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バーネットの『白いひと』 (1917) _The White People_ by Frances Hodgson Burnett [The White People]

モーリちゃんの父は男だったので、小学生のころに『狭き門』は読んでも『あしながおじさん』も『秘密の花園』も読まなかった。『若草物語』も『赤毛のアン』も読んだ記憶はない。『小公子』と『小公女』は、どっちがどっちかわからないくらいだけれど、小学校5,6年のころに、模型飛行機でセドリックというのがあって、その記憶と結びついているので、たぶん『小公子』は読んでいたのかもしれない。

  さて、モーリちゃんはいつのまにかもう小学校6年生になってしまったけれど、子供を育ててタメになることのひとつは、一生の読書の初期部分をやりなおせることですな。大人の目で読むとどうなるかというようなリクツっぽいはなしではなくて、単純に、読むという行為においてです。「子供は大人の父である」(ワーズワース)。であるなら大人は子供の子供なのだ。

  川端康成 (1899-1972) 訳の『白い人びと』は、弟子の野上彰 (1909-67) が編集委員のひとり(他は藤田圭雄と矢崎源九郎と金田一春彦)となっていたポプラ社版「世界の名著」全30巻の第9巻に、『小公子』と一緒に収められました(1972)(ちなみに第10巻は『小公女』で、やっぱり川端の訳だった)。いったい、著名な作家がどれくらいのエネルギーと負担で訳すのかはわからないけれど、川端康成という人はもっと以前から児童文学にかかわっていた人ではあります。ともあれ、野上彰個人はこのシリーズの中では、『若草物語』(第13巻)と『あしながおじさん』(第21巻)という、このブログで扱ってきたアメリカ文学作品2作を訳しています。

  この抄訳に影響を受けた人は多くて、2002年に完訳版として『白い人たち』(文芸社; 新装版, 2005)を上梓した砂川宏一も、その旨「訳者まえがき」に記しています。

  『白いひと』は、スコットランドの、文字通りにゴシック的な「城」(Muircarrie Castle)に、家長として育った少女イザベル (Ysobel) が、「白いひと White People」を幻視するエピソードと、同じスコットランドの作家ヘクター・マクネアン (Hector MacNairn) との交流を通して自分と世界についての理解を深めていく(というと月並みですが、「白いひと」というのは基本死者ですから、オカルト的なおもむきが漂っています)プロットからなる、中篇小説です。ちょっと唐突なところもあるしちょっと断章的な感じが否めなくもないけれど、奇跡についてとか、世界の法則についてとかは、『秘密の花園』の中にあって日本の児童文学者に嫌われる「魔法」的な部分につながっていて、神秘主義的な世界観が背後にあることが感じられます。けれどもそれを神秘「学」的に説くところは、よかれあしかれ、少なくて、また、恐怖感も稀薄で、結果、しみじみとする、ゴシック・ロマンスの変化形といった感じ(まったく個人的な感じ)。

  ただ、この種の作品はバーネットが大人向けに書いたというような分類をされることが多いけれども、『秘密の花園』だって大人向けに書いたわけです。読者の体験としては、たぶん大人の知恵で主人公の「心理」を分析してしまうよりも、そのまま(いわば子供のように)事実として読んでいって、マクネアンらによる説明を聞いたほうが神秘感は大きくなるでしょうね。いっぽう、語り手とマクネアンとの関係からするならば、まだ十代の少女が書いている設定(幼少時の回想から始まるけれど、ほとんど現在につながる)と思われますから、そこでも大人/子供の区分を崩しているのではないかしら。

  あー、だから「しみじみとする」などというコトバは大人の言い方であって、もうちょっと高揚する驚きの感覚とか、わけわかんないけど現実の背後にあるものの予感とか、そういうものを時間の中に生きる(ということは死なざるを得ない)人間のある種の憧憬とともに提示していて、そういうところは、ぜんぜん物語は違うけれど、ロバート・ネーサンの『ジェニーの肖像』と似た不思議な印象を読者に必ず刻むような気がする。

   ということで(どういうことかわかりませんが)、少しずつバーネットについても書いてみたいと思います。

WhitePeople-frontispiece-gaussed.jpg
Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917), frontispiece.  Illustrated by Elizabeth Shippen Green.

  右手前の女の子が6歳ごろのYsobel。となりの女の子がウィー・ブラウン・エルスペス (Wee Brown Elspeth)。背後の騎士がその父親の「ダーク・マルカム」 (Dark Malcolm of the Glen)。この父子の500年前の暗く悲しい物語は第9章(作品は全10章)になって語られます。

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Gutenberg E-book of The White People <http://etext.lib.virginia.edu/etcbin/toccer-new2?id=BurWhit.sgm&images=images/modeng&data=/texts/english/modeng/parsed&tag=public&part=all>

『バーネット女史の部屋』 by らいおねる <http://www.geocities.co.jp/Berkeley/1400/>

Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/details/whitepeople00burnrich>

 

 


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バーネットの『白いひと』 の献辞 Dedication to _The White People_ by Frances Hodgson Burnett [The White People]

