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緊張感 (1) Tension [ひまつぶし]

あ、どうも。

と、緊張感のない挨拶で、今年もよろしくお願いします。昨年(度)は忙しくなくなったはずなのに、かえってブログが書けませんでした。おそらく現実と現実逃避との微妙な関係のうえにこのブログは(かつて)あったのかもしれません。

ということで、だいぶまえから「緊張感がない」という表現の、メディア(ラジオやテレビ)での使われ方に違和感をもっているというおはなし。

極最近の例を書くなら、ソチ五輪開幕を前にしてのNHKの番組で――

スノーボード スロープスタイルの日本人選手について 

(1) 実況アナ「・・・・・・落ち着いてるんですよね。」
   解説者 「そうですね。オリンピックっていう舞台なんですけど、緊張感はもう、ぜんぜんないですね。」

(2) 角野選手(試技後)「・・・・・・呑まれました、雰囲気に、ひさびさに。いくら楽しもうと思っても、緊張して、からだ硬くなっちゃうんで、もっともっとリラックスして、なにも考えずにいつもどおり滑れたらいいかなって思ってます。」

(3) 女性アナウンサー「・・・・・・今度は、雰囲気にも負けないで、がんばってほしいですよねー。」
   男性アナウンサー「いやー、最初は、スタート前はねー、リラックスしている雰囲気があったんですけれども、勅使河原さん、やっぱり本人も言っていましたけれど、緊張するんですね。」

(4) 勅使河原さん「やっぱり、オリンピックは独特の雰囲気がありますのでー。会場の雰囲気というのはいつもどおりじゃなかったんでしょうね。緊張したんでしょうね・・・・・・」
  男性アナウンサー「最後は本人も認めていましたけどね。・・・・・・」

 緊張感なしにつづく~w

 

・・・・・・実はまだ考えがまとまっておらない(考えておらない)のですけれども、予感的に予告しておくならば、「緊張(感)」を個人(人間)に使うか、空気・雰囲気(場)に使うか、ということと、「感」ということばの近年の使われ方――スケジュール感とか、スピード感とか、登場感wとか――とのあいだで、先行的に使われてきた「緊張感」は緊張をはらんでいるのかな、という感じです。

 


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距離感 Sense of Distance [ひまつぶし]

きょりかん 【距離感】 目標物までどれくらいの距離かを正しく把握する感覚。――『広辞苑』第6版  

冬季オリンピック。

といえばカーリングである。「虹と雪のバラード」のころには思いもよらなかった競技。

で、録画して平均3回くらいは観ているのだけれども、今夜(いま)スウェーデンとカナダの決勝戦がBS-NHKで放送されている。

で、22時46分ごろに実況アナウンサーが、「この距離感はねらいですか?」と言ったところでスイッチが入って、ああ、この(声の)ひと、2、3日前も「距離感はどうでしょう?」とか言ってたな、と思い出し、これは書かねばならん、と緊張感にとらえられたのでした。

と、考えを練っているうちに、23時21分ごろ、同アナウンサーは「・・・・・・ガードを置きました。この距離感、いいですね。」と言った。

あのねー。広辞苑の定義には奇妙に合っているけど、ちがうやろ。

この感じはなんなのだろー。「距離」とか「緊張」とはっきり言わずに「距離感」とか「緊張感」と言うのは、スケジュール感とかスピード感とかと同じで、第一にdisclaimer のような、つまり正確さや事実を保証せずに責任回避するような、第二に主体と客体が奇妙に混じりあったナレアイの連帯を指向・志向・嗜好・思考・施行・試行するような一連の流れのなかにある表現なのかしら。

・・・・・・いまの機器は便利で、番組情報を見てみたら、NHKのアナウンサーじゃなくてTBSのひとだった。あー、あのTBSスポーツ絶叫中継のひとりか、と思った。でもNHKも少なくとも絶叫(といっても、小声・裏声の絶叫で、大声にはしない――それによって「共感」を誘う)風に流れているし、解説者も「有効的」とか、ヘンな日本語を使うけど。政財界のみならず放送界もアバウトな日本語を推し進めていくと、いったいどうなるのだめ。(実況に集中すべく、さよおなら~)


