van Vechten, 1880-1964 でした。

Gertrude Stein, Richmond, Virginia. With an old hitching post. February 7, 1935.jpg
Gertrude Stein, Richmond, Virginia. With an old hitching post. February 7, 1935. NYPL Digital Library <http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchdetail.cfm?trg=1&strucID=301008&imageID=483821&word=Hitching%20Post&s=1&notword=&d=&c=&f=&k=0&lWord=&lField=&sScope=&sLevel=&sLabel=&total=2&num=0&imgs=20&pNum=&pos=2>

  ふつうこういう馬頭形の hitching post は、鼻のところにワッカが通っているのが多いみたいです。あー、メキシコでも――

hitching%20post,%20san%20miguel%20centro,%20guanajuato,%20mx.jpg
image via "to jalisco, guerrero, guanajuato, mexico" <http://www.2bits.ca/journal%20pages/on%20to%20jalisco,%20guerrero,%20guanajuato.htm>

前に貼ったの(「拝啓繋柱様 Dear Hitching-Post [Daddy-Long-Legs]」で)のなかでも下のやつとか――

3031624848_a88d28bcbf.jpg
image via flickr <http://www.flickr.com/photos/brevity/3031624848/>
  サンフランシスコのNeil さん撮影。

  わっかは丸とは限りません。

horse_hitch_post.jpg
image: "Horse Head Hitching Post [MISC009 - $230.00 : Things To Sell, Alumnium Products And Oaxacan Bl" Alumnium Things to Sell <http://www.aluminum-thingstosell.com/index.php?main_page=product_info&products_id=125> アルミ製なのかしら。それでも230ドル。

 

でも下のほうにワッカがついているらしいものもあります。――

eagle 1714.jpg

  ううむ。これはとてもわかりにくかったですが、前に貼ったのでもこいつ――

HitchingPost(Philadelphia,19c-953_photo1.jpg
"Hitching Post, Antique Cast Iron Horse, Wm. Adams Fdy. Philadelphia, 19th C." image via Aileen Minor <http://www.aileenminor.com/inventory_details.cfm?item=953>

  もっとも、こいつはあとから考えてみると(あるいは上のも)、馬柱とは別の用途で庭等で使われたものかもしれません。ワッカが小さいのは、馬繋ぎ用だとすると、実用的とは思われず。イライラしそう。

   で、じっと見ながらしばらく考えてみたのですが、ガートルード・スタインが抱いている馬のニヤッと笑った口元の凹みにワッカがはさまっていたのであって、豊胸の脇の少し大きな穴は別目的のもの(たとえばとなりの馬さんとのあいだをとりもつ縄をとおすとか)なのかなあと。

   これ補遺なんすかねー。ホイか。

//////////////////////////

"Gertrude Stein: Part of Life in Pictures by Carl Van Vechten" NYPL Digital Gallery <http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/explore/dgexplore.cfm?col_id=281>

拝啓繋柱様 Dear Hitching-Post

馬繋ぎポスト Hitching Post or Horse Post


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1911年版ブリタニカ(ブリタニカ百科事典第11版) 1911 Encyclopedia Britannica (11th Ed.) [辞書・辞典・事典類]

     Did you ever hear of Michael Angelo?
     He was a famous artist who lived in Italy in the Middle Ages.  Everybody in English Literature seemed to know about him, and the whole class laughed because I thought he was an archangel.  He sounds like an archangel, doesn't he?  The trouble with college is that you are expected to know such a lot of things you've never learned.  It's very embarrassing at times.  But now, when the girls talk about things that I never heard of, I just keep still and look them up in the encyclopedia.  (Jean Webster, Daddy-Long-Legs [New York: Century, 1912])
(ミケル・アンジェロってお聞きになったことありますか?
  中世にイタリアに住んでいた有名な芸術家です。英文学のクラスに出ているひとは、みんなこのひとのことを知っているらしくて、わたしが大天使だと思ったというのでクラス全部が笑いました。彼って大天使みたいに聞こえるでしょ? 大学で困ることは、習ったことのないたくさんのことを当然知っているものと思われることです。ときどきえらくバツが悪い思いをします。でも今では女の子たちがわたしの聴いたことのないことを話しているときは、ただじっと黙っていて、あとから百科事典で調べることにしています。――『あしながおじさん』1年生10月10日)
 

EncycBrit1913.jpg  
1913 advertisement for the eleventh edition of The Encyclopædia Britannica image via "Encyclopædia Britannica Eleventh Edition," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Encyclop%C3%A6dia_Britannica_Eleventh_Edition>

  前に、ミケランジェロ (英 Michelangelo)の名前のつづりがよくわからない、ということを書きました。どういうことかというと、一方で、『あしながおじさん』の1年生10月10日の手紙にある "Michael Angelo" という分かち書きの問題があったのですけれど、それはとりあえず歴史的には解決、しかしもう一方で、ヘルマン・グリムからの英訳書のミケランジェロ自身のものと思われる自署つき frontispiece のキャプションにある、MICHEL AGNIOLO DI BONARROTI という、え!、angel はどこに?、 という綴りの問題があったのです。
  で、Agniolo はまだわからんのですけれど、記事に引いたInternet Archive のブリタニカ百科事典第11版(1910-11)をあとから見たら、見出し語のところで MICHELAGNIOLO (一語)がカッコの中にはいっていました。――

Michelangelo-BritanicaEncyclopedia1911.jpg

  本文を読んでも、"At Caprese, on the 6th of March 1475, his second son Michelangniolo or Michelangelo was born" というところに出てくるだけで、結局わからんです。ちなみに平凡社の大百科事典 (1985) (これは外国語の原語が索引にあるので便利、ということもあって、好きなんです)では、Michelangelo の a にアクセント記号(アクサン・グラーヴ)がついて Michelàngelo Buonarroti となっています(第14巻321ページ)。これの典拠はナニ?

  ということで謎は未解決のままです。

  が、この伝説的なブリタニカ百科事典第11版にあらためて萌えました。仕事場にブリタニカ(たぶん1970年代くらい)があるのですけれど、場所をとるので廊下のロッカーに詰め込んで、おかげで掃除の人はたぶんロッカーを移動できない(重くて)のですが、辞書・事典類は、どこに置いてあるかで使ったり使わなかったりするということはあるでしょうし、ブログにリンクしておけばうまく使えるのではなかろうかとw。トイレに置いて全巻読破する、というのも夢なのですが、そんなにのんびりしていられません。

  で、Internet Archive の e-text を全巻並べておいて、1巻ずつとりだしてパラパラ検索、という、本に近い古典的形態も考えられますが――ほんとはそれやってもいいのですけれど、どれがどの巻なのかわからないのでめんどくさいです・・・・・・つうか、だからこそどれがどの巻かわかるように並べるのは意味あるかもしれないですね、ヒマができたらやってみまーす――この古典的ブリタニカをまとめているサイトがあるので、それでよしとします。1911年版はアナキズムで知られるクロポトキンが記事を寄稿していることでも知られるのかも知れないけれど、そんなことは知ったことではないです。最良のブリタニカ百科として知られておるのです。

  Classic Encyclopedia: Based on the 11th Edition of the Encyclopedia Britannica (pub. 1911) [1911 Encyclopedia Britannica - Free Online] main page: <http://www.1911encyclopedia.org/Main_Page>

  このメイン・ページは Subject 科目が見出しリスト化されています。100 科かどうかはわかりませんが。場所→ヨーロッパ→イギリス諸島→イングランド→ロンドンみたいに階層化され、それぞれからカテゴリーやサブカテゴリーや記事の一覧にリンクしています。

  全体のデザインはウィキペディアを模しているみたいです。同じ位置に検索パネルがあります。でもウィキペディアと違ってていいなあ、と思うのは、大文字小文字の区別とか、人名の場合フルネームでじゃないとうまく出てこないとか、いうことがなくて、それなりに検索がかかることでしょうか。ブリタニカではなくて LoveToKnow のもろもろの情報ページを検索する ("AllLoveToKnow") こともできます(いまのところ興味ないですけど)。

  MICHELAGNIOLO を検索してみると、上に引いたMichelangelo の項目("Michelangelo - LoveToKnow 1911") にだけ出てくる語だということがわかりました。

   ・・・・・・ま、しょうがないですネ。

  記事のテクストにハイパーリンクがあるのもウィキペディアと同じです。

  ☆ ☆ ☆

  dresser を引いてみると、フランス語の dressoir が元と書いてありました。えっ、アメリカニズムじゃなかったの!――


DRESSER, in furniture, a form of sideboard. The name is derived from the Fr. dressoir, a piece of furniture used to range or dresser the more costly appointments of the table. The appliance is the direct descendant of the credence and the buffet, and is, indeed, a much more legitimate inheritor of their functions than the modern sideboard, which, as we know it, is practically an i 8th-century invention. It developed into its present shape about the second quarter of the 17th century, and has since then changed but little. As a piece of movable furniture it was made rarely, if at all, after the beginning of the 19th century until the revival of interest in what is called "farmhouse furniture" at the very beginning of the 10th century led in the first place to the construction of many imitation antique dressers from derelict pieces of old oak, and especially from panels of chests, and in the second to the making of avowed imitations. The dresser conformed to a model which varied only in detail and in ornament. Its simple and agreeable form consisted of a long and rather narrow table or slab, with drawers or cupboards beneath and a tall upright closed-in back arranged with a varying number of shallow shelves for the reception of plates; hooks for mugs were often fixed upon the face of these shelves. Towards the end of the z 7th century small cupboards were often added to the superstructure. The majority of these dressers were made of oak, but when, early in the Georgian period vzir. z 9 mahogany came into general use, they were frequently inlaid with that wood; holly and box were also used for inlaying, most frequently in the shape of plain bands or lines. [. . .]

    "18th century" が "i 8th-century" となっていたり、他にも文字が化けているところがあります。まだ不完全なのですね。

  window seat を引いてみると、つぎのような説明がありました。――

WINDOW SEAT, a miniature sofa without a back, intended to fill the recess of a window. In the latter part of the 18th century, when tall narrow sash windows were almost universal, the window seat was in high favour, and was no doubt in keeping with the xxviii. 2 3 a formalism of Georgian interiors. It differed much in decorative detail, but little in form. It stood as high from the floor as a chair; the two ends were identical, with a roll-over curve, more or less pronounced. The seats and ends were usually upholstered in rich fabrics which in many cases have remained intact. The legs followed the fashion in chairs and were square and tapered, or, somewhat later, round and reeded. Hepplewhite and the brothers Adam designed many graceful window seats, but they were produced by all the cabinet-makers of the period.

  やっぱり文字が違っているところがあるようです。

  ・・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・ 

  ま、いっか。

  念のためはじめてウィキペディアで Window seat を引いたら、最初の段落はまるごと1911年版ブリタニカから取られていました。――

Window seat

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A window seat is a miniature sofa without a back, intended to fill the recess of a window. In the latter part of the 18th century, when tall narrow sash windows were almost universal, the window seat was in high favor, and was no doubt in keeping with the formalism of Georgian interiors. It differed much in decorative detail, but little in form. It stood as high from the floor as a chair; the two ends were identical, with a roll-over curve, more or less pronounced. The seats and ends were usually upholstered in rich fabrics which in many cases have remained intact. The legs followed the fashion in chairs and were square and tapered, or, somewhat later, round and reeded. Hepplewhite and the brothers Adam designed many graceful window seats, but they were produced by all the cabinet-makers of the period.

A window seat may also be built into the recess containing a window.

It can also refer to when a caterpiller skips it cacoon in favor of an immediate transformation to a butterfly after consuming a kiwi vegetable.

In vehicles, where seats are arranged in rows, a window seat is a seat nearest the window. Seats further from the window may be middle seats or aisle seats.

References

 

  ま、いっか。

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  Classic Encyclopedia: Based on the 11th Edition of the Encyclopedia Britannica (pub. 1911) [1911 Encyclopedia Britannica - Free Online] LoveToKnow main page: <http://www.1911encyclopedia.org/Main_Page>

「ブリタニカ百科事典第11版」 Wikipedia  <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%AB%E7%99%BE%E7%A7%91%E4%BA%8B%E5%85%B8%E7%AC%AC11%E7%89%88>

「」


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第11版ブリタニカ百科事典(1911)全29巻リスト (Read Online)  1911 Encyclopedia Britannica (11th Ed.) 29 Vols. Read-Online  [辞書・辞典・事典類]

寒いし花粉症だし外に出る気にならないしひまにまかせて本を並べてみました。Internet Archive で検索すると、11版だけに限っても10種類くらいのさまざまなでどころ(図書館など)の e-text がランダムに並んでいます。コーネル大学所蔵本のe-text は字が薄くボケている感じがして却下、ヴァージニア大学のはページの大きさにデコボコがあるのとやたら重いの(と、どうやらまだ全巻ないらしい)で却下、結果、身元不明 (unknown library) だけれどきれいなのが残るはずが、なぜか全巻そろえられませんでした。しょうがないから1,3,6,8,13,17-19,24,26,27,29――多いw――は Internet Archive 自身の contribution を使用(コーネルと似たようなものですが)。このInternet Archive のテクストと、Project Gutenberg の e-text については 英文 Wikipedia の "Encyclopædia Britannica Eleventh Edition" 参照。次の検索と併用すればいいかもしれません。

☆全巻検索サイト(いずれもテクストは現時点で誤字あり、図版なし)――

・ Classic Encyclopedia: Based on the 11th Edition of the Encyclopedia Britannica (pub. 1911) [1911 Encyclopedia Britannica - Free Online] LoveToKnow main page: <http://www.1911encyclopedia.org/Main_Page>

Online 1911 Encyclopedia Britannica <http://encyclopedia.jrank.org/>

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Volume I  A to ANDROPHAGI <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri01chisrich#page/n5/mode/2up>

Volume II  ANDROS to AUSTRIA <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit12chisgoog#page/n11/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume III  AUSTRIA LOWER to BISECTRIX <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri03chisrich#page/n7/mode/2up>

Volume IV  BISHARIN to CALGARY <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit21chisgoog#page/n9/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume V  CALHOUN to CHATELAINE <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit02unkngoog> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume VI  CHATELET to CONSTANTINE <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri06chisrich#page/n7/mode/2up>

Volume VII  CONSTANTINE PAVLOVICH to DEMIDOV <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit03unkngoog#page/n10/mode/1up> [Cambridge, England: at the University Press / New York, 35 West 32nd Street, 1910]

Volume VIII  DEMIJOHN to EDWARD, the Black Prince  <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri08chisrich#page/n9/mode/2up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume IX  EDWARDES to EVANGELICAL ASSOCIATION <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit04chisgoog#page/n11/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume X  EVANGELICAL CHURCH to FRANCIS JOSEPH <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit20chisgoog#page/n7/mode/1up> [Cambridge, England: at the University Press / New York, 35 West 32nd Street, 1910]

Volume XI  FRANCISCANS to GIBSON <http://www.archive.org/stream/encyclopaediabr24unkngoog#page/n11/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume XII  GICHTEL to HARMONIUM <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit00chisgoog#page/n13/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1910]

Volume XIII  HARMONY to HURSTMONCEAUX <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri13chisrich#page/n7/mode/2up>

Volume XIV  HUSBAND to ITALIC  <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri14chisrich#page/n9/mode/2up>

Volume XV  ITALY to KYSHTYM  <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri15chisrich#page/n5/mode/2up>

Volume XVI  L to LORD ADVOCATE <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit25chisgoog#page/n9/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1911]

Volume XVII  LORD CHAMBERLAIN to MECKLENBURG <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri17chisrich#page/n5/mode/2up>

Volume XVIII  MEDAL to MUMPS <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri18chisrich#page/n7/mode/2up>