以前、ジーン・ウェブスターの初期作品のユーモアのある献辞 (dedication) について書いたことがありました(「『パティ、カレッジへ行く』の献辞 Jean Webster's _When Patty Went to College_, Dedicated to "234 MAIN AND THE GOOD TIMES WE HAVE HAD THERE"[When Patty])。そのひとつ前の「『おちゃめなパッティ大学へ行く』のエピグラフについて Epigraph to _When Patty Went to College_」で書いたように、作者の献辞はしばしば翻訳からはずされてしまうことがあるようです。大人向け、完訳・全訳・完全訳、などを謳(うた)っていてもです。

  砂川宏一訳の『白い人たち』(文芸社, 2002; 新装版 2005)は、本文の前に「訳者まえがき」 (3-5) が、後に同じ訳者による「解説 『白い人たち』について」 (173-194) が、そして、目次にはないけれど195 ページにはいわば謝辞のようなものが解説に付随するかたちで記されています。長い文章は熱のこもったもので、パーソナルな思いを記したところも含めて、基本共感するところ多く、それ自体に文句はないす。けれども、作品を大事にしているならば、どうして献辞をはしょっちゃうんだろう、という疑問は生じます。1ページ割けないというならば、せめて解説で言及することくらいはできるでしょうに。

  とりあえず少なくとも初版(これは訳者が、「一九一七年に出版された初版本、つまり、今から八十五年前に出版されて今日までずっと残っているものの一冊で、世界中をくまなく探したとしてもこれと同じものはもう一冊も残っていないかも知れないという大変に貴重な本」と「まえがき」で記しているもの)にはつぎのような献辞があります。――

WS000596.JPG
Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/stream/whitepeople00burnrich#page/n9/mode/2up>

  ライオネル (Lionel) というのは、前の記事に記した『バーネット女史の部屋』の管理人の名前がらいおねるさんでしたが、1892年に結核で亡くなった長男です。1874年生まれだから、17、18歳だったのかしら。バーネットは1849年生まれで、初婚が1873年でした。

  さて、この亡くなった息子のライオネルへの献辞ですけれど、詩が添えられています。それは、引用符に入っていますけれど、引用です。――


"The stars come nightly to the sky;
The tidal wave unto the sea;
Nor time, nor space, nor deep, nor high
Can keep my own away from me.''

(星星は夜ごと空にあらわれる
潮流は海にやって来る
時間も、空間も、深海深みも、天空高みも
私のものを私から離しておくことはできない)

  つまり、この4行はバーネットの自作ではなくて、いまはいわゆるネイチャー・ライティングの作家として有名なアメリカの John Burroughs (1837-1921) の最も有名な詩 "Waiting" の最終スタンザです。六連四行詩の最終連。

"Waiting"   -John Burroughs

Serene, I fold my hands and wait,
Nor care for wind, nor tide, nor sea;
I rave no more 'gainst time or fate,
For lo! my own shall come to me.

I stay my haste, I make delays,
For what avails this eager pace?
I stand amid the eternal ways,
And what is mine shall know my face.

Asleep, awake, by night or day,
The friends I seek are seeking me;
No wind can drive my bark astray,
Nor change the tide of destiny.

What matter if I stand alone?
I wait with joy the coming years;
My heart shall reap where it hath sown,
And garner up its fruit of tears.

The waters know their own and draw
The brook that springs in yonder height;
So flows the good with equal law
Unto the soul of pure delight.

The stars come nightly to the sky;
The tidal wave unto the sea;
Nor time, nor space, nor deep, nor high,
Can keep my own away from me.

  この詩を解説する能力は今ないので、メモとして記しておきます。

  訳者としては、作家自身の個人的な文脈を敢えてはずしたかったのかなあ。でもパーソナルなものがどうしようもなく創作にはあるのですよねー。

  もうちょっと考えてみると、献辞で "To" の相手に献じられているものは本の本体(作品)であって、引用ではない。この引用は添え書きのようなものかもしれませんが、結局のところ、それが個人的なものであったとしても、その個人的なものを垣間見る(個人的なものにあずかる)読者にとっては作品『白い人』のエピグラフのような役割を果たすことになるのではなかろうか。

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"Waiting - John Burroughs (1837-1921) :: General Discussion :: The Poetry Archives @eMule.com" <http://www.emule.com/2poetry/phorum/read.php?4,176934,217886> 〔"own" についての議論〕

"JOHN BURROUGHS.; His Religion as Expounded in His Lates Book" New York Times, June 2, 1900 <http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9A05E4D71339E733A25751C0A9609C946197D6CF> 〔バローズが近作に自身のこの詩を引用している〕

The White People (Burnett) - Wikisource <http://en.wikisource.org/wiki/The_White_People_(Burnett)>

Gutenberg E-book of The White People <http://etext.lib.virginia.edu/etcbin/toccer-new2?id=BurWhit.sgm&images=images/modeng&data=/texts/english/modeng/parsed&tag=public&part=all>

『バーネット女史の部屋』 by らいおねる <http://www.geocities.co.jp/Berkeley/1400/>

Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917) etext @Internet Archive <http://www.archive.org/details/whitepeople00burnrich>

 

 

 


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バーネットの『白いひと』と人種問題 Burnett's _The White People_ and Race Matters [The White People]

