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希望という名の列車にのって On a Train Named Hope [歌・詩 ]

いずみたく著『体験的音楽論』(大月書店、国民文庫830、1976)を昨日帰りの電車の中で読み了わった。

  いろいろと考えさせられるところあったのだけれど、意識的に細かく扱っていこうかな、と思う。

  第III部「歌と創造」の第五章の章題は「大切なオリジナリティー」で、「作品は、創造的、個性的、独創的なものでなくてはいけない。メロディーはもちろん、言葉も、テーマも、タイトルも、人の創ったものに似ていてはいけないのである。」という主張を述べる自身の新聞投稿の引用に始まり、素人の作品だけでなくプロにも自分の作ってきた曲と同じメロディーフレーズが見られることを嘆く。つづけて曲ではなくて歌詞の問題にもふれるのだが、そこで出てくるのが「希望」である。――

  ある有名な作曲家が、NHKの「みんなのうた」のために作った歌を聞いて、ボクは、デングリカエッテおどろいたことがある。その一年前に、ボクが作曲したTVの番組テーマとそっくり同じなのである。

  ボクの場合は、器楽曲。その人の場合は歌。

  まるで、ボクの作った曲に歌詩[ママ]をはめたようなものである。そのときは、その人がボクのあまりに親しい人だったので、放送局の人には注意したが、問題にはしなかった。

  また、次のような事件もあった。これについても、ある新聞に書いたことがあるが、作曲のことでなく作詞のことである。

  ボクと藤田敏雄の作った"希望" のうたい出しが、

    希望という名の[希望という名の、に傍点]
    あなたをたずねて

  となっていることは、多くの人が知っている。ところが、ある有名な作詞家が作った歌が、

    希望という名の[希望という名の、に傍点]
    列車にのって

  という書き出しなのである。"希望" という言葉が、登録されているわけではないので、かまわないではないかといわれたり、二行目が違うのだからといわれればそれまでである。

  しかし、"希望が" とか "希望の" とか希望という言葉をつかっても、いろいろな表現をすることはできるはずだが、"希望という名の" という言葉は独特のいいまわしであり、みんなに知られていなければともかく、知られすぎるほど知られている曲だから具合がわるい。

  プロですら、意識的か、無意識的かわからないが、このような間違いをおこす。前者の例の場合も、意識的とは思わない。意識的なら大事件であろう。

  きっと、ボクの曲を何回か聞いていて、印象に残っていたのだろう。それが、作曲する時に、ふと思い出されて、自分が作った曲のような錯覚をおこしてしまったのだろう。忙しい仕事をしていて、短時間に作ったりすると、おこりそうなことであって、ボクも想像できる。つまり、両者とも、創作のうえの無神経さがこのようなできごとをまねいてしまうのである。

  しかし、これが意識的となると泥棒と同じであって、絶対に許すことのできない事件である。 (pp. 125-127)

  「錯覚」を推測しながらも、それが本気かどうかわからぬところもあり、皮肉なアテコスリの気配がなくもないけれど、独創性と引用・盗用の問題をめぐる意識について、興味深い一節だと思う。

  その問題はちょっとおいといて、この一節を電車のなかで読んだときに、以前書いた橋本淳のことを言っているのだと思った――「希望という名の夜汽車 A Night Train Named Hope」参照。しかし、1972年の「夜汽車」は、タイトルどおり、「希望という名の列車にのって」ではなくて、「希望という名の夜汽車にゆられ」という出だしだったのでした。で、いずみたくが言及している曲・作詞家は不明です。

  それにしても「希望という名の」が独特のいいまわしかどうかわからないけれど、「希望」の歌のあとにこのフレーズが今日に至るまで使い回されているのが事実のようです。そうなると「欲望という名の電車」がおおもとにある、という仮説もあながち空論ではなくなってくるかも。


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