Volume XIX  MUN to ODDFELLOWS <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri19chisrich#page/n7/mode/2up>

Volume XX  ODE to PAYMENT OF MEMBERS <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit22chisgoog#page/n8/mode/1up> [Cambridge, England: at the University Press / New York, 35 West 32nd Street, 1911]

Volume XXI  PAYN to POLKA <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit10chisgoog#page/n9/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1911]

Volume XXII  POLL to REEVES <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit14chisgoog#page/n9/mode/1up> [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1911]

Volume XXIII  REFECTORY to SAINTE-BEUVE <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit06chisgoog#page/n9/mode/1up>

Volume XXIV  SAINTE-CLAIRE DEVILLE to SHUTTLE <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri24chis#page/n7/mode/2up>

Volume XXV  SHUVALOV to SUBLIMINAL SELF <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit19chisgoog#page/n13/mode/1up>

Volume XXVI  SUBMARINE MINES to TOM-TOM <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri26chis#page/n9/mode/2up>

Volume XXVII  TONALITE to VESUVIUS <http://www.archive.org/stream/cu31924014592590#page/n7/mode/2up>

Volume XXVIII  VETCH to ZYMOTIC DISEASES <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabrit07chisgoog#page/n11/mode/1up>  [New York: The Encyclopaedia Britannica Company, 1911]

Volume XXIX  INDEX <http://www.archive.org/stream/encyclopdiabri29chis#page/n5/mode/2up>


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大天使ミカエルが踏みつぶすものたち(1) Those Whom the Archangel Michael Treads (1) [ひまつぶし]

いちおう前の記事――
大天使ミカエルのこと The Archangel Michael」 

大天使ミカエルの図像は、いろいろなものを踏みつけにする姿を描いているものが多いです(ジャンヌ=ダルクのヴィジョンに現われるときなどは例外)。出典不詳をものともせずにメモがわりに並べておきます。

1.  michael_by_raphael.jpg
image via "Michaelmas: September 29," Wilson's Almanac free daily ezine <http://www.wilsonsalmanac.com/michaelmas.html>

  これはラファエロ Raffaello Sanzio, 1483-1520 が描いたミカエル。踏みつけられてる相手も羽があるので、人間ではなくて堕天使です。このWilson's Almanac というのは、だいぶ前からあると思うのですが、日ごとにヴィジュアル豊富に伝承や神話やにまつわる記事が書かれていて、おもろいです。

 

2.  archangel_michael_reni.jpg
image via Antony Graf's Blog, 2009 May 23 <http://cftkd.wordpress.com/2009/05/23/obsessed-a-word-the-lazy-use-to-describe-the-dedicated/>

    先の記事にもあげた有名なグイド・レニ Guideo〔Guido Reni 2010.9.9訂正〕 Reni, 1575-1642 の絵で踏まれているのも、おっちゃんではなくて羽の生えた堕天使、もしくは魔王です。英語のWikipedia に引かれている絵のキャプションは――"Guido Reni's archangel Michael (in the Capuchin church of Santa Maria della Concezione, Rome, 1636) tramples Satan. A mosaic of the same painting decorates St. Michael's Altar within St. Peter's Basilica."  Satan と書いています。ラファエロやグイド・レニの絵のあとに書かれるミルトンの『失楽園』(1667) に入り込み流れ出た物語としては、光の天使として神にもっとも近いところにいた Lucifer ルチフェル=ルシファーが神に反逆し、Belial ベリアルや Beelzebub ベルゼバブや Moloch モロクなどの配下の天使たちと一緒に天上界で戦争を起こします。およそ天使の3分の1がルシファー側につき、残りの3分の2と戦うわけです。『失楽園』のおはなしだと、ルシファー軍と戦う神の側の天使としてミカエルとガブリエルとラファエルそろって出てきます、もちろん。で、ルシファーはミカエルにどつかれて天上界を追われて堕ちていき、地獄界の王、Satan サタンとなります。
Dore_paradise_lost_19-SatanExpelledfromParadise.jpg
Satan Expelled from Paradise ギュスターヴ・ドレの『失楽園』挿絵

Dore_Paradise_Lost_1-FallenAngels.jpg
Fallen Angels - Gustave Dore
ルシファー側の天使たちも落っこちて堕天使 fallen angels となります。まー、Devil(s) 悪魔です。Satan を「悪魔」ということもありますけれど、devil に複数形はあっても Satan に複数形はありません。類推的にいうと、天上界のの天使対地下界の悪魔で、悪魔の王がSatan です。ルシファーは神ヤハウェーに対抗するわけですが、構図的にいえば、ヤハウェーの下に天使たち、神と対抗するサタンの下に悪魔たち、という感じ。

  さて、ルシファー=サタンは挽回策を練って、人間を誘惑するのですが、その結果人間もパラダイスを追われることになるわけです。アダムとイヴを楽園から追放する役割をヤハウェーから任せられるのもミカエルです。アダムたちを優しく説諭するのはラファエルです。で、ついでにいうと、その後の歴史(つまりアダムとイヴが時間に落ちてからの時間・空間において)人間と神のあいだで神から人間へのメッセンジャーとしての仲介的役割を天使が担うわけですが、神が直接地上に現われないように、魔王も直接は現われず、悪魔をつかわすわけです。そして、神との契約ではなくてサタン(あるいはそのエージェントである悪魔)との契約を交わすと人間は witch (「魔女」と訳されるけれど、男もウィッチです)として天上界側ではなくて地獄界側に反転します。だから、ヒエラルキーとして、

神 (God)―天使 (angel) ―人間 (man)―|―魔女 (witch)―悪魔 (devil)―魔王 (Satan)      

天上          地                    地獄 

というのがキリスト教の世界像です(たぶん)。

  と、文章が長くなりました。ミカエルが踏みつぶすのがサタンであるのが原型だとして、しかし、その一回きりの出来事を描いているとも思えない図像がたくさんあるわけです。それは結論的に先走っていってしまえば、悪を追放するふるまいとして再帰的に反復しているというか、タイポロジー(予表論・予型論 typology)的に反復しているというか、運命論的に反復しているというか、要するに反復しながら表向き(対象や背景など)変えているのだ、ということなのでしょう。

3.  ArchangelMichael.jpg

    なんだか踏みつけられてみじめな存在。かぶりものをしている悪魔のような堕天使ないし悪魔。いっぽうMというよりSの女王のようなミカエル。キリスト教において天使はおしなべて「無性 sexless」ということになっているのですが、ミカエルは武闘派なので、ラファエロやガブちゃんとちがって男性的に描かれることが多いと思われますが、この絵(といっても誰が描いたか不明ですが)は光線の具合もあって、女性的に見えますネ。古い絵と思いましたが、現代のアイコラみたいなものである可能性もありますが・・・・・・。

 

4.  dragon18.jpg

  "Quis Sicut Deus" (v=u) というのは Michael の名の意味をラテン語で示したもの。sicut=like。「誰が神のようであるか?」

 

5.  Michael4.jpg
Erzengel Michael, Universität Bonn Haupteingang <http://en.wikipedia.org/wiki/File:Michael4.jpg> : "St Michael the archangel, dressed somewhat like a Roman soldier, about to slay the devil (in the form of a dragon) with a fiery sword. He has a shield with the Latin phrase QUIS UT DEUS? "Who is like unto God?", which is a literal translation of the Hebrew name Mi-Ka-'El"  ローマ兵士のなりをした大天使ミカエルが竜の姿をした悪魔 (the devil) を討とうとするところ。ut=as, like。

 

6.  archangel_michael_yellow.jpg

 

7.  Archangel-Michael.jpg
image via Michael <http://www.ministergabriel.net/michael.html> ;or <http://www.youangelyou.com/main.html>

    なんかちゃんと踏んづけてないような(踏み外しているような)図。

 

8.  ArchangelMichael,The.jpg
image via HarvestNETwork - The End Times <http://www.harvestnet.org/basics/endtimes.htm>

  デューラーの版画。

 

9.  archangel_michael_slaying_the_dragon-400.jpg
"The Archangel Michael Slyaing the Dragon - Raphael Art Print, Canvas" <http://www.fineartprintsondemand.com/artists/raphael/archangel_michael_slaying_the_dragon.htm>

  ラファエロ。竜を殺す大天使ミカエルの図。なんかちゃんと題材がありそうですよね。調べてみねば。それはそれとして、このポーズは漫画・アニメで見るような気がする・・・・・・。

10.  Archangel Michael 020208 009_small1.jpg
image via "Church Interior," St Joseph Honey Creek ACTS <http://www.stjosephacts.com/>

  テキサス州 Spring Branch の St. Joseph Honey Creek Catholic Church の祭壇右のミカエル像。

 

11.  450px-Turamichele-2007-4.jpg
Turamichele  <http://en.wikipedia.org/wiki/File:Turamichele-2007-4.jpg> :"Turamichele ("Tower-Michael") is the name of a moving mechanical figure on the Perlach Tower (Perlachturm) next to Perlach church in Augsburg, Bavaria, Germany. It shows the Archangel Michael fighting with the devil. Every year on 29 September (Michaelmas or St. Michael's Day) the Turamichele appears in a window on the west side of the tower. The day is also marked by a big children's party."

  ドイツ、ババリア地方の Augsburg のPerlach 教会に隣接する塔のうえの機械仕掛けの大天使ミカエル像。ババリアといってもフォークダンスの源泉というのでもないと思いますが(いちおーカリフォルニア時間「December 1 ババリアのダンスのいろいろはイロイロか [メイポール周辺]」参照)。

 

12.  archangel-michael-350x440.jpg
image: <http://1800sunstar.com/zzC1LUV/zholydays/saints-angels/gfx-graphics/>

 

13.  giordano2.jpg
Luca Giordano (1634-1705),  la caduta degli angeli ribelli image via Corona di San Michele Arcangelo <http://digilander.libero.it/semper_idem/chiesa/dottrina/Corona%20San%20Michele%20Arcangelo/CoronaSanMicheleArcangelo.htm>

  叛乱天使たちを踏みつけるミカエル。この絵の英語のタイトルとして "Archangel Michael Flinging the Rebel Angels into the Abyss" が通っているようです(たとえば "Cast Down to Earth" とその解説参照 <http://community-2.webtv.net/wrblw/BiblicalArtworks/page5.html>)。  Cf. 「大天使聖ミカエルに向う祈り」 『カトリック教会の祈りとしらべ』<http://hosanna.romaaeterna.jp/prayer/rekinen/michael.html>

 

14.  st_michael_guadalupe.jpg
Saint Michael and Our Lady of Guadlupe, artist unknown, image via Saint Michael and Satan: Reflection on the Book of Revelation 20: 1-3 <http://www.penitents.org/siscoRev20.htm>

  あー、なるほど。「ヨハネ黙示録 the Book of Revelation」に描かれる世の終末において天使軍を率いて竜と戦うとされるミカエルも踏みつけるのですね。そうすっと、終末のイメジが人間の条件の始まり(失楽園)の物語の端緒に反復される、というのが正しいのかしら。ぐるぐるぐるぐると。

 

15.  19161-st-michael-the-archangel-giovanni-di-paolo.jpg
Giovanni di Paolo, St. Michael the Archangel (c. 1440), image via "St Michael the Archangel - Giovanni Di Paolo Gallery - Religious Painnting Art" <http://www.lib-art.com/artgallery/19161-st-michael-the-archangel-giovanni-di-paolo.html>

  ヴァチカンにある15世紀のミカエル像。ヘビ踏んでます、なにげに突きつつ。


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第二次ポエニ戦争とジュディーの戦況報告 Second Punic War and Judy's Reports from the Scene of Action [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月10日の手紙(3通目の手紙)の後半でジュディーははじめて学業についての報告をします。

     And now I suppose you've been waiting very impatiently to hear what I'm learning?
     I.  Latin: Second Punic war.  Hannibal and his forces pitched camp at Lake Trasimenus last night.  They prepared an ambuscade for the Romans, and a battle took place at the fourth watch this morning.  Romans in retreat.
     II.  French: 24 pages of the "Three Musketeers" and third conjugation, irregular verbs.
     III.  Geometry: Finished cylinders; now doing cones.
     IV.  English: Studying exposition.  My style improves daily in clearness and brevity.
     V.  Physiology: Reached the digestive system.  Bile and the pancreas next time.
                        Yours, on the way
                        to being educated,
                                           JERUSHA ABBOTT.  (Penguin Classics 17)
(さてわたしが何を学んでいるのかお聞きになりたくてずっとむずむずしていらっしゃるのではないかと思います。
  I. ラテン語。第二次ポエニ戦争。ハンニバルの率いる軍は昨晩トラジメヌス湖畔に陣を張った。ついでローマ軍の攻撃にそなえて伏兵を配置、今朝第4刻に戦闘を開始。ローマ軍退却中。
  II. フランス語。「三銃士」を24ページと第3変化不規則動詞。
  III. 幾何。円柱を終えて、今は円錐にはいる。
  IV. 国語。説明文を勉強。私の文体は日に日に明晰と簡潔の度を増して改善中。
  V. 生理学。消化系に達する。つぎは胆汁と膵臓。
               教育途上にある
                       ジェルーシャ・アボット)

  とりあえずラテン語について。

  第2次ポエニ戦争はローマとカルタゴのあいだで紀元前264年から同146年のカルタゴ滅亡にいたるまで大きく3度にわたって行なわれた戦いの2期目で、紀元前219年から同211年にかけての戦争をいいます。ウィキペディアの「第二次ポエニ戦争」がなかなか詳しい説明をしています。 

770px-Hannibal_route_of_invasion-en_svg.png
"Route of Hannibal's Invasion of Italy" image: "Second Punic War," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Punic_War>

  紀元前218年5月にカルタゴを出発したハンニバル軍は海岸線に沿って南フランスを進み、9月、アルプスを越えてイタリア北部に現われます。11月、ティキヌス川付近でカルタゴ軍がローマ騎兵を破り、指揮官スキピオを負傷させます(ティキヌスの戦い)。カルタゴ軍は南進し、12月18日、トレビア川岸でローマ軍を奇襲し、大損害を与えます(トレビアの戦い)。年があらたまって紀元前217年――

元老院はガイウス・フラミニウスグナエウス・セルウィリウス執政官に選出、新たに4個軍団50,000名を動員した。両執政官はそれぞれ2個軍団を率いて北上し、分散してカルタゴ軍を待ち構えたが、ハンニバルは彼らの予想を裏切り、アペニン山脈を越えて南下した。フラミニウスはこれを追撃、セルウィリウスとの挟撃を意図していたが、ハンニバルは逆に各個撃破を狙っていた。カルタゴ軍はトラシメヌス湖畔の隘路と丘陵を利用して、進撃して来たフラミニウス軍を伏撃、多大な損害を与えた。(トラシメヌス湖畔の戦い) 〔「第二次ポエニ戦争」〕

  トラシメヌス湖畔の戦いが起こったのは紀元前217年6月のことです。――

紀元前217年6月24日(日付は諸説ある)早朝、フラミニウス率いるローマ軍はトラシメヌス湖畔に差し掛かった。この日は濃霧のために視界が悪く、ローマ軍は接触までカルタゴ軍の存在に気が付かなかった。ローマ軍先鋒とカルタゴ軍重装歩兵の戦闘が始まると、直ちにカルタゴ軍騎兵がローマ軍の後方へ回りこみ、退路を断つと同時にローマ軍を前方へ押し込んだ。この時点でローマ軍は大混乱に陥っていたが、丘陵の陰から軽装歩兵とガリア兵が出現すると混乱は頂点に達した。側面奇襲に成功したカルタゴ軍は、長く伸びたローマ軍隊列を分断し、またたくまにこれを壊滅させた。ローマ軍の前衛がカルタゴ軍重装歩兵の戦列を突破したが、逃亡出来たのは6,000名に過ぎなかった。戦闘は三時間で終了した。〔「トラシメヌス湖畔の戦い」〕

この戦いにおけるローマ軍の死者は15,000名を超え、指揮官のフラミニウスも戦死した。一度は逃亡に成功したものたちも、カルタゴ軍の追撃によって大半が降伏に追い込まれた。一方のカルタゴ軍の損害は1,500名から2,000名程度であった。

  ところで、ジュディーは翌月の11月15日の手紙で、「最新の戦況報告」としてハンニバルの戦いを再び報告しています。――

LATEST WAR BULLETIN!
NEWS from the Scene of Action.