フランセス・ホジソン・バーネット (Frances Hodgson Burnett, 1849-1924) はイギリスのマンチェスターの生まれだけれど、父親の死後1865年に家族と一緒にアメリカのテネシー州ノックスヴィル(ノックスヴィルというと、『家族の死 Death in the Family』を書いたジェイムズ・エイジー James Agee を思い出します)に十代半ばで移住して、1868年には婦人雑誌 Godey's Lady's Book に短篇小説の寄稿を始めます。『ゴーディーズ・レイディーズ・ブック』は1830年にフィラデルフィアで創刊された女性向け雑誌で、ポーが「約束事」とか「鋸山奇譚」とか「おまえが犯人だ」とか「長方形の箱」とかいった短篇小説を載せたものとして個人的にはなじみがあります。調べてみると1898年まで刊行が続いたようですけれど、1860年代にはアメリカの婦人総合雑誌としては中心的なものだったようです。

  その後、結婚、出産、長男ライオネルの死、離婚などあって、1890年代なかばごろからはイギリスでの生活が多くなるのだけれど、1905年にアメリカ市民権を正式に取得し、アメリカとイギリスのあいだで大西洋を行ったり来たりする生活をして、1924年、ニューヨーク州の自宅で亡くなります。

  作品をたいして読んだわけでないから、適当な分類しかできませんけれど、アメリカとヨーロッパにまたがるもの、インドとイギリスにまたがるもの、イギリスを舞台にするもの、そしてたぶんアメリカを舞台にするものがあって、でも最後のものはおそらくは少数かもしれない。

  それで、アメリカ作家としても、イギリス作家としても捉えられるという、ちょうどアメリカ生まれの小説家のヘンリー・ジェイムズとか詩人のエリオットとかパウンドとかの逆みたいな感じがあるのだけれど、近年の批評の流れに乗って考えられる線は、ポストコロニアリズム批評みたいなところがひとつあります(典型的には『秘密の花園』における大英帝国と植民地インド、ならびにコレラ問題とか)。

  そのラインでいうと、『白いひと』なんて、タイトルからしてあからさまに人種の問題にからみそうな気配があるわけです。

  でも、おもしろいのは、人種問題文脈をあたかも作家自身が先んじて記述しているところです(こういうのってポーにもあって、いったい批評というのはなんなんじゃろ――(フランク・カーモドが言ったように、作家自身が最初の批評家か)――、という思いにときどき駆られたりもします)。主人公で語り手の少女イザベルがロンドンに出てきて後見人の邸のパーティーで初めて作家ヘクター・マクネアンと話をするところ。ロンドンに向かう汽車にふたりは偶然に乗り合わせていて、喪に沈む母親と、その母親にしがみつくようにしている男の子(この子を見ているのは実はイザベルだけなのだけれど、その事実を誰も知りません)について、イザベルは以前からの彼女の呼称「白いひと White People」をもちだして話します。

     "It was not six years old, poor mite," I answered.  "It was one of those very fair 〔色白の〕 children one sees now and then.  It was not like its mother.  She was not one of the White People."
     "The White People?" he repeated quite slowly after me.  "You don't mean that she was not a Caucasian〔コーカソイド〕?  Perhaps I don't understand."
     That made me feel a trifle shy again.  Of course he could not know what I meant. How silly of me to take it for granted that he would!
     "I beg pardon.  I forgot," I even stammered a little.  "It is only my way of thinking of those fair people one sees, those very fair ones, you know―the ones whose fairness looks almost transparent.  There are not many of them, of course; but one can't help noticing them when they pass in the street or come into a room.  You must have noticed them, too.  I always call them, to myself, the White People, because they are different from the rest of us.  The poor mother wasn't one, but the child was.  Perhaps that was why I looked at it, at first. It was such a lovely little thing; and the whiteness made it look delicate, and I could not help thinking―"  I hesitated, because it seemed almost unkind to finish.
     "You thought that if she had just lost one child she ought to take more care of the other," he ended for me.  There was a deep thoughtfulness in his look, as if he were watching me.  I wondered why.
     "I wish I had paid more attention to the little creature," he said, very gently.  "Did it cry?"
     "No," I answered.  "It only clung to her and patted her black sleeve and kissed it, as if it wanted to comfort her.  I kept expecting it to cry, but it didn't.  It made me cry because it seemed so sure that it could comfort her if she would only remember that it was alive and loved her.  I wish, I wish death did not make people feel as if it filled all the world―as if, when it happens, there is no life left anywhere.  The child who was alive by her side did not seem a living thing to her.  It didn't matter."
     I had never said as much to any one before, but his watching eyes made me forget my shy worldlessness.
     "What do you feel about it―death?" he asked.
     The low gentleness of his voice seemed something I had known always. 
     "I never saw it," I answered.  "I have never even seen any one dangerously ill.  I―it is as if I can't believe it."
     "You can't believe it?  That is a wonderful thing," he said, even more quietly than before.
     "If none of us believed, how wonderful that would be!  Beautiful, too."
     "How that poor mother believed it!" I said, remembering her swollen, distorted, sobbing face.  "She believed nothing else; everything else was gone."
     "I wonder what would have happened if you had spoken to her about the child?" he said, slowly, as if he were trying to imagine it.
     "I'm a very shy person.  I should never have courage to speak to a stranger," I answered.
     "I'm afraid I'm a coward, too.  She might have thought me interfering."
     "She might not have understood," he murmured.
     "It was clinging to her dress when she walked away down the platform," I went on.  "I dare say you noticed it then?"
     "Not as you did.  I wish I had noticed it more," was his answer.  "Poor little White One!"
     That led us into our talk about the White People.  He said he did not think he was exactly an observant person in some respects.  Remembering his books, which seemed to me the work of a man who saw and understood everything in the world, I could not comprehend his thinking that, and I told him so.  But he replied that what I had said about my White People made him feel that he must be abstracted sometimes and miss things.  He did not remember having noticed the rare fairness I had seen.  He smiled as he said it, because, of course, it was only a little thing―that he had not seen that some people were so much fairer than others.
     "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours."
     I sat silent a few seconds, thinking it over.  Suddenly I realized what I had never realized before.
     "Do you know," I said, as slowly as he himself had spoken, "I did not know that was true until you put it into words.  I am so used to thinking of them as different, somehow, that I suppose I do feel as if they were almost like another race, in a way.  Perhaps one would feel like that with a native Indian, or a Japanese."
     "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?"  (The White People 40-44 [ch. 4])