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「というもの」というひと the So-Called Ones [雑感]

July 21, 2013
週末に地方出張して、帰ってきてから(というか今日になってから)ウェークアップ!を見ていたら、ひさしぶりに鳩山民主党党員資格停止中元首相が、一席ぶっているレポートがあり、ひさしぶりに「というもの」を聞いた。

国民の生活が第一という原点というものを取り戻す・・・・・・

  (音が切られていたので、何と言っていたのか不明なのだけれど)テロップは、

国民の生活が第一という原点を取り戻す

  と、「というもの」は削られていた。 

    「A」と言わずに「Aというもの」と言うのは、単純にもったいぶった表現(ムダ・冗長・redundant)であるだけでなく、(1)対象(A)との距離を置き、あたかも自らが優位者(えらい)であるようなイメジ操作をし、(2)発話の聞き手(L)にも対象Aとは距離をもったらよい・ないし優位だよ、と誘うところがあるかもしれないところが怪しいというものだ。


タグ:という
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戦略 Strategy [雑感]

2014年2月25日22時23分


国会でエネルギー計画案が了承されたことについての「報道ステーション」のニュース報道の女声ナレーション

「原発事故後、国民の声を広く集め、当時の民主党が決めた、2030年代に原発ゼロという国の戦略を、今回転換し、まさに原発事故以前の原発推進政策に戻したとも言える。」

なんねんまえだったかしら、大学の「戦略」をいう文書に反発して、仮にこういう語彙が他から与えられた用語だとしても、そしていまは日本国が「国家戦略」としてアレコレ平気で議論しているのだし、「経営戦略」なるコトバは経営方面では定着して久しいのかもしれないけれども、教学の場において「戦略」を考えるのは違和感を抱くし、少なくとも大学の構成員(学生も含めて)が共有・理解できる言葉遣いで語られるべきだと考える、・・・・・・みたいなことを書いた。

戦争(への連想)に敏感なのは、オッサンの特徴だったのかしら、とかえりみつつも、論理的に考えれば、やはり「戦略」は相手を想定している言葉であるのは確かであって、そのてん、たとえば「計画」というニュートラルな言葉とはぜんぜんちがいます。

・・・・・・あるいは、もしかすると、19世紀の自然主義とそれと重なるダーウィニズムの発展形としての「社会的ダーウィニズム Social Darwinism」の影響が、時代を経て「企業戦士」(死語かとも思うw)とか「一平卒」みたいなオッサン用語に反映された結果として、社会と戦争が奇妙な融和を示しているのかしら。思えば「平和」状態にあっては、自由がないとは言えずとも、進化・進歩がなかなかもたらされないと言えるのかも知れず。


タグ:Strategy 戦略
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天使とヘルメス Angels and Hermes [魂と霊 Soul and Spirit]

2009年の「天使と悪魔、天(国)と地(獄) Angels and Devils, Heaven (, Earth,) and Hell [Daddy-Long-Legs] 」を読み直していての引用抜き書き。ハインリッヒ・ロムバッハ著、大橋良介・谷村義一訳 『世界と反世界――ヘルメス智の哲学』 (リブロポート、1987年)

Fra_Angelico_043-Annunciation.jpg 
フラ・アンジェリコ 『受胎告知』 フレスコ画 1436-43年――フィレンツェ市 サン・マルコ美術館
神の使者たる天使が翼をつけた精霊となっている。これはキリスト教的ヘルメスである。〔ロムバッハ p. 107〕 image via Wikipedia

 

天使

 キリスト教が「主」への帰依を決断し、キリストが諸世界の王へと押し上げられた時代にあっては、ヘルメス的原理はキリストの姿から逃げ去って天使に姿を変えた。翼を持った霊的存在が出現した。それは神的圏域と人間的圏域との間を媒介する使者(アンゲロス)にして天使(エンゲル)である。