At the fourth watch on Thursday the 13th of November, Hannibal routed the advance guard of the Romans and led the Carthaginian forces over the mountains into the plains of Casilinum.  A cohort of light armed Numidians engaged the infantry of Quintus Fabius Maximus.  Two battles and light skirmishing.  Romans repulsed with heavy losses.
          I have the honor of being,
          Your special correspondent from the front
                                             J. ABBOTT. 
(最新の戦況報告!
戦場よりの報道ニュース。
11月13日木曜日の第4刻、ハンニバルはローマ軍の前衛を敗走せしめ、カルタゴ軍を率いて山を越え、カシリヌム平原に侵入した。軽装備のヌミディア人の騎兵隊はクイントゥス・ファビウス・マクシムスの歩兵隊と交戦。2度の戦闘と小競り合いの末、ローマ軍は多大の損害をこうむって撃退された。
      前線特別従軍記者の光栄に浴する
                        J・アボット)

  この戦いはなんなのか、というと、残念ながら日本語ウィキペディアの「第二次ポエニ戦争」は記述していません。クイントゥス・ファビウス・マクシムスはローマの将軍ですが、トラシメヌス湖畔の戦いにおけるローマ軍の大敗を受けて、元老院により「独裁官」に任命された人。しかし、ファビウスは持久戦を選びます。元老院は戦いを望む声を受けてファビウスの独裁官の任期が切れるとルキウス・アエミリウス・パウルスガイウス・テレンティウス・ウァロを執政官に選出、しかしふたりは紀元前216年8月2日の「カンナエの戦い」でカルタゴ軍に完敗します。カシリヌム(英語 Casilinum の発音だと「キャシライナム」みたいな感じ)は現在のカプア Capua で、イタリア半島南西部のカンパニア州にあった古代都市です。カシリヌムはカンナエの戦いにおけるカルタゴの勝利によって、カルタゴの側につくことを宣言します。この町一帯はクイントゥス・ファビウス・マクシムスは紀元前217年に占拠していたところ。元老院は再評価されたファビウスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスを執政官として建て直しを図ります。上のウィキペディアの地図だと、トラシメヌスとカンナエのあいだにカプアが入っていて、それは正しいのでしょうが、カンナエの戦いの前にここでハンニバルとファビウスの戦いがあったのではないのだと思います。このカシリヌムは216年から215年にかけての冬の戦いで、カルタゴ軍が奪取するので、そのときの戦いのことではないかと思われるのですが、まだ調べがついていません。〔4:50am 追記: 間違っていました。紀元前212年の "Battle of Capua (212 BC)" でした。〕ヌミディアというのは今日のアルジェリアにあたるアフリカ北部の古王国ですが(ついでながら nomad の意)、騎兵で知られるところのようで、要するにハンニバル軍の騎兵兵力です。

  ということで、いろいろ調べがついておらんのですけれど、調査は続行するとして、現時点で二点書きとめておきたいと思います。

  ひとつは、ジュディーが、勉強の分野 (field) を、戦場 (field of battle) と見立てて、「戦況報告」をしていることです。それはつづく12月19日付の手紙のなかの土曜日の数行の短い文章にも表れています。――

I have the honor to report fresh explorations in the field of geometry.  On Friday last we abandoned our former works in parallolopipeds and proceeded to truncated prisms.  We are finding the road rough and very uphill.  (Penguin Classics 25)
(幾何の領野における新たな探索を報告する光栄に浴します。先の金曜日に我々は平行四面体の作業を断念し、截頭角柱に進みました。道は荒れて険しいと我々は見ております。)

  あるいは、記事「洗濯釜 Washboiler」で引いたクリスマス休暇時の行進の絵も、同じイメジャリーのなかにあるでしょう。

  もうひとつは、ファビウスをここで言及することの伏線的意味合いなのですが、これは思案中なので、先送りにします。デハマタ。

    ・・・・・・やっぱ、ついでに覚え書的にもひとつ書き留めておくと、watch というのは、古代ローマで夜間を3ないし4ないし5に分割した区切りのことで、船乗りの夜間の見張りへと受け継がれ(?)るわけですが、まだ調べ中ですから断言できませんけれど、上の第一と第二の引用の watch がどちらも 4th watch だというのが気になります。前者(the Battle of Lake Trasimene トラシメヌス湖畔の戦い)はどうやら早朝3時間の戦いなので、あたりなのでしょうけれど、ふたつめのは手紙が11月15日付で、戦いが11月13日木曜日の 4th watch というのが気になります。だいたい曜日まで書けるのはなぜでしょう? 万年カレンダーがあったって、暦日の確定は中世以前はむつかしいです。そうすると、実は2日前の実際の大学の授業時間のことをふざけて指しているという可能性はないでしょうか。自信3パーセントしかないです。ただのメモ。

  ・・・・・・塩野七生でも読むしかないか。


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社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (1)  Judy the Socialist and Jean Webster the Socialist (1) [Daddy-Long-Legs]

  花粉症の予報と微妙にズレた発症状態に首をひねる今日この頃です。でも目、少しかゆいです(3日前までほどではない)。 

『あしながおじさん』3年生1月11日の手紙は、ニューヨークのジュリア・ペンドルトンの実家をクリスマス休暇に訪問したことの報告ですが、ジャーヴィス・ペンドルトンが社会主義者であることが語られると同時に、ジュディー自身も社会主義者になるという言明が行なわれます。――

     I only saw Master Jervie once when he called at tea time, and then I didn't have a chance to speak to him alone.  It was really disappointing after our nice time last summer.  I don't think he cares much for his relatives--and I am sure they don't care much for him!  Julia's mother says he's unbalanced.  He's a Socialist--except, thank Heaven, he doesn't let his hair grow and wear red ties.  She can't imagine where he picked up his queer ideas; the family have been Church of England for generations.  He throws away his money on every sort of crazy reform, instead of spending it on such sensible things as yachts and automobiles and polo ponies.  He does buy candy with it though!  He sent Julia and me each a box for Christmas.
     You know, I think I'll be a Socialist, too.  You wouldn't mind, would you, Daddy?  They're quite different from Anarchists; they don't believe in blowing people up.  Probably I am one by rights; I belong to the proletariat.  I haven't determined yet just which kind I am going to be.  I will look into the subject over Sunday, and declare my principles in my next.  (Penguin Classics 97)
(一度だけ、ジャーヴィー坊ちゃまがお茶のときにおいでになったときに会いました。が、ふたりでお話をする機会はありませんでした。去年の夏は楽しい時間をもったので、ほんとにがっかりでした。どうやら彼は親類をあんまり好きじゃないみたいです――で、親類のほうでも好いていないことは確か! ジュリアのおかあさんは彼はバランス悪い、と言ってます。彼は社会主義者 (Socialist) です――が、ありがたいことに、長髪で赤ネクタイではありません。ヘンな思想にどこでかぶれたのかおかあさんには想像もつかないのだそうでです。一族は代々英国国教会派だったそうですから。あらゆる種類のミョウチクリンな改革には金を投げ出し、ヨットとか自動車とかポロ競技の仔馬とかいったまっとうなものには少しも使わないのだそうです。でも! そのお金でキャンディーをお買いになりますw。クリスマスに、ジュリアとわたしに一箱ずつ送ってくださいました。
  わたしもいずれ社会主義者 (Socialist) になるだろうと考えています。かまいませんですよね、ダディー? 社会主義者は無政府主義者 (Anarchists) とはまったく違います。人民に爆弾をぶつけたりなんかしません。わたしは当然のごとく社会主義者になるべきなのかもしれません。プロレタリア(無産階級)出身ですもの。でもどういう社会主義者になるかはまだ決心していません。日曜日にその問題をじゅうぶん考えて、このつぎのときにわたしの信条を宣言することにします。)

  社会主義者としての主義・信条 (principles) について、つぎの手紙で書かれています。――

Dear Comrade,

     Hooray!  I'm a Fabian.
     That's a Socialist who's willing to wait.  We don't want the social revolution to come tomorrow morning; it would be too upsetting.  We want it to come very gradually in the distant future, when we shall all be prepared and able to sustain the shock.
     In the meantime, we must be getting ready, by instituting industrial, educational and orphan asylum reforms.

      Yours, with fraternal love,
                                         JUDY.
                                                             MONDAY, 3D HOUR.
                                                         
  (Penguin Classics 98)
(親愛なる同志よ、
  イエーイ♪ わたしはフェビアンでーす。
  それは、待ち、望む、社会主義者です。我々は明日の朝に社会革命が起こることを望みません。それはあまりに混乱しうろたえるところありすぎでしょう。みなが準備ができてショックにもたえられるようになる遠い未来にかけて、きわめて徐々に起こることを望みます。
  それまでにわたしたちは、産業や教育や孤児院の改革にたずさわることで、その準備をしなければなりません。)

 

  訳すだけでなんだか疲れてしまいました。また明日~♪

  と、トンズラしようと思ったのですけれど、ふと本を見ると、まだありました。

  同じく3年生の5月下旬(22日ごろ)の手紙。――

Did I tell you that I have been elected a member of the Senior Dramatic Club?  Very recherché organization.  Only seventy-five members out of one thousand.  Do you think as a consistent Socialist that I ought to belong?  (Penguin Classics 103-4)
(シニア演劇クラブのメンバーに選ばれたってお伝えしていたでしょうか? とても洗練的な組織なんですよ。千人のなかから75人選ばれるだけ。不動の社会主義者としてわたしはそれに入ったものでしょうか、どうでしょう?)

  そして4年12月26日の手紙。――

Haven't you any sense?  Don't you know that you mustn't give one girl seventeen Christmas presents?  I'm a Socialist, please remember; do you wish to turn me into a Plutocrat? (Penguin Classics 113)
(分別がおありですか? ひとりの女の子に17のクリスマス・プレゼントを贈るべきではない、ということ、知らないのですか? わたしは社会主義者です、おぼえておいてください。あなたはわたしを金権家に転向させたいのでしょうか?)

  ううむ。さらにまだあるかも。つづきます。


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社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (2) Judy the Socialist, Jean Webster the Socialist [Daddy-Long-Legs]

社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (1)  Judy the Socialist and Jean Webster the Socialist (1)」のつづきです。もう一箇所、社会主義者 (Socialist) が出てくるところのメモ。

  卒業後10月3日付の、ロック・ウィロー農場からの手紙は、小説が売れて7回連載してから本になることを報告したあとで、プライヴェトな事態をあしながおじさんに相談するものです。ジャーヴィスから求婚されたジュディーは理由をいわずにことわったのでした。――

     Also, I felt sort of bound to you.  After having been educated to be a writer, I must at least try to be one; it would scarcely be fair to accept your education and then go off and not use it.  But now that I am going to be able to pay back the money, I feel that I have partially discharged that debt--besides, I suppose I could keep on being a writer even if I did marry.  The two professions are not necessarily exclusive.
     I've been thinking very hard about it.  Of course he is a Socialist, and he has unconventional ideas; maybe he wouldn't mind marrying into the proletariat so much as some men might.  Perhaps when two people are exactly in accord, and always happy when together and lonely when apart, they ought not to let anything in the world stand between them.  Of course I want to believe that!  But I'd like to get your unemotional opinion.  You probably belong to a Family also, and will look at it from a worldly point of view and not just a sympathetic, human point of view--so you see how brave I am to lay it before you.
(それからわたしはあなたに対しても責任を感じたのです。作家になるべく教育をしていただいたのですから、わたしは少なくとも作家になるよう努力すべきです。あなたの教育を受けておいて、そのままにしてその教育を活用させないなんてとても正しいこととは思えません。でもこうしてお金を返せるようになってみると、なんだか負債の一部をお返ししたような気がしています――それに、たとえ結婚したって作家は続けていけると思います。このふたつの仕事は必ずしも互いに相容れないものではないでしょう。
  このことをずいぶん頭を使って考えつづけています。もちろん、彼は社会主義者で、そして非因襲的な考えをもっています。たぶんプロレタリアート(無産階級者)と結婚することをほかのひとたちほど気にしないかもしれません。もしかするとふたりの人間がすっかり一致して、いっしょにいると幸福で、別れているとさみしいならば、ふたりのあいだに世の中の何ものも邪魔に入らせてはならないのかもしれない。もちろんわたしはそう信じたいのです! しかしわたしはあなたの感情を交えない意見をお聞かせいただきたいと思います。あなたもおそらくはやはり名家に属していて、この問題を世間的な視点からごらんになり、ただの同情ある人間的視点からはごらんにならないかもしれません――わたしが勇気をふるってこの問題をあなたの前に提出していることがおわかりになると思います。)

  つづく

 


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社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (3) Judy the Socialist, Jean Webster the Socialist (3) [Daddy-Long-Legs]

ジーン・ウェブスターが通ったヴァッサー女子大学は共和党寄りで、当時の保守主義として女性参政権を支持しなかったし、学生が参政権活動に参加することも許さなかったようです (Elaine Schowalter x)。しかし、ウェブスターは当初から社会主義に傾倒していて、社会改革に熱意をもっていました。英文学と経済学を専攻したウェブスターは、2年生のときに、のちに詩人となる Adelaide Crapsey と同室になりますが、彼女とふたり、大学のパレードで社会主義のバナーを掲げたそうです。

  2つ前の記事で引いたように、3年生1月の手紙でジュディーが自身を Fabian socialist と規定していることは重要です。まず1月11日の手紙で「社会主義者は無政府主義者 (Anarchists) とはまったく違います。人民に爆弾をぶつけたりなんかしません。」と書いていたジュディーは、つぎの手紙で、自身をフェビアン主義者だというのです。急激な革命が起こることを欲せず、変革を待ち望みながら「産業や教育や孤児院の改革にたずさわ」るのだ、と説明します。

   以前「合衆国と日本が戦争するとか大統領が暗殺されるとかロックフェラー氏がジョン・グリアー孤児院に100万ドル遺贈した場合 In Case War Breaks Out Between the United States and Japan, or the President Is Assassinated , or Mr. Rockefeller Leaves a Million Dollars to the John Grier Hom」(タイトル長ッw)で書いたように、マッキンリー大統領を1901年9月に暗殺したチョルガッシュは無政府主義に共鳴するポーランド系移民でした。それから、1886年5月の ヘイマーケット事件 the Haymarket Affair から、暴力とアナキズムの連結連想は形作られていたでしょう(アナキズムも多様ですし、情報操作的なものもありえたでしょうが)。

  フェビアン協会 (Fabian Society) は1884年イギリスのロンドンで設立された社会主義団体です。1900年に労働党の前身である労働代表委員会が結成されるときに多くのフェビアンが参加していますが、こんにちも労働党に影響力をもつ団体として存続しています(HP <http://fabians.org.uk/>)。トニー・ブレア Tony [Anthony Charles Lynton] Blair, 1953- やゴードン・ブラウン James Gordon Brown, 1951- はフェビアン協会員です。

  その後のロシアのコミュニズムに対して、コミュニズムへの過渡期として社会主義を位置づける考え方と、そうではなくてコミュニズムを目標としない社会主義もあって、イギリスの社会主義は後者の立場が多いようです。

  そのイギリスのフェビアン協会の創設者のふたり Sidney Webb と Beatrice Webb 夫妻がヴァッサー大学を訪問して話をするのが1898年のことでした。Elizabeth Daniels, "Vassar History, 1891-1904" <http://historian.vassar.edu/chronology/1891_1904.html>:

1898, May 9
Mr. and Mrs. Sidney Webb of London, active in the Fabian Society, visited the college and spoke informally on "The Scope of Democracy in England". They were the guests of Professor Herbert E. Mills.