  訳している余裕がなくなったので、次回につづきま~す。(なんかカリフォルニア時間に戻ったみたいw)。

 


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バーネットの『白いひと』と人種問題 (2) Burnett's _The White People_ and Race Matters (2) [The White People]

このごろ、というか、前からなのだけれど、このごろ、(1) だけ書いてつづきを書かないままにしている記事が増えてきたことに、このごろ、気がついた、このごろ。

  まるで実人生の反映のようです。

  でも、完結しないで先のばしにするのはそれなりに――長くなったから、という適当な物理的理由ではなくて――理由があるようなのです。つらつら考えてみると。

  なんとか片を付けていかねば、と思っています、心底。

  で、近場から。

  こないだの記事「バーネットの『白いひと』と人種問題 Burnett's _The White People_ and Race Matters」に引いた英語に日本語訳を添えてみます。

     "It was not six years old, poor mite," I answered.  "It was one of those very fair children one sees now and then.  It was not like its mother.  She was not one of the White People." (まだ6歳にもなってなかったんです、おちびちゃんは」とわたしは答えました。「ときどき見かけられるとても色白の子供のひとりでした。おかあさんとは違っていました。母親は白いひとたちのひとりではありませんでした。」)
     "The White People?" he repeated quite slowly after me.  "You don't mean that she was not a Caucasian〔コーカソイド〕?  Perhaps I don't understand." (「白いひとたち?」とゆっくり彼はわたしのことばを繰り返しました。「母親がコーカソイドではなかったということではないですよね? よくわからないのですけど。」)
     That made me feel a trifle shy again.  Of course he could not know what I meant. How silly of me to take it for granted that he would! (このことばでわたしはまたちょっと内気になりました。わたしが言おうとしたことをわからないのはあたりまえです。当然わかってもらえると思ったわたしはなんておばかさん!)
    "I beg pardon.  I forgot," I even stammered a little.  "It is only my way of thinking of those fair people one sees, those very fair ones, you know―the ones whose fairness looks almost transparent.  There are not many of them, of course; but one can't help noticing them when they pass in the street or come into a room.  You must have noticed them, too.  I always call them, to myself, the White People, because they are different from the rest of us.  The poor mother wasn't one, but the child was.  Perhaps that was why I looked at it, at first. It was such a lovely little thing; and the whiteness made it look delicate, and I could not help thinking―"  I hesitated, because it seemed almost unkind to finish.  (「失礼しました。忘れてました。」 わたしはちょっと口ごもりました。「あの色白のひとたちについてわたしが勝手に思っていることなんです。とても色白のひとたち――その色の白さはほとんど透明といってもいいように見えます。もちろんたくさんはいませんけれど、通りですれちがうとか、部屋に入ってくるとかしたときには目を留めずにはいられません。あなたも目をお留めになったことがあるにちがいありません。わたしは、いつも、自分で<白いひと>と呼んでいるのです。ほかのひとたちとは違うんですもの。哀れな母親は違いましたけれど、子供はそうでした。あの子に最初に目がいったのはそのせいかもしれません。とても美しい子でした。その白さのために、繊細に見えたので、わたしはこう思わざるを――」 わたしはためらいました。最後まで言うのは母親に対して優しくないと思われたのです。)
     "You thought that if she had just lost one child she ought to take more care of the other," he ended for me.  There was a deep thoughtfulness in his look, as if he were watching me.  I wondered why.  (「たとえひとりの子供を失なっても、もうひとりの子供のことにもっと気を遣うべきだと思ったのですね。」とわたしに代わっておしまいまで言ってくれました。その顔つきには深く思うところがあって、わたしを気遣ってくれているようでした。なぜだろう、と思いました。)
     "I wish I had paid more attention to the little creature," he said, very gently.  "Did it cry?" (その小さな子にもっと注意を払ってあげていられたら、と思います。」と彼はとても優しく言いました。「彼は泣いていたの?」)
     "No," I answered.  "It only clung to her and patted her black sleeve and kissed it, as if it wanted to comfort her.  I kept expecting it to cry, but it didn't.  It made me cry because it seemed so sure that it could comfort her if she would only remember that it was alive and loved her.  I wish, I wish death did not make people feel as if it filled all the world―as if, when it happens, there is no life left anywhere.  The child who was alive by her side did not seem a living thing to her.  It didn't matter."  (「いえ」と私は答えました。「あの子はおかあさんにただしがみついて、黒い袖を叩いたり、キスしたり、母親を慰めたがっているようでした。泣くんじゃないかとずっと思っていたのですけれど、泣かなかったんです。それでわたしのほうが泣けました。だって、母親が、この子は生きていて自分を愛しているということを思い起こしさえすれば、子は母を慰めることができるのだと確かに思えたからです。わたしが願っているのは、死が、まるで世界を埋めつくしているみたいにひとびとに感じさせなければ、という――まるで、死が起こったときに、生がどこにも残されていないかのような感じを起こさせなければという、ことです。母親のかたわらで生きていた子供が、母親には母親には生きたものと思われないようでした。母親にはどうでもよかったのです。」)