 我々はヘルメスの徴標に属するすべてのものを、天使において見出す。すなわち翼や杖、使者の役目、「従者」の役割などである。天使は別の世界への案内人であると同時に、個人の独自性の守護神である。後の時代の「守護天使」は、ヘルメスの元来の力の弱々しい俗流化した残照にすぎない。しかしそれでもトマス・アクィナスが主張した内容に劣るものではない。その主張とは、天使を信ぜざるものは何びとたりとも真のキリスト教徒たりえず、というものである。もちろんここでトマスが眼中においていたのは、本来の天使の姿、すなわち最大にして普遍的な規模における世界存在である。

 天使をヘルメスの残像として認識するには、ずっと遡って考えねばならない。そうすれば、聖なる三位一体そのものを諸天使の姿において描いたあの驚嘆すべきイコーン(本書八一ページ)を見出すことになる。そこではヘルメス的原理が、昔の時代と同じように、単に神的なものと人間的なものとのあいだの媒介者としてだけでなくて、さらにそれ自身が神的な原理として捉えられている、ということが示されている。神的な存在と媒介作用との統一が生命をもっていたあいだは、神もまた「契約」をなすべく準備している神であった。後になって、ヘルメス的なものが天使へと移行してしまったとき、キリスト教の神がもつ連関の中で、契約を結ぶもの同士という関係は後退したのである。

 天使の形態の歴史において、ヘルメス的思惟が失われて絶対主義的な色彩を強めてゆくアポロン主義に徐々にとって代られるという事実は、驚くほど明瞭に示されている。このことは天使がその性別を変えるということから始まる。これは中世後期と近世前期とにとっては、弱体化と解されねばならない。天使がもともとはその名前と形像からして男性であったとするなら、バロック以来、女性とか童子とかの形をとる傾向があらわれ、遂に十九世紀になって少女の姿に、それも甘美な少女の姿に封じこめられてしまう。この少女の姿は、さらには低俗なつくり物へと転落していく。おそらく西洋の歴史において、天使の姿ほどに甚しく崩れていかねばならなかった聖像の型は、他にはないであろう。

 天使たちはもともと世界存在であった。その各々がそれぞれに完璧な世界であり、世界視圏であり、世界像であり、告示であり、あらゆる本質内容とその大なる合法則的な連関とを内に映した像であった。天使たちは創造の出来事をその根源的な姿において示した。天使たちは謎の解き明かされた世界史であり、白日のもとに開かれた自然の書であり、創造の出来事を、これが物質的な事物の中で現象するよりもさらに明るく照り返させる、明晰な鏡であった。だから天使たちは「讃めたたえ」にして「讃辞」であり「合唱」であった。これらの天使たちにおいて初めて、技芸をこらした建築すなわち、全体が「音楽」であるような建物が明示された。

 各々の天使がいずれも世界の統一解釈であったため、天使たちは「並列」という秩序においてではなくて、「積層」的な秩序において、諸圏域という秩序の中で考えられねばならなかった。それぞれ「高次」の精神的存在はそれよりも低次の存在を包含し、さらに高次で統一的で透明な世界解釈をも含有していた。世界はさまざまの高みにおいて見られ、解釈されることができる。あらゆる高みは同等の資格をもっている。この同等の資格をもった調和的一致は、形象的に合唱のうちでありありと示された。「天使の合唱」は、世界の解釈の多様性をあらわす最古のシンボルである。それはヘルメス的形象である。どの合唱も全体的世界(叡智)としての世界に投げかけられた、光に満ちた理解の眼差しである。

 天使たちの姿がヘルメス的であるのは、なかんずく第一に、それが世界存在だからである。天使は各々が一つの世界である。次に天使たちの姿は、外部というものに対して関連をもたないという点でヘルメス的である。それらはすべての根拠を自らの内に含んでおり、自らを自分自身から説明し、他に対して完結している。最後に天使たちがヘルメス的であるのは、それらが外部の支えをもたずに自らを維持し、つまりは「宙に浮いて」いるからである。だからがあるのである。次に天使たちは神の「使者」である。また使者としてのみ、天使たちは一つの姿をとり、若者とか賢者とか旅人としかして現ずる。もちろんその場合、天使たちは精神的存在としての自分たちに属している「場所」を離れはしない。天使たちはここに居ると同時に彼処にも居り、そのゆえに使者なのである。