  公の講演というのでなく Herbert E. Mills 教授の客として来訪、「英国の民主主義」について夫妻は話をしたのですが、ジーン・ウェブスターはこのとき2年生です。

  ところで、日本語ウィキペディアの「フェビアン協会」の「1 名称の由来」にも書かれているように、「フェビアン」は例の古代ローマの軍人クィントゥス・ファビウス・マクシムスにちなみます。カルタゴのハンニバルを持久戦で破ったファビウスの戦略が "Fabian strategy" と後に呼ばれることとなったのです。  

200px-N26FabiusCunctator.jpg
Fabius Maximus, Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Fabius_Maximus>

   ということで、記事「第二次ポエニ戦争とジュディーの戦況報告 Second Punic War and Judy's Reports from the Scene of Action」で紹介した1年生11月15日の手紙の戦況報告で出てくるクイントゥス・ファビウス・マクシムスは、ハンニバルに敗れていたのですが、その後のファビウスの持久戦略によって最終的な勝利を得たのでした。以上が先の記事で書いた「ファビウスをここで言及することの伏線的意味合い」です。


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ハンニバル・バルカはバールの愛するものであるか Hannibal Barca, Baal's Blessing [思いつき whimsical fancy]

前の記事「社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (3) Judy the Socialist, Jean Webster the Socialist (3)」 のフェビアンとハンニバルのからみで・・・・・・

思いつきです。書いているうちに、たいした思いつきではないと思い(つき)ましたw。

ハンニバル・バルカHannibal Barca紀元前247年 - 紀元前183年または紀元前182年)は、カルタゴの将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」ないし「バアルの愛する者」を意味し、バルカとは「雷光」と言う意味である。〔「ハンニバル・バルカ」Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AB>〕

  ハンニバルというと、マーク・トウェインが生まれて[2011.1.5訂正]少年時代をすごした(ということは『ハックルベリー・フィンの冒険』の背景にもなっている)南部ミズーリ州北東部のミシシッピ川沿いの田舎町がハンニバルです。でもこれはただの偶然であると思います、いちおう。思いつきとして考えたいのは、ジーン・ウェブスターがハンニバルという語の意味を知っていたかどうか、です。

  研究社の英和大辞典をみると、どうもイギリスでは Cornwall に多い男性名ということですが、語源的には Punic? からギリシア語→ラテン語を経て近代諸語に入ったらしい。で、原義は "favor of Baal" "Baal's blessing" です。

  Baal は英語だと 「ベイ(ア)ル」みたいな発音なのですけれど、バール神というのはセム人の自然神、とくにフェニキアの豊穣の神、ということになっています。Baal 自体はヘブライ語に由来するとされていて、原義は「所有者」「主」です。ですが、キリスト教文化においては「邪神」「偶像神」の代表的なもののひとつとされました。

  セム (Semitic) というのは広い概念なのでよくわからんのですが、セムに含まれるヘブライ語のなかで考えると、カナン地域でを中心に嵐と慈雨の神として崇められていたようです。

本来、カナン人の高位の神だったが、その信仰は周辺に広まり、旧約聖書列王記下などにもその名がある。また、エジプト神話にも取り入れられ同じ嵐の神のセトと同一視された。フェニキアやその植民地カルタゴの最高神バアル・ハンモンをモロクと結びつける説もある。さらにギリシアでもバアル(Βάαλ)の名で崇められた。足を前後に開き右手を挙げている独特のポーズで表されることが多い。〔「バアル」Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB>〕

   ウィキペディアの「バアル」は、ソロモン72柱の魔神の1柱としてのバエルとか、「バアル・ゼブブ」(蝿のバアル=蝿の王)とか、エジプトの嵐の神のセトと同一視されたこととか、「フェニキアやその植民地カルタゴの最高神バアル・ハンモンをモロクと結びつける説もある」とか、またダゴンの子としてのバールとか、すべての神々の母アーシラトまたはアスタルト〔これはイシュタルとかアフロディーテ(つまりローマのヴィーナス)とかと同等視される豊穣と美の女神です〕の息子としてのバールとか、さらに、「コラン・ド・プランシー著『地獄の辞典』の挿絵では、ネコ、王冠を被った人間、カエルの頭をもった蜘蛛の姿で描かれている」とか、いろいろと混淆的に広がる知識を記述しています。英語のウィキペディアの "Baal" のほうが、さらにいろいろ書いてありますが、こちらのほうが奇妙に収斂するのは、Baal を "Satan" とする記述によってです。つまり、民俗的・文化人類学的バールというのと、キリスト教が「異端」「異教」として非正統的な思想を改編するなかでイメジ化されたバールというのは異なるところがあるのでしょう。

  偶像崇拝がユダヤ教によって批判される流れのなかで、さまざまな偶像による崇拝対象、とりわけ土地土地の精霊みたいなもの、がおしなべて baal と呼ばれたという事実が旧約時代にあったようです。

     Early demonologists, unaware of Hadad or that "Ba'al" in the Bible referred to any number of local spirits, came to regard the term as referring to but one personage.  Baal (usually spelt "Bael" in this context; there is a possibility that the two figures are not connected) was ranked as the first and principal king in Hell, ruling over the East.  According to some authors Baal is a duke, with 66 legions of demons under his command.
(初期の悪魔学者たちは、ハダード〔ハッドゥ。バールの元の名〕あるいは聖書の「バアル」が複数の土地の霊を指すことがわからず、ただひとつの存在を指すことばとみなすようになった。Baal (この文脈ではふつう "Bael" と綴られ、もしかすると両者は別のものである可能性もある)は、東洋を支配する、地獄の第一位の王と位置づけられた。一部の著者によれば、バールは公爵で、66のデーモン軍を支配下に置く。)
     During the English Puritan period, Baal was either compared to Satan or considered his main lieutenant. According to Francis Barrett, he has the power to make those who invoke him invisible.
(イギリスのピューリタン革命の時代に、バールは魔王セイタン (Satan) あるいは魔王の第一の腹心とされた。フランシス・バレットによれば、バールは呪文で呼び出す相手を見えなくさせる。)
  While the Semitic high god Ba'al Hadad was depicted as a human, a ram, or a bull, the demon Bael was in grimoire tradition said to appear in the forms of a man, cat, toad, or combinations thereof. An illustration in Collin de Plancy's 1818 book Dictionnaire Infernal rather curiously placed the heads of the three creatures onto a set of spider legs.
  (セム族の高位の神バアル・ハダードは人間、羊、あるいは牛の姿であらわされているが、デーモンとしてのバールは、グリモワール(魔術書・魔導書)の伝統においては、人間、猫、ヒキ蛙、ないしそれらの混合した姿をとってあらわれるとされた。コラン・ド・プランシー1818年の『地獄の辞典』の挿絵は、この三つの生き物の頭をクモの足の上にかなり奇怪なかたちで乗せている。〔"Ba'al" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Baal>〕

  その、クモの足に乗っている3重の頭というのが次の絵です。――

Bael.jpg
Dictionnaire Infernal illustration of Baal; image via "Ba'al," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Baal>

    蝿の王「バアルゼバブ」というのはミルトンの『失楽園』にも出てきて、そこではやっぱり「堕天使」でしたが、見た目イケメンとして描かれていました。コトバとしてはバールの尊称「バールゼブル」(高きバール)をもじった「バールゼバブ」(ハエのバール)が旧約時代のヘブライ人によって蔑称として唱えられたようです。でそのまんま「ハエ」として描かれることもあります(「ベルゼブブ」参照)。――

525px-Beelzebub.png
Beelzebub as depicted in Collin de Plancy's Dictionnaire Infernal (Paris, 1825); image via "Ba'al," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Baal>

  ハンニバルの父親は、もちろん邪神や悪魔を崇拝していたのではなかったのです。バルカという彼らの姓もバル=雷ということでバールとからむんじゃないかと思うんですが、ともかく、ハンニバルは父によって主神バールの加護と恩寵を受けるよう望まれてそのように名づけられたのでしょう。

  しかしローマにとってカルタゴはキリスト教以前に異教徒でした(Punic ポエニ というのは、カルタゴを指すローマ側からの呼び名です)し、キリスト教前に滅ぼされてしまいます。フェニキア人の人身御供の習慣は Tophet トペテというエルレサムのそばの地名とくっついて旧約聖書に記述されていますけれど(「エレミヤ書」7章31節)、いけにえがささげられたとされる異教神 Moloch とバールは同一視されることもあるわけです。さんざんです。そしてその後はみな悪魔ないし堕天使扱いです。

  えーと、文章をうまくしめてまとめないといかんのですが、思いつきですから、メモのままに。

  うーん。

  ひとつは、作品中の悪魔と天使がらみで何かつながらないかなー、ということです。それともちろんフェビアン協会的社会主義の問題。よくわからないですね(思いついたようで思いついてない、ということはよくあることです)。

  ちょっと視点を変えるなら、「大天使ミカエルが踏みつぶすものたち(1) Those Whom the Archangel Michael Treads (1)」で述べた踏みつぶされるものたちはほんとうに踏みつぶされるべきものたちなのか、ということもあるかもしれません。それはムシの問題でもあります、もしかすると〔「千本足パート2――脚の話 (5) Thousand-legged Worm, Part 2: Leg Stories (5)」参照〕。いえ、八本足をバールと結び付けたいわけではありません。

  実は作品中 devil というコトバは、2年生8月10日の手紙にしか出てこないし、それもトリの方言名なのでした。でもいちおう「天使と悪魔、天(国)と地(獄) Angels and Devils, Heaven (, Earth,) and Hell」参照。メモのついでに「煉獄と天国の関係はどういうものなのでしょうか The Heaven and the Purgatory」も参照。

  以上、とくに後半は私的メモになりました。はなはだまとまらぬ文章を読んでいただいた方、どうもありがとうございました。

 


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キッドの手袋 Kid Gloves and Kid Mittens [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月10日の日付で始まる手紙は、水曜日、金曜日、土曜朝、日曜日、と書き足される(書き継がれる)のですが、その水曜日の手紙の一節。

Do you want to know something?  I have three pairs of kid gloves.  I've had kid mittens before from the Christmas tree, but never real kid gloves with five fingers.  I take them out and try them on every little while.  It's all I can do not to wear them to classes.  (Penguin Classics 18)
(おじさまにいいことをお知らせいたしましょうか? わたしキッドの手袋を三足持っておりますのよ。前に、キッドの指なし手袋(ミットンズ)はクリスマス・ツリーのをもらったことがありましたが、五本指のほんとのキッド手袋ははじめてです。ひまさえあれば、出してはめてみますの。教室へはめて行きたくてたまらないのですけれど。〔中村佐喜子訳、旺文社文庫、27ページ〕)

  訳者は「キッド」に脚注をつけて、「なめした子ヤギの皮」と書いています。kid は「子ヤギ」(ヤギはgoat)あるいは「子ヤギの皮(革)」の意味で、kid glove というのは、「子ヤギ革の手袋」ですけれど、実際には「子羊 lamb」革のも kid glove として流通しています(オックスフォード英語大辞典ははなから "A glove made of kid-skin, lamb-skin, or other similar leather." と、皮革が比較的アバウトだということを示唆しています。けれども、 kid glove の含みは、上流階級の装う手袋であり、そこから "with kid gloves" というと「上品な、気取った、慎重な」という意味の慣用句となり、形容詞(19世紀末からの用法らしい――もっともその前に "kid-gloved" として19世紀半ばから)として "kid-glove" は、「(キッドの手袋をはめているように)ひどくお上品な」、「きわめて慎重な」という意味合いです。

  動詞の用例として、オリヴァー・ウェンデル・ホームズの、「親の因果が子に報い~♪」という蛇女の物語、『エルシー・ヴェナー Elsie Venner』が記憶にあったのですが、仕事場に本が置いてあるのでどうしようと思っていたところ、ちゃんと OED は用例に挙げていました。――

1860 O. W. HOLMES Elsie V. (1887) 11 The richer part of the community that..kid-glove their hands.

  ただ「キッド(子ヤギ革)の手袋をはめている」共同体の富裕層、ということを言っているのでなくて、いわゆる connotation (内包的意味)として、お上品で繊細な人々という含みです。

  これ、今日の夕方読み直すまで、単に(親指以外が一緒になった=子供用の)ミトンとふつうの5本指の(ほんとの=大人の)手袋の違いを言っているのだと思っていました。でもなんでいっぺんに3組も持っているのか、不思議ではありました。で、ばんめしを食べながら考えて、自信はないのですけれど、つぎのような可能性はあると思います。

  kid は、「子ヤギ」がもとですけれど、人間の子供をいう口語として用いられるようになりました。日本語のカタカナコトバの「キッズ」です。

  それで、ミトン (mittens) という、5本の指全部でなくて親指を入れるとこだけ分かれている手袋が、子供用というイメジがあるとして、だからこそ "kid" gloves なのではないか。

  OED で mitten を引くと、定義に "glove" を使わず、"A covering for the hand, having a single undivided section for the fingers, usually with a separate part for the thumb, and worn for warmth or protection." といった記述ですが、最近 (2005) の小さい Oxford Dictonary of English を見ると、"(usu. mittens)" 〔つまり、通例複数形〕として "a glove with two sections, one for the thumb and the other for all four fingers" というふうに、"glove" の中に入れています。

  そうすっと、クリスマス・ツリーにぶらさがっていたのをもらった "kid mittens" も意味として "kid gloves" の仲間であるだけでなく、ジュディーの持っている3組のキッドの手袋の一部であることが想像されます。  

  逆に、子ヤギ革のミトンというものがあるのかどうかはわかりませんが、少なくとも、高級のほんものがジョン・グリアー孤児院のクリスマス・ツリーにかかっていたとは思われません(じっさい、もしそうなら、あらためてキッドの手袋に感動する意味あいが薄れてしまいますから)。

  であるならば、ジュディーが "kid mittens" というのは、コトバの洒落であって、「子供用の」ミトンという意味ではないか。

  そして、さらにさかのぼって最初の3組の「キッドの」手袋というのも、これまで手にしてきた「子供(キッズ)用の」手袋を、1組、あるいはおそらくは2組、数に入れているのではないか、と考えられるわけです。(自信60パーセント)

kidglove.jpg
image via Bad Attitudes: Jerome Doolittle, Chuck Dupree, and Friends on Politics, Culture, Religion, History, Whatever January 2010 Archives <http://badattitudes.com/MT/archives/2010/01/>

From Paul Krugman:

For there’s a populist rage building in this country, and President Obama’s kid-gloves treatment of the bankers has put Democrats on the wrong side of this rage. If Congressional Democrats don’t take a tough line with the banks in the months ahead, they will pay a big price in November. 