     I had never said as much to any one before, but his watching eyes made me forget my shy worldlessness.  
     "What do you feel about it―death?" he asked.
     The low gentleness of his voice seemed something I had known always. 
     "I never saw it," I answered.  "I have never even seen any one dangerously ill.  I―it is as if I can't believe it."
     "You can't believe it?  That is a wonderful thing," he said, even more quietly than before.
     "If none of us believed, how wonderful that would be!  Beautiful, too."
     "How that poor mother believed it!" I said, remembering her swollen, distorted, sobbing face.  "She believed nothing else; everything else was gone."
     "I wonder what would have happened if you had spoken to her about the child?" he said, slowly, as if he were trying to imagine it.
     "I'm a very shy person.  I should never have courage to speak to a stranger," I answered.
     "I'm afraid I'm a coward, too.  She might have thought me interfering."
     "She might not have understood," he murmured.
     "It was clinging to her dress when she walked away down the platform," I went on.  "I dare say you noticed it then?" (その子はプラットフォームを歩いていく母親のドレスにしがみついていました。」とわたしは続けました。「そのときは目に留まらなかったですか?」)
     "Not as you did.  I wish I had noticed it more," was his answer.  "Poor little White One!" (「あなたほどには。もっと目に留まっていればよかったのですが。」というのが彼の答えでした。「かわいそうな<白いひと>に!」)
     That led us into our talk about the White People.  He said he did not think he was exactly an observant person in some respects.  Remembering his books, which seemed to me the work of a man who saw and understood everything in the world, I could not comprehend his thinking that, and I told him so.  But he replied that what I had said about my White People made him feel that he must be abstracted sometimes and miss things.  He did not remember having noticed the rare fairness I had seen.  He smiled as he said it, because, of course, it was only a little thing―that he had not seen that some people were so much fairer than others.  (そこからわたしたちは<白いひと>について話をすることになりました。マクネアンさんは、自分はある方面では観察力のある人間とは思わないと言いました。この世界のあらゆるものを見聞し理解しているひとの作品だとわたしには思われた著書を思い出して、わたしは彼の考えがわからなかったので、そう言いました。しかし、返ってきた答えというのは、わたしが<白いひと>について話したことで感じたのは、自分がときおりぼんやりとして物事をとらえそこなっているに違いないということだった、ということでした。わたしが目にしてきたような稀な色白というのを目に留めた記憶はないというのでした。そう話しながら微笑んでいましたが、それは、もちろん、ほんのちょっとしたことだったからです――他よりもずっと色白のひとたちがいるということに彼が気づかなかったことが。)
     "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours." (でも、あなたには、明らかに、ちょっとしたことではなかったのですよね。だからこそ、好奇心がわいているのです。」と彼は説明した。「その違いというのは、あなたが彼らについてまるでわたしたちの人種とは異なる人種のように話すほどに、明確に異なっている。」)
     I sat silent a few seconds, thinking it over.  Suddenly I realized what I had never realized before.  (わたしは黙ってしばらく腰を下ろしたまま、反芻しました。突然、それまでまったく気づかなかったことに気づきました。)
     "Do you know," I said, as slowly as he himself had spoken, "I did not know that was true until you put it into words.  I am so used to thinking of them as different, somehow, that I suppose I do feel as if they were almost like another race, in a way.  Perhaps one would feel like that with a native Indian, or a Japanese." (「えーとですね」、とわたしは、彼が話したのと同様にゆったりとした口調で言いました。「あなたが言葉にされるまでそうなんだとわかりませんでした。あのひとたちを、違ったひとと考えることに慣れていたので、どこか別の人種のようなものとして感じているのだと思うんです。もしかすると、ネイティヴ・インディアンとか、日本人とかについてなら、誰でもそいういうふうに感じるのではないかしら。」)
     "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?" (「それはよい直喩(たとえ)かもしれない」と彼は考えながら言った。「親しく知るようになったときには違うのかしら?」)  (The White People 40-44 [ch. 4])

  訳すだけでヒーヒーハーハーです。とつづく~♪ なにを迷っているかについてもまた今度に。

  


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バーネットの『白いひと』と人種問題 (3) Burnett's _The White People_ and Race Matters (3) [The White People]