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ジアン・ロレンツォ・ベルニーニ 『聖テレジアの恍惚』 1644-47年――ローマ市 サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア image via Baroque Art <http://www.kingsacademy.com/mhodges/11_Western-Art/17_Baroque/17-01_Baroque_Italian+Spanish.htm>

 その後も引きつづいて天使はヘルメス的原理を保持する。天使たちは異教徒における神々にあたる。初期のキリスト教徒たちが信じていたところでは、異教徒たちは唯一神を信仰することをなし得ず、わずかに諸々の「叡智的なもの」へ迫っていってこれらの一々を自分たちにとっての神とみなすことしかしなかった。かくして異教徒たちは、形姿をもった神々の像、つまり多神教を、従って偶像崇拝を、持つに到った。キリスト教が初めてすべてを明らかにした。キリスト教は、これらの「神々」が何であるかを、つまり下位の神的存在だということを、示した。キリスト教はこれら神々の像を純化し、この像をその真実の姿へ、つまりそれ自身の場所へ、置き入れた。この見解がヘルメス的であるのは、それが各々の個別的形姿を「いわば」ある神として捉えることを教えたからである。我々が見るように、ヘルメスの多面像は天使の合唱の中で、元来は非常によく保存され、天使の世界性格や他に依存しないあり方も同様であった。とりわけよく保存されているのは、厳密にヘルメス的な根本動向である。というのは、このような天使という叡智的存在者の折々の世界視圏は、他の任意の叡智的存在者からは洞察され得ないからである。第一の叡智的存在者が見ているものを、ただそれだけでも、第二の叡智的存在者が見てとることができるなら、後者は前者と同一ということになるであろう。なぜなら叡智的存在者にとって、見るということはすべてだからである。叡智的存在者たちはそれゆえ、世界を自分自身の見方において眺める。そしてある意味では、より深いところに立脚する叡智的存在者の見方において眺める。しかし彼らは自分を越えて見ることはできない。彼らがそれをなし得るのであれば、彼らは自分たちを越えて有ることになるだろう。――このことは、なぜ各々の思考段階において一人の天使しか存在し得ないかということの説明である。この段階のあり方での叡智的存在者は、この段階において見るべきもののすべてを見るのであり、この段階と同一である。この点においてヘルメス智の本来的な内容が反復される。すなわち、一つの世界を見る考察者はすべて、この世界と同一だということである。別の表現でいえば、ヘルメス的「考察」というものはない。ヘルメス的「有」のみがある。単に見ることだけを欲する者は、アポロン的理論家にならなければならない。

 さらに天使の合唱は、次のような重要なヘルメス的経験を非常にはっきりと表現にもたらす。その経験とは、ヘルメス的体験がうまく行かないこともあり得るということである。この体験が、その世界性格を誤解して自らを絶対化する場合にこのことが生ずる。天使の堕罪の物語は、叡智的存在者の幾体かが自らを神とみなし、とりわけ最高位の天使が「光を担う者」(Luzi-fer)という名を以て神を僭称し、天国の対極、すなわち「地獄」への堕落という罰を受けることになった、という内容である。ヘルメス的世界はまさしく透明な、そして透徹した仕方で、最高にして唯一なるものへ自分を関係づけ戻さねばならず、自分を絶対化してはならないのである。

  天使と天使堕罪とについてのキリスト教の教説は、次のような基本的なヘルメス的洞察を保存するという世界史的な課題を持っている。そのヘルメス的洞察によれば、自らを絶対視するいかなる世界精神もその反対の立場へ倒錯し、共同性と喜びと成就との原理になるかわりに、個別化と絶望と失敗との原理になる。「悪魔」はキリスト教徒にとっては、堕落し墜落した「天使」に他ならない。これらの天使たちは自らの神格化に失敗した世界形態であり、この諸々の世界形態はもはや自らを同一なるものの異なった諸形態にして「被造物」と見ることができず、自分自身の照明力の根源である究極にして最高の光に自らを関係づけることが、もはやできないのである。