  オバマ大統領の銀行家たちに対する慎重でやさしい処遇を言っていて、"treatment" を修飾する形容詞が "kid-gloves" です。 "kid-glove" か "kid-gloved" のまちがいじゃないかと思って、文章の引用もとの Paul Krugman を見てもやっぱり kid-gloves となっていました。


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手袋単複問題 A Pair of Gloves / Gloves [文法問題]

えーと、前の記事「キッドの手袋 Kid Gloves and Kid Mittens [Daddy-Long-Legs]」を書いたあと、電車に乗ったり人としゃべったり(ぜんぜん関係ない話で)人の顔を見たり電車の中で化粧をするとなりの人の手を見たりして、思ったのですが、もちっと、英語の文法問題を考えてみたいと思いました。

Do you want to know something?  I have three pairs of kid gloves.  I've had kid mittens before from the Christmas tree, but never real kid gloves with five fingers.  I take them out and try them on every little while.  It's all I can do not to wear them to classes.  (Penguin Classics 18)
(おじさまにいいことをお知らせいたしましょうか? わたしキッドの手袋を三足持っておりますのよ。前に、キッドの指なし手袋(ミットンズ)はクリスマス・ツリーのをもらったことがありましたが、五本指のほんとのキッド手袋ははじめてです。ひまさえあれば、出してはめてみますの。教室へはめて行きたくてたまらないのですけれど。〔中村佐喜子訳、旺文社文庫、27ページ〕)

  ふたつめのセンテンス、"I have three pairs of kid gloves." はまことに文法的に手袋3組を言い表しています。前の記事に書いたように、Oxford Dictonary of English (2005) を見ると、"(usu. mittens)" 〔つまり、通例複数形〕として "a glove with two sections, one for the thumb and the other for all four fingers" というふうに書いています。でも、あとから思ったのですけど、ミトンだから通例複数形になるわけでなく、靴下にしても靴にしてもふつうの手袋にしても、さらには日本人にはわかりがたい感覚で、パンツとか、メガネ(これはわからなくもないが)とか、ズボンとかスラックス(半分死語)の意味としてのパンツはともあれ下着のパンツ/ティーズみたいな複数形=1個、あるいは "a pair of なんたら~" みたいな。

  ま、英語は不便だなー、と言ってしまえばそれまでなのですけれど、ワタクシ的には、いったいキッド(ほんとの子ヤギ革)の手袋を、入学直後にジュディーは何組もっていたのだろう、というのは気になるところであるのです。

  4番目のセンテンスでは "them" で、"kid gloves" を受けて、でも3組すべてなのか、"real kid gloves with five fingers" なのか、そして後者だとしても何組なのか、不明です。そもそも "real kid gloves with five fingers" と書かれたときに(つまり "pair" というコトバを使わず書かれたときに)、何組かわからんのです。

  ジュディーは作品導入部の「ブルーな水曜日」 (Blue Wednesday) で、あしながおじさんと同じ理事と思われる(まー教育委員会みたいなところから出てきている人らしけれど)プリチャードという女性に「ブルーな水曜日」という題の作文を認められ、理事の前でそれが朗読され、あしながおじさんの耳にとまって大学にいくことが決まったということが語られるわけですけど、このプリチャードが大学進学に必要な品々を準備してくれる、ということもリペット院長は語っています。ですから入学前に(つまりとりわけクリスマス以降あらわになるような、あしながおじさんのプレゼントの前に)ジュディーは身の回りの品々(具体的には主として服飾品)を携えて寮に入ったことは了解できるのです。じっさい翌月の11月の手紙では、3つドレスを持っていて、みたいなことをジュディーは語っています。ですから、高級手袋を、まー、2つや3つ、ミス・プリチャードが揃えてくれてることも考えられなくはない。

  で、文法問題がですが、1個(1組/1足)の手袋でも、やっぱり gloves と複数形になりますね。だから、「ひとつ」(ひとくみ)の手袋でも "them" で受けられます。

    しかし、そういうことも含めて、たぶんウェブスターは遊んでいるのではないか、と思われるのでした。(前の記事ではっきり書きませんでしたけれど、自分の読みが正しければ、最初の  "I have three pairs of kid gloves" は、(翻訳のいくつもが「も」をつけて訳しているように)、三つ「も」もってるんですよ、という匂いを漂わせておいて、そこから孤児院時代の過去にさかのぼってクリスマスのミトンの手袋の話をして笑かす(泣いてもいいけど、まー、ここは泣けないかと思います)、という展開なのではないでしょうか。

  以上、酔って帰ってきて書いているのですけれど、実は前から気になっている文法問題を新たな「マイカテゴリー」とすべく、マイッカ的なはじめとして書かせてもらいました。まじでわからん英文法の問題があるのです(つーか、とりあえずでも100パー「わかる」のを「問題」と少なくとも醒めた自分は呼ばないのだけれど)。

  予告的に書いておくならば、ジュディー=ジーンは、英語の、文法問題といっていいのでしょうが、について『あしながおじさん』のなかで疑問を投げかけているところが二箇所はあります(酔ってきっぱり)。しょうがについて書くつもりはないですが。

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「gloves - 英和辞典/和英辞典」 <http://jp.wordmind.com/ecmaster-cgi/Jsearch.cgi?kwd=gloves&bool=and&word=im> 〔用例集〕


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彼/彼女の、彼(女)の、彼または彼女の、モノ He/She; He or She; (S)he; His/Her; His or Hers; His (Her); His/Hers; His (Hers); His or Hers [文法問題]

『あしながおじさん』3年生6月10日の手紙でジュディーが触れる英語の代名詞問題について――


                                                       June Tenth,

Dear Daddy,

This is the hardest letter I ever wrote, but I have decided what I must do, and there isn't going to be any turning back.  It is very sweet and generous and dear of you to wish to send me to Europe this summer―for the moment I was intoxicated by the idea; but sober second thoughts said no.  It would be rather illogical of me to refuse to take your money for college, and then use it instead just for amusement!  You mustn't get me used to too many luxuries.  One doesn't miss what one has never had; but it's awfully hard going without things after one has commenced thinking they are his―hers (English language needs another pronoun) by natural right.  Living with Sallie and Julia is an awful strain on my stoical philosophy.  (Penguin Classics 105: 太字強調付加)
(これはこれまで書いたうちでいちばんしんどい手紙ですが、わたしは自分がしなくてはならないことを決心したので、あともどりすることはできません。この夏わたしをヨーロッパに送りたいと望んでくださることは、たいへん親切で寛大でありがたいことです――しばらくわたしは欧行の思いに酔いしれました。しかし、あらためて醒めた頭で考えると、これはちがう、と思いました。大学へ通うお金を受けるのを断りながら〔このことばは、2年生の終わりに、食費および授業料を含む2年間の奨学金を受けたことでアシナガオジサンとやりあったことを引きずっています〕、あなたのお金を今度はただの娯楽に使うなんて非論理的なことでしょ! わたしをあんまりたくさんの贅沢に慣れさせてはいけません。ひとはだれも、手にしたことのないものは、なくても不自由することはありません。でも、一度、ひとがこれは生得権みたいに彼の――彼女の(英語という言語はもうひとつ代名詞が必要)――ものだと考えはじめたあとではそのモノなしにすごすのはすごくしんどくなります。サリーやジュリーと一緒に暮らすのは、わたしの禁欲哲学にすごい圧迫です。)

  英語に必要な代名詞とはなんでしょう。と問いを進めたいところですが、じつは最初からつまずきます。それは、既訳をいくつか並べてみてもわかることだと思います。――

ですけれど、いったんそれが生来の権利として彼の――否、彼女の(英語は人称別がいりますのね)物であると考えてからですと、そういうものなしで暮らすのはとてもつらいのです。 (遠藤 (1961) 118-119)

ところが、いったん何かを手にいれて、それが当然かれの――または彼女の(英語には、もうひとつ人称代名詞がいりますね)ものだと思いはじめたが最後、それなしでやっていくのは、なみたいていのことでなくなるのです。 (坪井 (1970) 194-195)

けれど、一度、それがじぶんのものになったりすると、それなしでは、くらしにくくなるものではないでしょうか。 (白木 (1970) 147) 

けども一旦それが彼の、彼女の――英語は一々別代名詞が要るんだから厄介ね――ものだと思ふやうになつた後で、さう言ふもの無しに暮さうと思ふともう苦しくつて仕様ががないものよ。 (東 (1929) 177)

  いくつか可能性は考えられると思うのです。

a)  his と書いたけど、hers というもうひとつの ("another") 代名詞が必要とされる。

b)  his と書き、hers と書かねばならないのは不便なので、もうひとつ別の、これとちがった ("another") 代名詞が必要ではなかろうか。

  わからないのは、所有代名詞として one's がないか、というと、あります*。ですから、"One" ではじめたこのセンテンスを one で一貫すれば(一貫するのはアメリカ的といわれますけれど)すんでいたのではないでしょうか?――

One doesn't miss what one has never had; but it's awfully hard going without things after one has commenced thinking they are one's.

  中学校の復習的には、こういうやつです。――

I my me mine
we our us ours
you your you yours
he his him his
she her her hers
they them their theirs

  この、呪文のように唱える代名詞の活用があるわけですけれど、それぞれの最後のやつが possessive pronoun 所有代名詞です。で、

one one's one one's

  ありです*。

  3月19日朝追記。「あります*」「ありです*」、と書いたのは、文法書をひもといて確認したのではなくて、日本語ウィクショナリーの "yours" 掲載の表を見て、ふーん、あったのか、と思ったしだいです――<http://ja.wiktionary.org/wiki/yours> 。 でも「所有格代名詞」(これもうっかりそこからとりました)という呼称も「所有代名詞」という書き方とのあいだで揺れていますし、信頼できるかどうか不安になりました。いずれにしても稿をあらためて考えることにします。

 

  つづく~(解答暗中模索中)

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"Gender-neutral pronoun," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/He/she> 〔残念ながら対応日本語記事なし〕

"Singular they," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Singular_they> 〔残念ながら対応日本語記事なし〕


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彼/彼女の、彼(女)の、彼または彼女の、モノ (2) He/She; He or She; (S)he; His/Her; His or Hers; His (Her); His/Hers; His (Hers); His or Hers [文法問題]

『あしながおじさん』3年生6月10日の手紙の文法問題の続きです。前の引用を少し短くつづめておきます。―― 

You mustn't get me used to too many luxuries.  One doesn't miss what one has never had; but it's awfully hard going without things after one has commenced thinking they are his―hers (English language needs another pronoun) by natural right.   (Penguin Classics 105: 太字強調付加)
(わたしをあんまりたくさんの贅沢に慣れさせてはいけません。ひとはだれも、手にしたことのないものは、なくても不自由することはありません。でも、一度、これは生得権みたいに彼の――彼女の(英語という言語はもうひとつ代名詞が必要)――ものだと考えはじめたあとではそのモノなしにすごすのはすごくしんどくなります。) 

そして、前の記事「彼/彼女の、彼(女)の、彼または彼女の、モノ He/She; He or She; (S)he; His/Her; His or Hers; His (Her); His/Hers; His (Hers); His or Hers」に今朝追記したところから書き出します。

〔所有代名詞 one's が〕「あります*」「ありです*」、と書いたのは、文法書をひもといて確認したのではなくて、日本語ウィクショナリーの "yours" 掲載の表を見て、ふーん、あったのか、と思ったしだいです――<http://ja.wiktionary.org/wiki/yours> 。 でも「所有格代名詞」(これもうっかりそこからとりました)という呼称も「所有代名詞」という書き方とのあいだで揺れていますし、信頼できるかどうか不安になりました。

  つまり one's の所有代名詞をウィクショナリーはあるといっているけれど、どうも信用できかねるという感じがしました。そして、朝から文法書(江川泰一郎の)を探しているのですが、見つからず、しかたがないのでWEB であれこれと眺めたり OED などの辞書をあらためて引いたりしました。

  まず、学習辞典として信頼できる研究社の英和中辞典を見てみたら、its と one's については代名詞の形容詞的な所有格としてはとりあげていますけれど、his とはちがって「所有代名詞」としての用法を記していません。

  ネット上に硬軟いろいろある英文法サイトのなかでは、『自由学芸堂英語――自由にマナブ人のための実践教養英語ハンドブック』の「代名詞」のページ <http://manabu.s15.xrea.com/english/chapter04/pronoun.html> は、「所有代名詞」の項で、つぎのように解説していました。――

所有代名詞は、「…のもの」という所有物を単独に表現する語です。 所有代名詞には、mine(例文1), yours, his, hers, ours, yours, theirs があります。 it に対する所有代名詞は存在しません。 所有代名詞はすべて第三人称として扱います。

  it に対する所有代名詞はないぞ、としています。one, one's  については、そもそも1人称から3人称までの人称代名詞のなかに入れていないので、言及がありません。

  「所有代名詞」は英語だと "possessive pronoun" です。英語のウィキペディアの "Possessive pronoun" <http://en.wikipedia.org/wiki/Possessive_pronoun> を見ると、現代の英語に所有代名詞は、"its" も入れて 7個、そして古い2人称の thine もある、と書かれています。――

There are seven possessive pronouns in modern English: mine, yours, his, hers, its, ours, and theirs, plus the antiquated possessive pronoun thine (see also English personal pronouns). The word its is, however, rarely used as such (almost always it functions as a possessive adjective). (現代英語には7個の所有代名詞がある――mine, yours, his, hers, its, ours, theirs。それプラス古い所有代名詞の thine がある。しかし、 its は所有代名詞として用いられることは稀である(ほとんどつねに所有格の形容詞として機能する)。

  英語のほうの Wiktionary の "its" <http://en.wiktionary.org/wiki/its> を見ると、 pronoun (代名詞) としての用法の説明が用例とともに、なんかまだるっこい言葉遣いで書かれています。――

Pronoun

its

Its is extremely rare as a pronoun, the pronoun it being very rarely stressed. Moreover, there is very rarely need for Its as a possessive pronoun. (its は代名詞としてはきわめて稀。それは代名詞 it が強調されることがきわめて稀だから。そのうえ、所有代名詞としての its の必要はきわめて稀にしかない。) 

The mind has its reasons and the heart has its.