前置き的言い訳が多いですけれど、また書いておきます。カリフォルニアにいるときにもぶちぶち書いた気がするのだけれど、あくまで自分にとってのブログの意味(個人的な意味、という意味です)は、ブログにしか書き留められなかっただろう思念が、残るということにあります。まあ、メモとか、ノートか、書き込みとか、断片のままに散らばるいろんなコトバはあるのだけれど、それがあるていどはまとまる施工を思考を伴って指向しながら、試行のママ終わったしても、志向のあとは絶対にメモやノート以上に残るという嗜好。しこう踏んじゃった。

  まあ、やっつけ、というコトバがありますけれど、やっつけないで、ぼけっと、いやのんびりと眺めていると、いろいろ考えるわけです。

  問題(箇所)と自分が思ったものを、最初に導入するときの自分のことばは以下のようでした(「バーネットの『白いひと』と人種問題 Burnett's _The White People_ and Race Matters」)。――

〔・・・・・・〕近年の批評の流れに乗って考えられる線は、ポストコロニアリズム批評みたいなところがひとつあります(典型的には『秘密の花園』における大英帝国と植民地インド、ならびにコレラ問題とか)。

  そのラインでいうと、『白いひと』なんて、タイトルからしてあからさまに人種の問題にからみそうな気配があるわけです。

  でも、おもしろいのは、人種問題文脈をあたかも作家自身が先んじて記述しているところです(こういうのってポーにもあって、いったい批評というのはなんなんじゃろ――(フランク・カーモドが言ったように、作家自身が最初の批評家か)――、という思いにときどき駆られたりもします)。主人公で語り手の少女イザベルがロンドンに出てきて後見人の邸のパーティーで初めて作家ヘクター・マクネアンと話をするところ。ロンドンに向かう汽車にふたりは偶然に乗り合わせていて、喪に沈む母親と、その母親にしがみつくようにしている男の子(この子を見ているのは実はイザベルだけなのだけれど、その事実を誰も知りません)について、イザベルは以前からの彼女の呼称「白いひと White People」をもちだして話します。

  それで、問題箇所の終わりの核心部分のひとつをあらためて引きます(「バーネットの『白いひと』と人種問題 (2) Burnett's _The White People_ and Race Matters (2)」)。――

     That led us into our talk about the White People.  He said he did not think he was exactly an observant person in some respects.  Remembering his books, which seemed to me the work of a man who saw and understood everything in the world, I could not comprehend his thinking that, and I told him so.  But he replied that what I had said about my White People made him feel that he must be abstracted sometimes and miss things.  He did not remember having noticed the rare fairness I had seen.  He smiled as he said it, because, of course, it was only a little thing―that he had not seen that some people were so much fairer than others.  (そこからわたしたちは<白いひと>について話をすることになりました。マクネアンさんは、自分はある方面では観察力のある人間とは思わないと言いました。この世界のあらゆるものを見聞し理解しているひとの作品だとわたしには思われた著書を思い出して、わたしは彼の考えがわからなかったので、そう言いました。しかし、返ってきた答えというのは、わたしが<白いひと>について話したことで感じたのは、自分がときおりぼんやりとして物事をとらえそこなっているに違いないということだった、ということでした。わたしが目にしてきたような稀な色白というのを目に留めた記憶はないというのでした。そう話しながら微笑んでいましたが、それは、もちろん、ほんのちょっとしたことだったからです――他よりもずっと色白のひとたちがいるということに彼が気づかなかったことが。)
     "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours." (でも、あなたには、明らかに、ちょっとしたことではなかったのですよね。だからこそ、好奇心がわいているのです。」と彼は説明した。「その違いというのは、あなたが彼らについてまるでわたしたちの人種とは異なる人種のように話すほどに、明確に異なっている。」)
     I sat silent a few seconds, thinking it over.  Suddenly I realized what I had never realized before.  (わたしは黙ってしばらく腰を下ろしたまま、反芻しました。突然、それまでまったく気づかなかったことに気づきました。)
     "Do you know," I said, as slowly as he himself had spoken, "I did not know that was true until you put it into words.  I am so used to thinking of them as different, somehow, that I suppose I do feel as if they were almost like another race, in a way.  Perhaps one would feel like that with a native Indian, or a Japanese." (「えーとですね」、とわたしは、彼が話したのと同様にゆったりとした口調で言いました。「あなたが言葉にされるまでそうなんだとわかりませんでした。あのひとたちを、違ったひとと考えることに慣れていたので、どこか別の人種のようなものとして感じているのだと思うんです。もしかすると、ネイティヴ・インディアンとか、日本人とかについてなら、誰でもそいういうふうに感じるのではないかしら。」)
     "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?" (「それはよい直喩(たとえ)かもしれない」と彼は考えながら言った。「親しく知るようになったときには違うのかしら?」)  (The White People 40-44 [ch. 4])

  では、正直に告白します。

  A.  まず、最初、(1) インド人と日本人というのが出てきているのが自分には新鮮であり、(2) 白人を示すコーカソイド(これについてはまぁウィキペディアに説明を譲ります)がこの引用の前の部分に出てきて19-20世紀の人種問題をにおわせたうえでであるというところです。