 天使とはすべてそれぞれの世界視圏であり、世界観であった。キリスト教の天使論は、諸々の「世界観」がいずれも妥当すると同時に相互に異なり得るということを、ただし本当に普遍的な世界観についてのみこれが当てはまるということを、lなおも智として保存していた。しかし残念なことに、このヘルメス的智は把捉されないままに終わり、ただ一つの世界と一つの世界観としか知らないアポロン的智によって覆われてきた。

 天使とヘルメスとのあいだの呼応がいかに完全であるように見えても、やはりある重要な契機が欠けている。それは創造性である。天使たちはただ眺めるだけであって、形成することはない。天使たちは、創造についての知を共にするだけで創造の働きを共にすることはない。おそらくはここに、天使たちがその歴史において低俗趣味の虚無へと堕落し、勃興する自然科学の中で創造思想が色あせてゆく原因もあるのである。

 この虚無への道の途上で、ヘルメス的なものは何に出遭ったのだろうか。まずそれは、地下のもの、背後的なものへずれこんでいく。天使への信仰が消えていく度合いに従って、悪魔的なものへの信仰が成長していった。魔女信仰や魔女妄想、悪魔への恐怖、黒い魔術、錬金術、占星術、予言、等々のものがヘルメス智の戯画的形態として勝利を祝ったのは、まさに中世の秋においてであった。

 しかしその状態もまた続きはしなかった。戯画的形態は自らを維持することができず、十八世紀と十九世紀にヘルメス的精神は、新たに「天才」として出現した。それは謎めいた、何ものによっても説明されることのない、またいかなる学習によっても習得することのできない精神であり、それは高い飛翔を能くし、それを担う者に特有の個性と反復されえない唯一性とをもたらす。かくして「天才崇拝」に到った。これは疑いもなくヘルメス智を継承したものであり、また既に再びアポロン的な仕方で曲解され誇張されていた。元来は、自らを支える担い手としての人間を探すあの自由な精神としてのみ考えることが許される天才は、ここで天才を「持つ」とか天才「であった」とかといわれる特定の個人たちの所有と見られた。こういう誤解は長くはつづき得なかった。

 わずかに幾つかの個所で、ヘルメス的原理は純粋な形において救われた――そして天使の姿も力強い輪郭において救われた。たとえばリルケにおいて、天使の姿は端的に超越の姿へと高められた。なぜ天使かといえば、リルケの神が彼岸へ押しやられた姿なき存在ではなくて、内面性および美として事物のうちに住み、事物から形を造り出すところの原理だからである。それは形成原理そのものであり、真と善との原理よりも高次のところに立つものである。ごく稀れに、ヘルメス智はこのなおも久しく到来することの絶えた――リルケの天使のような――明確な表現を得ることがあった。我々が何を直観するにしても、それは我々にとっての向上の階梯となり、そのもとで最小のものが最大のものへと栄えゆくような光の弧となるのである。

〔斜字は原文傍点〕

Heinrich Rombach, Welt und Gegenwelt. Umdenken uber die Wirklichkeit: Die philosophische Hermetik.  Basel: Verlag Herder, 1983. ハインリッヒ・ロムバッハ著、大橋良介・谷村義一訳 『世界と反世界――ヘルメス智の哲学』 (リブロポート、1987年), pp. 106-115.

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長くなりました。共振・共鳴するだろう事柄は、追って記事にしていきたいと願っています。「魂と霊」(マイカテゴリー)は直接出てこないけれど、ここに分類しておきたい。ただ、訳書では他のいくつもの箇所で Geist は「生命(いのち)」とされていることだけ書きとめておきます。それと、うえの文章を起点としてハイパーリンクを張っていきたいとも思っています。


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