  そして、Wiktionary の "one's" <http://en.wiktionary.org/wiki/one%27s> を見ると、いちおー pronoun として挙がっています。でも説明が its のほうの説明と響きあっていない、とてもあいまいな記述です。――

Pronoun

one’s

  1. belonging to one

  これだけで用例はないです。これって ("belonging to one" って名詞句じゃないよ)、形容詞的な使い方(my とか your とか her みたいな)じゃないの? と思えるのですが、"Usage notes" のひとつめには "Unlike all other possessive pronouns (yours, hers, yours) one’s is spelled with an apostrophe. " と書かれています。(「one's - ウィクショナリー日本語版」 <http://ja.wiktionary.org/wiki/one%27s> )も参照(リストつき)。

  OED を見ると、its は "its, poss. pron." として、A は形容詞的な使い方で、"As adj. poss. pron. Of or belonging to it, or that thing (L. ejus); also refl., Of or belonging to itself, its own (L. suus)." と記述しています――つくづく思うのですが、「代名詞」とか pronoun とか possessive pronoun とか adjective (形容詞)  とか、文法家によって範疇が違いうる、あるいは捉え方が異なりうる、ので、誤解が生じうるのではないかと思われ。adj. poss. pron. というのは adjective possessive pronoun ですから、「形容詞的所有代名詞」なんすかねー。ともかくこの A はふつうの使い方というか、1834年の用例だと "The Gospel has its mysteries." みたいなやつです。

  そして B は独立用法 (absol.) で、つぎに名詞 [n.= noun]がつづかない場合 ("used when no n. follows")で、意味は: Its one, its ones.  そしてラベルは rare. 稀。用例は17世紀はじめのシェークスピアひとつしかないです。――Each following day Became the next dayes master, till the last Made former Wonders, it's. (Henry VIII, 1.1.18 [First Folio])  なんか、全体が古くて、そもそも its じゃない(笑)。まー、これでも現代英語 (Modern English) ですけど。いまの英語 (present-day English といったりする)にすると、 Each following day became the next day's master, till the last made former wonders, its.  でしょうか。むつかしー。

  このシェークスピアの用例から検索して知った、堀田隆一というひとの、英語史に関する話題を広く長く提供し続けるブログ hellog の2009年11月10日の記事「#197. its に独立用法があった![personal_pronoun]」によると、対比表現のなかに限られるようだ、とのことです。――

〔・・・・・・〕「それのもの」という表現は確かに他の性や人称に比べれば使用頻度が少ないように思われるが,its という限定用法がありながら,独立用法が欠けているのは,体系として欠陥であるといわざるを得ない.
 しかし,驚くなかれ,この its には非常にまれながら独立用法が存在するのである.あまりに稀少なので屈折表のなかに取り込まれていないだけで,「あり得ない」わけではないということを示しておきたい.ただし,its が独立用法として使用されるのは,対比表現に限られるようである.〔・・・・・・〕<http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~rhotta/course/2009a/hellog/2009-11-10-1.html>

  まー、驚きはしなかったのですがw、なるほどね。で、堀田さんによると、「対比としてでなければ使用できないのでは,やはり屈折体系に納めることはできないということか」。屈折 (inflection) 体系というのはくだいていえば I my me mine みたいな変化のリストです。

  さて、one's はいかに? いちおう確認しておくと、one は someone とかも含めて「不定代名詞」という範疇に入れられ、「人称代名詞」の中に入れられないのがふつうのようです(one って3人称じゃないの?といいたいとこですが。ついでに書いておくと、一般の you (generic you) という「2人称」がありますが、これって one とどうちがうん? というのがわたしも含めてしろうとの疑問としてありますねー。ちなみにウィクショナリーは「汎称代名詞」ということばで one を呼んでいます。「4人称」という4次元的なコトバで不特定のヒト・モノを指す代名詞を呼ぶこともあるようですがわけわからんです。おそらく、one といっても3人称の対象だけでなく相手 (second person) も入ったり、あるいはワタシ (first person) のかわりに one を使ったり、それは generic you の場合も似たところがあり、1,2,3に特定できないから不定なんだろうと思うんですけど・・・・・・)。 OED を見ても用例は見つかりませんでした。英語史に関する話題を広く長く提供し続けるブログ hellog で検索しても見つかりませんでした、残念なことに。

  それで、最終的結論は先送りなのですけれど、たぶん、ということで適当に〆ておきます。たぶん、ジュディーは、one's の「独立用法」がないことを英語の問題として言っているのでしょう。もう一度書くと、つぎのような文が認められない、ということです。――

One doesn't miss what one has never had; but it's awfully hard going without things after one has commenced thinking they are one's.*

    自信まったくなし。

One doesn't miss what one has never had; but it's awfully hard going without things after one has commenced thinking they are his―hers (English language needs another pronoun).

     一般論としては、現在ならば his という男性中心の代名詞に対する反発から his/hers とか his or hers とか併記するか(主格の場合は he/she, he or she に加えて (s)he みたいな書き方もあり)、あるいはいわゆる "singular they" を使って、論理的には単数であるのを承知で男女両方を指す(あるいは性にこだわらない) 複数形の they を使う習慣が、いちぶ識者(?) のあいだでは1980年代くらいから流行ってきました。前者についてはもってまわった感じが鼻につきますし、後者は単数・複数がズレルところがいやだなー、ということで、全面的に受け入れられてはおらないようです。後者の they については、もっとも上の文だと、その前の things を受けた they とぶつかってしまい (they are theirs) 、何がなにやらわからない文章になってしまいそうです。

  「人称」というのは「ヒト」じゃなくても person だという感覚が日本語的にはおかしくて、そのへんマヒさせて、学術用語として受け入れているところがおそらくあって、そのへんもわけのわからなさを増幅する要因のひとつになっている気がします。なにしろ神の3つのペルソナ――父なる神(聖父)、子なる神(聖子)、聖霊なる神(聖霊)――も person ですから、どうにも実感的につかみづらいです。

  そして、ジュディーの文章で少なくとも表面的に問題になっているように見えるのは、いわゆる「人称」――1人称、2人称、3人称――ではなくて、ジェンダー(性差)の問題です。けれどもそう見えるだけで、ジェンダーの問題を問題にしているのではないのかもしれない。でも one/one's の英文法問題から発展して問題にしているのかもしれない。そのへんがおもしろいのでした。うわー、解答出てないや。

  まじめに「英語に必要なもうひとつの代名詞」を考えると、複数形の they は "gender-neutral" です。単数形で gender-neutral な代名詞としては it しかない。しかし it は無生物しか原則的には指せません(赤ん坊とか、物語内で性別不明の段階で声の主とかを it で指すことはあるけど)。そうすると、必要なのは one's の所有代名詞化ではなくて、ヒトを指す gender-neutral な単数形代名詞ということかもしれません。

  〔21時50分追記〕しつこく書くならば――、前の記事で、ふたつ可能性みたいなことを書きました。

a)  his と書いたけど、hers というもうひとつの ("another") 代名詞が必要とされる。

b)  his と書き、hers と書かねばならないのは不便なので、もうひとつ別の、これとちがった ("another") 代名詞が必要ではなかろうか。

  うーんと、b´) というか、

c)  one は男も女も(あなたも彼もワタシも)一般論的に指せると思って書き始めたけれど、所有代名詞で詰まってしまい、his―hers と書かざるを得なかった。英語はもひとつ別の――one ではない――代名詞が必要だわ。

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"Gender-neutral pronoun," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/He/she> 〔残念ながら対応日本語記事なし〕

"Singular they," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Singular_they> 〔残念ながら対応日本語記事なし〕


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彼と彼女、彼(女) He or She, S(he) [φ(..)メモメモ]

前のふたつの記事のおまけメモです。 

  英語を中心とするフェミニズム的ジェンダー意識から、たとえば one を he で受けていたのを he or she とか he/ she とか s(he) とかして「両性」化する運動というのは、結局のところ「無性」化ではないので、男女の違いを訴えることになるような気がする(そしてそれはそれでフェミニズム的にはいいのかもしれない・・・・・・違いがなければ平等を訴える必要もないから)。ひとつの問題は、男女の性差があいまいなマイノリティーのひとたちもいて、そこに二者択一的な性差を強調しているように見えることかしら。

  「かの」ということばを誰に対しても用いるというのはどうだろう(文法的にはむちゃくちゃだけど、でもモトカノみたいなかたちで「カノ」は(代)名詞化してるし)、とタワムレに夢想してみたのだけれど、考えてみれば、もともと「かれ」は男女両方とも指す日本語であって、わざわざ「彼女」というコトバをつくって男性を「彼」、女性を「彼女」に分割したのは明治以降のことであるらしい。もっとも、これそれあれどれ的なノリのことばと「かれ」はつながっていただろうから、人間の主体性とか個体主義的な感覚を「彼」が本来もっていたとは思われないし、西欧の文献の翻訳のうえでの必要性というだけでなくて、それと同時に日本が受け入れてきたヨーロッパの近代的個人主義のためには確固とした人称代名詞が必要だったのかもしれない。

  で、いろいろ読んで勉強になりました。メモリマス。

☆「「彼=彼女(かれ/かのをんな)」表現について」 (『言葉と身ぶり』、和井府清十郎さんの『綺堂事物』内 <http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/kare.html>)――明治期における3人称表現の変遷について、「かのおんな」が「かのじょ」へ移行した可能性と、「かれ」が女を指す用例など。

☆「彼女より古い彼」 (「エッセイ集」、MARU さんの、現在の日本語の環境の中で育つ子供たちの
言葉の発達について考えるサイト『ことの葉』内、平成14年1月) <http://www.geocities.co.jp/Technopolis/8625/essay5.htm>)――「はっきり主語を示すという、元の言語の性質までは日本ではなじまなかったよう」だし、「個人を尊重し一個の人格として見るという考え方が「彼」「彼女」に見られないこともない」が、「各自の役割が重要な意味をもつ家族関係においては、「彼」「彼女」の出番はこれからもなさそうに思う」ことなど。

☆「彼或は彼女」(Ludwig D. Omen さんのブログ『日常的な、余りに日常的な』2009.7.8 <http://omen.seesaa.net/article/123041988.html>) ――「三人称単数/複数の無性を意味する、或は性別を特定しない様な、新しい言葉が欲しい」。性差別意識と、「「he or she」ではなくて新しい三人称単数の無性形の単語を創ってそっちをプッシュすればよかったのにと思う」ことなど。

☆「かれ - ウィクショナリー日本語版」 <http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8C>
☆「彼女 - ウィクショナリー日本語版」 <http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%A5%B3> ――「西欧語の三人称女性を翻訳するのに案出された語か」(語源)。

☆「正しい日本語~彼氏彼女編~」 (ブログ『ゾフィーの世界~背中に迫るあの声に振り向かずにGAROL~』2010.1.27 <http://ameblo.jp/hanafusa-prdxish/entry-10444229311.html>)

☆「「彼女」と「彼氏」」 (『英文法道場』 2007.12.26 (高2スーパー英語総合II(文法・作文)・第2課のオマケ話)
<http://blog.livedoor.jp/eg_daw_jaw/archives/51226815.html>)――もっぱら英語中心に考えるところが英語教師的かも。

  ところで「彼(女)」という書き方をするのか、というのが気になっているのですが、わかりませんでした。

  前も書きましたが、天使は「無性 sexless」 ということになっていて、でも He とか She で呼ばざるを得ないという不条理があります。

  (23時追記)なんだか日本人として日本語の問題をこそ考えねばならんなあという気が強くなってはいますけれど、とりあえず、ただの知識として、キリスト教の神の3つのペルソナは、「父なる神」 God the Father と、「子なる神」は God the Son、イエスですから息子、そして、しかし、第三の位格「聖霊なる神」がくせもので、霊的なものをしばしば女性原理と結びつける指向があったように思われるところが興味深いのです。それはまたそれで、機会があれば。


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写真家アルヴィン・ラングドン・コバーンについての覚え書 A Note on the Life of Alvin Langdon Coburn [Marginalia 余白に]

〔いちおう「拝啓着物柱様 Dear Clothes-Pole」のあとの「シルバニアファミリーのものほしセット――拝啓クローズ・ポール(着物柱)様、パート2 Dear Clothes-Pole, Part 2」に載せた写真家コバーンのものほしざお写真から派生したものです。〕

アルヴィン・ラングドン・コバーン Alvin Langdon Coburn, 1882-1966?はアメリカ生まれの写真家です(最晩年にイギリスに帰化)。ボストンのシャツ製造会社の息子に生まれ、7歳のときに創業者の父親が死去、1890年に母方の親戚のいるロサンゼルスに行ったときに、おじさんたちからカメラをプレゼントされ、少年はたちまち写真に魅了されます。1898年、既に国際的に名の知られていた親戚(いとこ)のF. Holland Day?を訪問し、写真の技術を認められます。1899年、母親とロンドンへ移住。そこには王立写真協会 Royal Photographic Society?に招聘されていたDay がいて、アメリカの写真家たちの作品を集めた展覧会の企画の仕事をしていました。その展覧会に若干17歳のコバーンの作品も展示されることになり、華々しいデビューを飾ります。当時もっとも尊敬されていた写真家である Frederick H. Evans, 1853-1943?の目に留まり、エヴァンズらが創設していた写真家グループ Linked Ring の展覧会にも出品します。エヴァンズという人は、教会建築などの写真で有名ですが、ビアズリー (1872-98) の肖像なども撮影しているひとです。――

Evans,FrederickH-AubreyBeadsley(1896).jpg
Frederick H. Evans, Aubrey Beardsley (1894) [コピーライト] Estate of Frederick H. Evans

  その後、国際的に活躍し、有名なスティーグリッツの雑誌 Camera Work に掲載されたり、スティーグリッツによって個展を開いたり、1910年のニューヨーク州バッファローのAlbright-Knox Art Gallery での展覧会のあと、アメリカ国内を旅行してグランド・キャニオンやヨセミテなどで「自然」の写真を撮ります。1911年、ニューヨークで街の写真を撮影、1912年には写真集 New York を出版(これにおさめられた『タコ The Octopus』が彼の最も有名な写真のようです)。1912年、ボストンの Edith Wightman Clement という女性と結婚。

  コバーンというひとが個人的に興味深いのは、1916年ごろからの神秘主義や神秘思想への傾倒です。1916年という年は、いっぽうで詩人のエズラ・パウンドと知り合い、パウンドの影響を受けて、ヴォーティシズムの写真における実践を試みた年です。1913年、パウンドによって Vorticism の名称を与えられたイギリスの前衛的な美術運動は、1914年に機関誌 Blast を創刊したグループ自体は、1915年の第2号の刊行とロンドンのドレ・ギャラリーでの展覧会ののち解散していますが、パウンドはコバーンに新たな可能性を見たのかもしれません。3枚の鏡をはめこんだ機材を用いて撮られたコバーンの写真はパウンドによって Vortograph と呼ばれました。

coburnpound.jpg
Ezra Pound (1916)

  コバーンは abstract photgraph というコトバのでてくるエッセイ "The Future of Pictorial Photography" を1916年に書いて、イメジの外側に指示対象をもつのではなくて、イメジの下にある形態や構造を強調することを説いており、パウンドとの出会いは、コバーンの「抽象写真」に影響を与えたわけでしょうが、同じ年に、写真家のジョージ・デイヴィッソン George Davison, 1854-1930?と親しくなってもいます。デイヴィッソンは Linked Ring の創立にかかわったひとでもあったのですが、その後イーストマン・コダック社の管理職になりながら、博愛主義者として社会改良運動に傾倒してアナキストと関係をもったために会社を追われます(最終的には1912年)。それはそれとして(ちょっと『あしながおじさん』のなかの philanthropy や socialism を思わせるのですが)、デイヴィッソンがコバーンに与えた影響は、彼が神智学者でもあった(あとはおまけにフリーメイソンでもあった)ところで、コバーンは神秘思想やドルイドの研究にのめりこんでいくのです。

  1920年ごろにはフリーメイソンのなかで Royal Arch Mason の位階にのぼっています。さらに、薔薇十字運動の流れをくむと称する、スコットランド起源の?Societas Rosicruciana に入会。Societas Rosicruciana というのは、フリーメイソンの第三位階である親方 Master Mason のみが加入できる交友組織です。1923年、the Universal Order という秘密結社の人物と出会い、その後の人生に決定的な影響を受けたといわれています。the Universal Order というのは季刊誌 The Shrine of Wisdom: A Quarterly Devoted to Synthetic Philosophy, Religion & Mysticism (これの1920~30年代のバックナンバーを Kessinger が復刻しています)刊行しているくらいですから、めちゃくちゃ秘密の結社だとは思いませんけれど、この人物は謎のままです。コバーンはさらにフリーメイソンの歴史や古代祭儀やオカルトの研究に没頭するようになり、多数の講演活動や調査旅行を行なったりします。1927年、Gorsedd (ゴーセズ:古代ウェールズにおける吟遊詩人とドルイド僧の祭を19世紀に復活させた集会)において名誉第三級吟遊詩人となり、ウェールズ名、Maby-y-Trioedd を取得。1930年ごろには写真に対する興味はほとんどなくなっており、過去は無意味と考えて、ネガなどを処分すると同時に、コレクションを王立写真協会に寄贈。1957年10月11日、結婚45周年の日に妻のイーディスが逝去。1966年、北ウェールズの自宅でコバーン死去。享年84。

  コバーンの生涯をふりかえって、神秘主義への傾倒でちょっと類推関係を感じるのは、アメリカの作家のハムリン・ガーランドやウィンストン・チャーチル(同名の英国首相のいとこの)なのですが――神秘思想に傾倒する作家は多いのですけれど、それによって過去の自分の芸術的営みを無意味化する身ぶりが気になるのです――、話が錯綜するので、またそれは別の機会があれば、と思います。