  B.  それから、仔細に英語を読み直してみて、気になったのが (上の引用の前の箇所ですが)(1) "I always call them, to myself, the White People, because they are different from the rest of us."(「わたしは、いつも、自分で<白いひと>と呼んでいるのです。ほかのひとたちとは違うんですもの。」)というところと、(2) "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours." (でも、あなたには、明らかに、ちょっとしたことではなかったのですよね。だからこそ、好奇心がわいているのです。」と彼は説明した。「その違いというのは、あなたが彼らについてまるでわたしたちの人種とは異なる人種のように話すほどに、明確に異なっている。」)  えーと、責任転嫁する気はないですけれど、ちなみに、砂川さんの訳だと、(1) 「わたしはいつも、あの人たちのことを白い人たちとかってに呼んでいるんです。だって、あの人たちは、わたしたちとはちがうんですもの」、(2) 「でも、明らかに、あなたにとっては、そういうことはとるに足りないことではなかったんですよね。だから、ぼくはそういうことにますます興味がわいてきたのです」とマクネアンさんは説明なさるのでした。「あなたはその人たちのことを、まるでその人たちがぼくたちとは人種がちがうかのように話すのですが、それほどちがっているわけですね。」

  (1) についていえば、なんで "from us" じゃなくて "from the rest of us" なのか? (2) についていえば、マクネアンが "ours" と呼ぶのは英語的には our race ということになるわけですけど、 our race とは、なんなのか? 

  これ、悩ましいです。ひとつの考え方は、(1)でいうと "us" は白人種で、そうすると "the rest of us" は白人種以外の人間です。白人種以外なのに白いわけです。この考え方だと (2) でも "our" は白人種。けれども、少なくとも文法的可能性としては ours は our races つまり人間の人種という意味にも取り得ます。

  というわけで(という誤魔化しの常套句を引きますが)、よくわからなくなりました。

  C.  個人的にはインド人だろうな、と最初読んだときから思っていた native Indian を、砂川さんは「純粋なインディアン」と訳しているので、迷いました。迷った結果が (2) の「ネイティヴ・インディアン」です(爆)。思うに、アメリカ的文脈で "native Indian" というといかにも北米インディアンだけれど、イギリス的文脈だとインド系の人間がイングランドに入ってきているわけで、移民や混血じゃなくて、インド土着のインド人ということじゃないかしら(あーまさに人種問題か)。

  D.  で、最初は、この時期(発表年は1917年ですから、第一次大戦まっさかりなわけです)日本人を引き合いに出すことの個人的/社会的意味みたいなものに興味を惹かれたのでしたが、――勝手なことを書き留めておくなら20世紀初頭の、日本に対するさまざまな言及というのはとても興味深いものだとかねて思っています、アメリカ作家だともろに愛国心的敵愾心を示したり、いっぽうジーン・ウェブスターみたいに親愛の情を示したり・・・・・・19世紀末からのジャポニスム+茶道や禅や武士道みたいなものが浸透しながらも、アメリカに典型的なように反日的な国策が国際的に出てくる――自分の興味じゃないポスコロ的な文脈を述べれば、もちろんイギリスと日本はいわゆる日英同盟下にあって、1902年の第一次日英同盟ののちの1905年の第二次日英同盟では、「イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあう」ことになります(「日英同盟 - Wikipedia」)。

  でも、わたくし個人は日本への言及の理由を別のところにもとめたいわけ。あんまり根拠はないけど、そーだなー、バーネットという人について考えたときにそうじゃないかなーと、まあ、そんないいかげんな感覚です。

  E.  そして、いちばんの問題は、マクネアンの「差異」についてのことばで、 "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?" (「それはよい直喩(たとえ)かもしれない」と彼は考えながら言った。「親しく知るようになったときには違うのかしら?」) というところ。自身自信喪失気味なので、砂川訳を引くと、「「それはよいたとえかも知れませんね」 マクネアンさんは考えこんでおられました。「その人たちは、親しくなったあとでも、やはりちがっているように感じられるのですか?」」。

  マクネアンの、親しくなったら違い(と思われたもの)はどうなる(違いじゃなくなる)というコトバは、インド人・日本人というタトエに論理的にはつながっているわけです。これの含みってなんなんだろう。とボーっと猛暑残暑の中、考えざるを得ない自分なわけです。

  それで、(1)まとまってから考えを述べよ、とか (2) (もっとふつうには)みんなによくわかるような言葉で述べよ、とか、ブログの高級マナーがあるわけですけれど、守ってちゃ書けねーよ。つーか、それでも書いてよかですか、みたいなことかしらん。

  いや、そうじゃなくて、ブログは日記であるというのが自分の基本姿勢なので、不完全な、もしかしたら夢の要素を含んでいるものを書けることがありがたいことなのかなと。


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次元 Dimension (1)――バーネットの『白いひと』 [The White People]

なんか、前から、フォントについては四苦八苦しています。フォントの選択がブログ作成ページにはない。でもワードからコピペすると、スタイル情報とかで重たくなってしまうらしい。でも・・・・・・やっぱりほんとは英語の引用符とかシックスナイン(' ') ("") じゃなくて(‘ ’) (“ ”) で記したい、みたいな気持ちはあります。

  フランセス・ホジソン・バーネットの『白いひと』 Frances Hodgson Burnett, The White People (New York: Harper, 1917)。

