夜の底 The Bottom of the Night [Marginalia 余白に]
〔……〕下人は、剥ぎとった 檜皮色 ( ひわだいろ ) の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくの事である。〔……〕外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。
――芥川龍之介「羅生門」(大正4年)
国境のトンネルを抜けると、窓の外の夜の底が白くなった。
――川端康成「夕景色の鏡」(昭和10年)
国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
――川端康成『雪国』(昭和23年)
「羅生門」の結末近くの文章と『雪国』の冒頭の文章と。「羅生門」も推敲が行なわれたようだけれど、それはもっぱらこのあとの結びの一文(「下人の行方は、誰も知らない。」← 「下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」← 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」)であるらしい。ハシゴを降下して、さらに外の闇の世界へ、という下降運動と「底」はつながっているのでしょう。改訂も、京都という明示的な場所から、読者に想像が委ねられた「闇の世界」へと誘うものかもしれぬ)。 『雪国』の一文は、むかしはトンネルの先(奥)だとイメジしていたのだけれど、ちがうのでした。
「夜の底」は、紙の辞典には容易に見つからないけれど、Web辞典には「デジタル大辞泉 夜の底の用語解説 - 夜の深い闇をいう語。「―に姿を消す」」などとコトバンクやgoo辞書に載っている(『大辞泉』にはあるのかな)。へんなの。
「夜の底」は、ともに外国語(英語)に堪能だった二人の作家が翻訳調に使った日本語なのかしら。
しかし Edward Seidensticker の英訳 Snow Country は "bottom of the night" というフレーズを使っていない――
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.
サイデンステッカーの英訳が説明しているのは、この、「夜の底」の「白」さというのは、つまり雪のことだということで、「底」とは「夜の空」の下=地上ということだ。
けれども、William J. Tyler という研究者は、Mary Ann Gillies et al., ed., Pacific Rim Modernisms (U of Toronto P, 2009) におさめられた論文 "Fission/Fusion: Modanizumu in Japanese Fiction" のなかで、説明的だけれども、「直訳」的に "bottom of the night" を入れた、私訳を挙げている(207ページ)。――
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芥川龍之介「羅生門」@青空文庫 <http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html>
松野町夫「『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!」『リベラル21』2008.05.29 <http://lib21.blog96.fc2.com/?no=357>
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