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タコに落ちる摩天楼の影 The Shadow of the Skyscraper on the Octopus [Marginalia 余白に]

1912年に出版されたアルヴィン・ラングドン・コバーンの写真集 New York におさめられた『タコ The Octopus』(リンク先は Heilbrunn Timeline of Art History; 別url <http://www.metmuseum.org/toah/hd/pict/ho_1987.1100.13.htm>)は、冬の雪に覆われたニューヨーク、マンハッタンのマディソン・スクウェア・パーク Madison Square Park を俯瞰的に切り取ったものです。

Coburn,AlvinLangdon-The Octopus(1912).jpg
"Alvin Langdon Coburn: The Octopus (1987.1100.13)". In Heilbrunn Timeline of Art History. New York: The Metropolitan Museum of Art, 2000–. <http://www.metmuseum.org/toah/hd/pict/ho_1987.1100.13.htm>

  タコというと、19世紀後半にアメリカに広がった鉄道網をタコにたとえた作家フランク・ノリスの The Octopus が有名ですが、コバーンのタコは公園のセンターとそこから放射状に延びる道の様子をタコに見立てている模様です。

  しかし画面の左半分に巨大な影が落ちています。ニューヨークという都会の摩天楼の影です。雪は空から降ってくる。摩天楼 skyscraper というのはその空を引っ掻く (scrape) ような高さを誇る建物のことです。

  ウィキペディアで「摩天楼」を調べようとすると「超高層建築物」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E9%AB%98%E5%B1%A4%E5%BB%BA%E7%AF%89%E7%89%A9>というミモフタモナイ名前の項目に飛ばされるのですが、そこには、歴史的なリストが挙がっていて、ニューヨーク関係では、リストのトップにあがっている1873年の8階建て43m のエクイタブル生命ビル (1912年解体)、1890年の20階106mのニューヨークワールドビル(1955年解体)、1894年の18階建て106mのマンハッタン生命保険ビル (1930年解体)、1899年の30階建て119mバークロービル、そして世紀が変わって1908年の47階187mのシンガービル (1968年解体)、1909年の50階213mのメトロポリタン生命保険会社タワーというのが、1912年の時点(ちなみにたまたまこの年は『あしながおじさん』出版の年でもあります)でニューヨーク市に建っていた「摩天楼」群だということがわかります(最初の8階建て程度のものはその後たくさんつくられたでしょうから、歴史的な意味合いで載っているのでしょう)。

  で、最後のメトロポリタン生命保険会社タワー (Metropolitan Life Insurance Company Tower) がマディソン・スクウェアに影を落としているのではないかな、と見当をつけて、現代の地図を見てみました。――


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  A地点が、
 

 40°44′28.49″N 73°59′14.76″W / 40.7412472°N 73.9874333°W / 40.7412472; -73.9874333

 

 

  にある、Met Life Tower です。なんか緑がだいぶ多くなっています(季節の問題ではおそらくなく)。

  このタワーは、1893年完成の11階建ての建物に付け足された建造物で、ヴェニスのサン・マルコ広場の鐘楼(カンパニーレ)を模してつくられ(つーことはバークレーのセイザー・タワーと同じですね――「March 18 バークレーのセイザータワー The Sather Tower in UC Berkeley」参照)、時鐘というか鐘楼というか鐘塔としては鐘ではなくて4面に直径8mの時計をはめこんでいます。

415px-Met_life_tower_crop.jpg
メトロポリタン生命保険会社タワー (Metropolitan Life Insurance Company Tower), "Metropolitan Life Bldg., Manhattan, New York City, in 1911," image via Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/File:Met_life_tower_crop.jpg>

  1911年ごろのようす。

  なんだか、地図が違っているような不安がありますけれど、ともかく、摩天楼の影はこのタワーであると思います。

  タコというのは欧米人にとっては悪魔のイメジということはよく言われてきましたけれど、そういうのを引きずっているのかは不明です。しかし、海のイメジと空のイメジがぶつかっているということは言えるのでしょう。そして水平的に広がっていったノリス的なタコ(鉄道)に対して、垂直的に広がる人間の野心みたいなものを映しているのかもしれないな、と思いました。

  高さ213mというのは700フィートです。1913年の Woolworth ビルの建造まで、このタワーが世界一の高さの建造物だったのだそうです。

/////////////////////////////

メモ的 urls―

Frank Norris, The Octopus: A Story of California (1901) e-text <http://www.archive.org/stream/octopus00norr#page/n5/mode/2up>

Herman Melville, "The Bell-Tower," The Piazza Tales (1856) e-text <http://www.archive.org/stream/piazztales00melvrich#page/400/mode/2up/search/bell+tower>

「「時計」の文学論 - 教授のおすすめ!セレクトショップ」 <http://plaza.rakuten.co.jp/professor306/diary/200911210000/> 〔      釈迦楽先生のブログ2009.11.21 〕

「今週の本棚:富山太佳夫・評 『ワシントン・アーヴィングと…』/『時の娘たち』 - 毎日jp(毎日新聞)」 <http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2005/08/20050807ddm015070156000c.html> 〔書評 2005.8.7〕

岡村仁一 「「平地からは見えない光景」――ハーマン・メルヴィルの「鐘塔」について」 『新潟大学言語文化研究』pdf. <http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/6000/1/06_0001.pdf>

モーリス・ブランショ 「メルヴィルの魔法」(『日曜風景』誌連載、<本>、モーリス・ブランショ、19451216日、3頁所収) <http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4761/Melvillepaysdimanche.htm>

風間賢二 「オートマトンが怖い!」 文学と科学のインタフェイス2) 季刊 環境情報誌ネイチャーインタフェイス No. 5 <http://www.natureinterface.com/j/ni05/P90-91/>


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コバーンのマーク・トウェイン本 Mark Twain with Coburn's Photographs [作家の肖像]

アルヴィン・ラングドン・コバーンは、文学者たちの肖像写真(ポートレト)をたくさん撮っていて、1913年に Men of Mark (London: Duckworth)、1922年に More Men of Mark (London: Duckworth) という写真集を刊行しています。

  エズラ・パウンド Ezra Pound, 1885-1972 については、1922年の続篇のほうに、1916 年の渦巻主義の Vortograph ではなくてまともな(?)、でも1913年10月ロンドンのケンジントンで撮影したちょっとだけ古い写真を、載せています。――

Ezra_Pound(AlvinLangdonCoburn,1922).jpg
"III. Ezra Pound, Kensington, October 22nd, 1913," More Men of Mark (London: Duckworth, 1922)

  日本語のウィキペディア「エズラ・パウンド」が掲げている肖像です <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89>。東洋風な趣きで、もしかしてキモノかと思うとスティッチがあって、ローブかよみたいな。

  スティーグリッツの写真雑誌 Camera Work に掲載された写真なども再掲されているようです。

466px-Alvin_Langdon_Coburn-Rodin.jpg
Rodin, Camera Work, No. 21 (1908); "IX Auguste Rodin, Meudon, April 21st, 1906. " More Men of Mark (London: Duckworth, 1922) 

431px-Alvin_Langdon_Coburn-Shaw.jpg
Bernard Shaw, Camera Work, No. 21 (1908); "I. G. Bernard Shaw, Welwyn, August 1st, 1904. " More Men of Mark (London: Duckworth, 1922) 

  いずれも英語のWikipedia "Alvin Langdon Coburn" より。

  なんとなく目に留まった、2004年春に The Mark Twain House and Museum が催したコバーンの展覧会 <https://marktwainhouse.org/menofmark/aboutcoburn/> のリストを引けばつぎのようです。――

The Artists (画家):
Max Beerbohm
Frank Brangwyn
William De Morgan
Roger Fry
Henry Matisse
William Nicholson
William Orpen
Auguste Rodin
John Singer Sargent
Charles Shannon
Max Weber
Clarence H. White
Playrights (劇作家):
H. Granville Barker
J.M. Barrie
Arnold Bennett
John Galsworthy
John Masefield
George Bernard Shaw
Poets & Essaysts (詩人・エッセイスト):
Hilaire Belloc
Robert Bridges
Edward Carpenter
George Meredith
George Moore
Arthur Symons
Herbert Trench
William Butler Yeats
Novelists & Social Critics (小説家・社会批評家):
G.K. Chesterton
William Dean Howells
Henry James
Andrew Lang
Mark Twain
H. G. Wells
Politicians (政治家):
Theodore Roosevelt

  33人の分野の分類はアバウトな感じがありますし、最後のローズヴェルトひとりで politicians と複数にしているのもよくわからず、2冊の写真集のおよそ半分くらいだと思うのですが、なんとなく感じはわかると思い、写しました。

  で、なんでマーク・トウェイン・ハウスがこんな展覧会をやったかというと、展覧会のタイトルとしては "A. L Coburn's Men of Mark: Pioneers of Modernism" (A・L・コバーンの「著名人」――モダニズムの先駆者たち)ということで、アイルランドの詩人イェイツのケルトの薄明とか、バリーのピーター・パンの映画とか、世紀の変わり目の写真術とか、マーク・トウェインとセオドア・ローズヴェルト(詳細不明・・・・・・なんとかしてマーク・トウェインをモダニズムとつなげたい気持ちはうかがわれますが)とかいうふうに、「モダニズム」がらみの講演や映画上映があったようなのですが(プログラムについて<https://marktwainhouse.org/menofmark/programinfo/> 参照)、直接的には写真集以前の1910年に、アルヴィン・ラングドン・コバーン撮影の写真をちりばめたマーク・トウェインの評伝が出版されていたからだと思われます。

  マーク・トウェイン Mark Twain [Samuel Clemens] (1835年11月30日 - 1910年4月21日)がハレー彗星とともにこの世に生を受け、ハレー彗星とともに去っていったというのは有名な話ですが、アルヴィン・ラングドン・コバーン Alvin Langdon Coburn (1882年6月11日 - 1966年11月23日)は最晩年のマーク・トウェインの、白い服で有名な姿をなかなかじっくり撮影していたのでした。

  で、この本です。――

  Archibald Henderson (1877-1963).  With photographs by Alvin Langdon Coburn.  Mark Twain.  New York: Frederick A. Stokes, 1910.  230pp.

     例の Kessinger の復刻本もありますし、他にもペーパーのリプリントがあるみたいですが、どうせ写真はモノクロでしょうから、――あと、ケッシンガーも1年前に「March 16 プレフォルストの女見霊者、2冊 The Seeress of Prevorst [擬似科学周辺]」で書いた一件以来、あんまり信用していません、図版に関する限り――本物の本が手に入らないようならば、本当に本物の e-text でよかではなかとでしょうか〔カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校所蔵本〕。――<http://www.archive.org/stream/marktwainhenders00hendiala#page/n9/mode/2up>

  個人的には e-text のなかでも、Read-online のスタイルが気に入っています。pdf. のほうが鮮明でしょうが、重いですし、Kindle は・・・・・・金かかる(金取る)しめんどくさいw。7種類くらいe-text はあるのですが、ちゃんとコバーンの写真をツブサズ載せているのでした(また昔のことを思い出しましたけど、「November 26 メリーマウントのメイポールの挿絵について An Illustration of "The Maypole of Merry Mount" [本・読み物 reading books]」では挿絵の「カット」が判明しました。字も絵も大事だということがなんでわからないのでしょうか)。

  でも、この本については、Gutenberg が図版をスキャンして e-text 化していることがのちにわかりました〔Release Date: July 14, 2004 [EBook #6873]〕。――<http://ia301511.us.archive.org/3/items/marktwain06873gut/6873-h/6873-h.htm>

    でも、と逆接をつづけますが、結局、図版がどのようなかたちでどこに載っていたか、というのは、テクストの構成・組版が不明なのと同様に、グーテンベルク的な e-text 化ではわからんのですよね。あと、『あしながおじさん』で鮮明になったように、テクストの典拠が不明な場合が多いだけでなく、誤植・誤字を増幅している場合がままあります。

  やっぱり生身の本が好き。

  って、テーマはどこにw

AlvinLangdonCoburn-MarkTwain.jpg
Mark Twain, Stormfield, December 21st, 1908.

  この写真は1913年のMen of Mark (London: Duckworth) に所収のものです。1910年の伝記では、178ページと179ページのあいだ、第5章(最終章)"Philosopher, Moralist, Sociologist" (哲学者、道学者、社会学者)の冒頭に掲げられています <http://www.archive.org/stream/marktwainhenders00hendiala#page/n217/mode/2up>。

  本のほうは、写真に対してキャプションもテクストもなくて(サインはともかく "List of Illustrations" もない)、なんだかよくわからないのです。そーゆーのは著者と編集者の問題なんですかね。

frontpiece.jpg
Archibald Henderson, Mark Twain (New York: Frederick A. Stokes, 1910), frontispiece, image via Project Gutenberg <http://ia301511.us.archive.org/3/items/marktwain06873gut/6873-h/6873-h.htm>

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"National Portrait Gallery - Person - Alvin Langdon Coburn" <http://www.npg.org.uk/collections/search/person.php?LinkID=mp06800&role=art 〔12ページ、113枚のコバーン撮影(ないし撮影と推定される)肖像写真がありますが、残念ながら、8ページの途中からは currently unavailable です。でも大きい画面もあるし、おもしろい〕

"NYPL Digital Gallery | Results - Alvin Coburn" <http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchresult.cfm?keyword=Alvin+Coburn> 〔2冊分全部載っているようです。すばらしい〕

 


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眺めのよい部屋の窓の方向 (1) The Directions of the Windows of a Room with a View (1) [Daddy-Long-Legs]

3月7日の記事「タンスをウィンドウ・シートに改造する Converting a Bureau to a Window Seat」で、ジュディーが1年生のときの工夫を書きました。

  そのときにも(再度)触れましたが、イラストレーターの Laura Diehl さんの、商業的にはオーディオ・ブックのラベルに使われた絵は、ヴァッサー女子大のキャンパスを調べて描かれていて、いろいろな意味で感心するところありました。画像使用についてメールを書こうかと思いながら時間がすぎてしまい、とりあえず、情報を記して直接ひっぱります。――

daddylonglegs_wip4blg.jpg
image: Laura Diehl Illustration News: Daddy Long Legs (just about done), March 19, 2009 <http://ldiehl.blogspot.com/2009/03/daddy-long-legs-just-about-done.html>

    商業タイトルが入る前の、ほぼ完成した原画だと思われます。

  で、開いた窓のそばに腰掛けて、危ないじゃん、というのはもうおいといて、方角の問題です。

  この、ジュディーによって「塔」と呼ばれる建物のモデルが、ジーン・ウェブスター在学時(1897-  1901)のヴァッサー女子大にはなかった1907年建造の9階建ての Jewett House の "Tower" であったであろうことは「塔 Tower」で書きました。

  Diehl さんの絵の、タンスを改造したウィンドウシートに悠然と腰かけているジュディーの右手から風に舞って窓の外に飛んでいく紙の先にあるのが Main Building です。ここに、どうやらジーン・ウェブスター自身は居住したらしい。 Diehl さんが、ジーン・ウェブスターが入学時にあった「寮」、ストロング (1893) とレイモンド (1897) のどちらかにジュディーの部屋を定めて考えたのか、それともモーリちゃんの父と同じ推理をして1907年のジュウェットを想定したのか、は、絵からはわかりません。

  そして、2年生になると部屋を変えるジュディーが、「ウィンドウ・シート」もそのまま引っ越したかどうかみたいな、テクストに書かれない事情もあるので、断定はできないのですけれども、少なくとも、1年生の部屋について、方角はつぎのように書かれていました。通算2通目になる、1年生10月1日の手紙です。――