  長らく尊敬してきた作家マクネアンとロンドンで知り合った語り手イザベル・ミュールキャリーは、マクネアンの母親とも親しくなります。マクネアン夫人といるとイザベルはいろいろなものが違って見えるようになります。夫人のほうは、イザベルが実体をもっていて溶けて消えてしまうことがないのを確かめるかのように、ときどき触れたりして、いつも自分のそばに置いておこうとするのでした。マクネアン家の庭で3人は黄昏から夜の闇に包まれるまで一緒に座って話をする日々を送ります。

   I don’t remember just how she began, and for a few minutes I did not quite understand what she meant.  But as she went on, and Mr. MacNairn joined in the talk, their meaning became a clear thing to me, and I knew that they were only talking quite simply of something they had often talked of before.  They were not as afraid of The Fear as most people are, because they had thought of and reasoned about it so much, and always calmly and with clear and open minds.    By The Fear they meant that mysterious horror most people feel at the thought of passing out of the world they know into the one they don’t know at all.    How quiet, how still it was inside the walls of the old garden, as we three sat under the boughs and talked about it!  And what sweet night scents of leaves and sleeping flowers were in every breath we drew!  And how one’s heart moved and lifted when the nightingale broke out again!    “If one had seen or heard one little thing, if one’s mortal being could catch one glimpse of light in the dark,” Mrs. MacNairn’s low voice said out of the shadow near me,  “The Fear would be gone forever.”

   “Perhaps the whole mystery is as simple as this,” said her son’s voice “as simple as this: that as there are tones of music too fine to be registered by the human ear, so there may be vibrations of light not to be seen by the human eye; form and color as well as sounds; just beyond earthly perception, and yet as real as ourselves, as formed as ourselves, only existing in that other dimension.”  
  There was an intenseness which was almost a note of anguish in Mrs. MacNairn’s answer, even though her voice was very low.  I involuntarily turned my head to look at her, though of course it was too dark to see her face.  I felt somehow as if her hands were wrung together in her lap.    “Oh!” she said, “if one only had some shadow of a proof that the mystery is only that we cannot see, that we cannot hear, though they are really quite near us, with us—the ones who seem to have gone away and whom we feel we cannot live without.  If once we could be sure!  There would be no Fear— there would be none!”   (Frances Hodgson Burnett, The White People, ch. 6 “The Fear,” pp. 61-63) (私はマクネアン夫人がいったいどういうふうに語りだしたのか覚えていません。そして、数分間は夫人の言っていることがまったく理解できませんでした。けれども、夫人が話を続け、マクネアンさんもその話に加わって、ふたりの語る意味が私にもはっきりしてきました。そしてふたりはかねてしばしば語ってきたことをごく簡潔に話しているにすぎないことがわかりました。ふたりは、たいていの人がおそれるようには<恐怖 The Fear>をおそれてはいませんでしたが、それは、ふたりがいつも冷静かつ明晰で心開いて<恐怖>について考えたり論じたりしてきたからなのでした。
  <恐怖>によってふたりが意味していたのは、たいていの人が、自分たちの知る世界から、まったく知らない世界へと移行することについて考えたときに感じる神秘的な恐ろしさのことでした。
  私たち3人が木の枝のしたに座ってそのことについて語りあったときの、古い庭の壁の中は、なんと静かで、なんと落ち着いていたことでしょう! そして、私たちが息をするごとに、葉や眠る花の、なんて甘い夜の香りがしたことか! そして、ナイチンゲールが再びさえずりだしたときに心がどれほど動かされ、高まったことか!
  「もしも、ほんのちいさなことを見るか聞くかしたなら――もしも地上的な存在である人間が、暗闇のなかに光の一瞥を捉えることができたなら」とマクネアン夫人の低い声が私のそばの暗い影から言いました、「<恐怖>は永遠に消え去るでしょう。」
  「もしかすると、神秘はこういうふうに単純なのかもしれない」と彼女の息子の声。「こんなふうに単純なのかも。人間の耳に留められるにはあまりに繊細な音楽の音があるように、人間の目では見られない光の振動があるのかもしれない。音だけでなく、形や色も。ただ地上的〔earthly 肉体的〕知覚を超えていて、それでも私たち自身と同様にリアルで、私たちのように形成され、あの別次元に存在しているだけというような。」
  マクネアン夫人の答えには、ほとんど苦悩の調子とでもいうような激しさがありました。その声はとても低かったのですけれど。私は思わず顔を向けて夫人を見ようとしました。もちろん暗すぎて顔は見えなかったのですけれど。それでも私はひざの上で両手が握り締められているような感じがしました。「ああ!」と彼女は言いました。「神秘というのが・・・・・・彼ら――逝ってしまったけれども一緒にいてくれなければ生きていけないと私たちが感じる人たち――が実は私たちのすぐそばにいるのに私たちには見られず聞けないということが神秘なのだ、という、ほんのかすかな証拠でも得られれば。一度でも確信を持てたなら! <恐怖>はなくなるでしょう――すっかりなくなるでしょう!」)

  ここで「次元 dimension」という(概念とまではいえずとも)コトバがもちこまれるのは、時代的なものがあるのかしら。とちょっと調べてみたい気になりました。(ああ、今回の主旨は、ただこの一節を書き留めることにこそあります。)

  


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