My room is on the northwest corner with two windows and a view.  (Century 26/ Penguin Classics 15)

  北西の角にあって、窓はふたつです。

  で、以下はまことにフィクションとノンフィクションをフィクショナルに混合するという、わけのわからん思考なのですが(でも実は文学ってそういうものかもしれない)、ジュディーが住んだのが、ジュウェット・ハウスであれ他の寮であれヴァッサーの地理をモデルにした場所ならば、つぎの、「建物の向き (2)――建物の向きの指示は大学向きだったっていえるのかい Direction(s) of Buildings (2)」に引いた地図が「北西」方向を位置づけてくれます。――

Vassar-AxisPlan,withBuildingsThatFollowtheNaturalTopography.jpg

  図の左が北です。上は東。つまり、北西は左下方向を指します。図の十字に交差する線のちょっと上にあるインヴェーダー型の建物が Main Building、その左下のテニスコートみたいなところに4つ組み合わさっているのがStrong House (1893)、Raymond House (1897)、Lathrop House (1901)、Davison House (1902) 、そしてその左(北)に南北線上に乗っかっているのが Jewett House (1907) です。

  すなわち、少なくとも1年生の部屋の窓から見えるのは、Main Building ではなくて、むしろ大学のキャンパスとはとりあえず無関係の自然の風景だったのではないでしょうか。

  (ちょっと考えながら続きます)

///////////////////////////

関連先行記事らしきもの――
塔 Tower
『パティ、カレッジへ行く』の献辞 Jean Webster's _When Patty Went to College_, Dedicated to "234 MAIN AND THE GOOD TIMES WE HAVE HAD THERE"
ウェブスターが1年生のときのヴァッサー大学のカタログをまた見てみる Vassar Catalogue for 1897-1898 When Jean Webster Was a Freshman
建物の向き (1)――建物の向きの指示は大学向きだったっていえるのかい Direction(s) of Buildings (1)
建物の向き (2)――建物の向きの指示は大学向きだったっていえるのかい Direction(s) of Buildings (2)
タンスをウィンドウ・シートに改造する Converting a Bureau to a Window Seat


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去年の今頃 [雑感]

今朝、といっても昼近くに、ソネットのポイントポン!1日1回、ポイントをゲットしよう!という1日1回のスロットをホイホイしたら、これまでの最高得点が出た。――

WS000494.JPG

  去年・・・・・もうおととし・・・・・・アメリカでブログをはじめたときは、ブログについてもソネットについてもわけのわからぬ状態だったのだが、単純に自分の家のプロバイダーだったのと、モーリちゃん(当時小学4年生)がそのころはポストペットのお世話に一時的に燃えていたので、お世話用の品々を購入するポイント獲得ができるというのが理由だった。

  それから今はなかなか復活しないままだけれど、夏と冬にギャルそねくじの(ギャルはないか)発行マシンを設置して、他のブログとの交流がそれによってはかられるところがあり、楽しかった(唯一の「読者」と「お友達」登録はそのときに知り合ったひと)。

  「共通テーマ」というのが記事ごとに変えられることも知らなかったし、冬まではずっと共通テーマは「日記・雑感」だった。

  1年前のいまごろ・・・・・・モーリちゃんとモーリちゃんの母をディズニーランドに送り出して、カリフォルニアの空の写真を撮りながら、アルバニーを歩いて思い出を訪ねたり、ナンカ製麺のうどんで力うどんをつくったり、安い豚肉を解凍してカレーをつくったりしていたあのころ

  ブログも、日常の記録、というか日記こそがブログだという信念のもとに、どうでもいいことを書いていたあのころ。でも、今日は何ポイント、みたいなことをもっぱら書くブログも嫌いではなかったし、自分でもよくわからんことを誰にでもわかるようなふりをして書くことこそ意味があるようにも思っていた。ま、いまも変わりませんけど。

  ということで、どういうことか自分でも整理がついていませんが、ちょっと今後の方向性を模索中の春です。(ほんとは501点とったぞ!、ということが書きたかっただけかもw)。


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失われた青春の時 Her Lost Youth [When Patty]

前に「『おちゃめなパッティ大学へ行く』のエピグラフについて Epigraph to _When Patty Went to College_」を書いたときに、内田訳に添えられているモーリス・ブショールの詩「リラの時とバラの時」について、以下のように書いて少し保留にしていました。

  「愛の死」ですから、リラとバラの時はわたしたちの恋(愛)とともに死ぬ(最終連――"Le temps des lilas et le temps des roses/ Avec notre amour est mort à jamais.")、という詩であります。いちおう謎のエピグラフなのですけれど、なにを考えていたのでしょうねー。青春時代の喪失なのでしょうか。いやだわー。

    この問題についてはちょっと考えてみようと思います。

  で、読みきっていなかった、このジーン・ウェブスターの大学卒業後に初めてまとめた作品を読んでずっと春のあいだ考えていました。

  『パティーが大学生だったとき』の最終章(最終話「パティーと司教 Patty and the Bishop」)で、日曜の礼拝をサボってキャンパスの裏手を散策するパティーは、もうすぐ大学生活が終わることで、人生と時間について感傷的なもの思いにふけります。――

Her eyes wandered back to the campus again, and she suddenly grew sober as the thought swept over her that in a few weeks more it would be hers no longer.  This happy, irresponsible community life, which had come to be the only natural way of living, was suddenly at an end.  She remembered the first day of being a freshman, when everything but herself had looked so big, and she had thought desperately, "Four years of this!"  It had seemed like an eternity; and now that it was over it seemed like a minute.  She wanted to clutch the present and hold it fast. It was a terrible thing—this growing old.
(さまようようなパティーの目はふたたびキャンパスに戻った。数週間もしたら自分のものではなくなる、という思いに襲われて、ふいに気持ちはさめた。この幸せな、責任のない、共同体の生活は、自分の唯一の自然な生き方になってしまっていたが、ふいに終わりを告げる。彼女は新入生になった第一日目を思い出した。自分以外のなにもかもがあまりに大きく見え、「これが四年間も!」と自暴自棄に思ったのだった。永遠と思えたのだが、過ぎてみると一瞬のように思われた。現在をつかまえて、しっかりにぎっていたかった。おそろしいことだ――この年とっていくということは。)

  秋の新学期を待たずに、学友たち〔女子大です〕に別れを告げねばならない。この世の中でゆいいつ心を許しあえる友人たち。いつか男の人たちと知り合いになって、誰かひとりと結婚するのだろう。「そして何もかも終わる」("and then all would be over")。気がついたときには老婦人になっていて、孫たちに娘時代の話をするのだろう。と、パティーは「失われた青春にあやうく涙をこぼしそうになりながら」 (almost on the verge of tears over her lost youth) キャンパスを見下ろします。するとそこへ説教をすませてきた牧師がやってきて、ふたりは木の下のいすに腰を下ろして話をします。

IHaveJustRunAwayfromYou,BisishopCopeley(WhenPattyWenttoCollege).jpg
I have just run away from you, Bishop Copeley (When Patty Went to College 266)

  牧師は、若いころは他人にどう言われようと気にはならないかもしれないが、年をとったらちがう、と言います。「歳というのは気がつかないうちに忍び寄る」 ("Age slips upon you before you realize it")。「あなたは、じき30になる。そして40になり、そして50になる」 (You will soon be thirty, and then forty, and then fifty.")。そんな年齢になっても言いのがれやごまかしを言っている女性に魅力があるだろうか、と牧師は言い、つぎの教訓をパティーに与えます。――

"You must remember that you cannot form your character in a moment, my dear.  Character is a plant of slow growth, and the seeds must be planted early." (「覚えておくがいい、お嬢さん。人格は一瞬にして形成されるものではないのだよ。人格というのは生長の遅い植物で、種は早くまかれねばならないんだ。」

  この教訓をパティーは持ち帰って、友人たちにむかって反復します。別のメンツに2回もです。その反復はコッケイなところがあって、(読者の)笑いを誘うのですが、パティー本人は神妙なところもあり、マジメなのかフザケテいるのか、よくわからないところがあります。とりわけ、これで物語は閉じてしまうので。

  ところで、植物のヒユが現われていることは確かです。そしてそれは時間についての思索と一緒に。で、それは、恋愛はともかく、若さというのは大学生時代、青春時代だけではない、ということを逆に語っているような気がしました。


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卒業生におくったことば [雑感]

(注:昨日は卒業式でした。) 

卒業おめでとうございます。morichan の父です。

歌でも歌ってすまそうかとも思ったのですが、原稿書いてきました。―― 

教えることは教わることである、というのは
学生楽ありゃ苦もあるさ、と並ぶわたしの座右の銘なのですが、1昨年諸君が23年生だったころにアメリカに逃亡しておったせいかわかりませんが、あんまり教えることがなかったような気もしなくもないです。それでも、2年生のときに演習に参加してくれたりした少数のかたがた、いろいろ教えてもらってありがとうございます。

一瞬(一寸)の光陰軽んずべからず、というのは、なかなか時間のなかに生きている身としては、反省的にしか思うことのできない格言で、よって誰もが真理と思いながらなかなか実践できません。しかし、三本の矢の教訓もあるように、ひととひとが協力することによって時間の壁をくずすこともできるかもしれない。友人関係を大切にしてください。

それから、若いころが花だと思いがちですが、人間のキャラクターというのは成長の遅い植物みたいなもので、種をはやいうちにまかねばなりません。まだ種をまくに遅いということはないです。

人はすぐ年をとります。あっというまです。じき30になり、40になり、そして50になります。(あ、これは引用です。小説からの・・・・・・。キャラクターというのは硬くいえば人格ですけど、やらかくいえば性格です)。

でも若さというのはやっぱり植物みたいなものですから、大事なのは種をまいたら水をあげることです。

お元気で。


タグ:youth
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眺めのよい部屋の窓の方向 (2) The Directions of the Windows of a Room with a View (2) [Daddy-Long-Legs]

3月22日の記事「眺めのよい部屋の窓の方向 (1) The Directions of the Windows of a Room with a View (1)」のつづきです。

  あいかわらず、虚構と現実を勝手につなげて想像する、というふるまいが続いています。

  前提を整理すると、(1) ジーン・ウェブスターのヴァッサー大学在籍時 (1897-1901) には、1912年刊行の『あしながおじさん』のジュディーの「塔」のモデルと考えられる9階建てのタワーつきの新しい寮 North (Jewett House) は建っていなかったし、(2) ウェブスター自身はどうやら Main Building 内に居住していたようだけれど、(3) 「塔」と呼ばれうる高層の建物は19世紀末から20世紀はじめの大学キャンパス内にはめずらしかったろうから(いちおうなーんとなく「タコに落ちる摩天楼の影 The Shadow of the Skyscraper on the Octopus」を参照)、(4) 1907年建設の、このヴァッサーの新しい寮(これの本体は他の建物同様に4階建てだったけれど、うしろにくっついて9階建ての Tower が、学生の部屋も入れてつくられた)が、やっぱりモデルとなっているだろう。

  そうすると、2年生以降の部屋替えで、どこにどう移動したかはおいといて、1年生のときの「北西」に高い窓のある部屋は、やっぱり Main Building の方向とは反対方向を向いていただろうと思われます。――

1年生10月1日の手紙です。――

My room is on the northwest corner with two windows and a view.  (Century 26/ Penguin Classics 15)
(わたしの部屋は北西の角にあって、ふたつの窓と眺めのよい部屋です。)

  なんで、これにこだわるかというと、1年生のときにジュディーは "From my Tower" という詩を書いて、学内の文芸誌の冒頭に掲載されるからです。1月31日の記事「「六行目に脚が多すぎる」――ムカデ図への伏線――脚の話 (7) "The Sixth Line, Which Had Too Many Feet": Leg Stories (7)」に引用した1年生の冬の2月ごろの手紙の文章を再掲します。――

Jerusha Abbott has commenced to be an author.  A poem entitled, "From my Tower," appears in the February Monthly―on the first page, which is a very great honor for a Freshman.  My English instructor stopped me on the way out from chapel last night, and said it was a charming piece of work except for the sixth line, which had too many feet.  I will send you a copy in case you care to read it.  (Penguin Classics 30)
(ジェルーシャ・アボットは作家としての一歩を踏み出しました。「わたしの塔から」という題の詩が『マンスリー』の2月号にでます――それも冒頭第一ページで、これは1年生としてはたいへんな名誉です。昨晩チャペルをでて帰り道に国語の先生がわたしを呼びとめて、あれはとても魅力的な作品で、ただ6行目の韻脚が多すぎるのだけが惜しい、とおっしゃいました。お読みいただければと思い、1部お送りするようにします。) 

  この、あしながおじさんには送付されたらしい詩は、残念ながらテクスト上には出てきません。それでも、もしかすると、クリスマス休暇の終わりごろに書かれた手紙は、ヒントになっているのかもしれません。――

Is it snowing where you are?  All the world that I see from my tower is draped in white and the flakes are coming down as big as popcorn.  It's late afternoon―the sun is just setting (a cold yellow color) behind some colder violet hills, and I am up in my window seat using the last light to write to you.  (Penguin Classics 26)
(あなたのいるところも雪が降っていますか? わたしの塔から見渡すかぎり世界のものみなが白く覆われてポップコーンのように大きな雪片が舞い落ちてきます。いまは午後おそく――太陽(冷たい黄色の)はもっと冷たいうすむらさきの連山の背後にちょうど沈むところ、そしてわたしは最後の〔名残りの日の〕光を使いながら、あなたに手紙を書くためにウィンドウ・シートにのぼっています。)

  ここで、ジュディーは、雪の降る黄昏(誰ぞ彼)時、山に沈む太陽を、例のウィンドウ・シート(「タンスをウィンドウ・シートに改造する Converting a Bureau to a Window Seat」参照)に座って見つめています。ついでながら "from my tower" というフレーズが忍び込ませられたり(?)もしています。ともあれ、ひとつの窓、それも外を眺めるためにウィンドウ・シートを設置したほうの窓、からは確かに西の入り日が見えるのでした。「ポップコーンのように大きい」という直喩は、アメリカンだけど、あんまり詩的な表現ではないかもしれない。でも、他の表現はなかなか詩的です。"last light" なんかは l 音を重ねる頭韻 alliteration というレトリックです。

  それと、ついでに、落第点を取ったときの、のちの、3月ごろの手紙。――

This is the sunniest, most blinding winter afternoon, with icicles dripping from the fir trees and all the world bending under a weight of snow―except me, and I'm bending under a weight of sorrow.  (Penguin Classics 30)
(日が照って、とてもまぶしい冬の午後、氷柱はモミの木からしずくを垂らし、世界のものみなが雪の重みにおしつけられています――が、ただわたしだけは悲しみの重みにおしつけられています。)

  これは、前に「冬の午後の雪景色 Most Blinding Winter Afternoon」で書いたように、やっぱり詩的なものを含んでいると思うのですが――そして "all the world" というフレーズが前の一節と響きあっているのですが――、とりあえずモミの木々からツララが垂れ下がっている景色を眺めているジュディーがいるわけです。

    下の地図で、地点が殺人のあった・・・・・・じゃなくて、Jewett House (North) のTower に想定される北西に窓のある部屋のかどっこ。

Vassar-AxisPlan,withBuildingsThatFollowtheNaturalTopography-turnedX.jpg

 

  なお、上の地図で、Jewett House の左(西)に、同じようなインベーダー型というかU字型で並んでいるのは、Josselyn House という学生寮で、1912年に建造されました (今日237人収容)<http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/josselyn.html>。

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4月1日付記

注記的記事として「×のしるしのある部屋 The Room Marked with a Cross」を書きました。


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