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『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (2) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]

『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (1) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs」のつづきです。

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東健而 (1889-1933)

  冒頭の解説(「訳者より読者へ」)では「蚊とんぼ」というふうに作品を呼んでいた東健而ですが、目次は「長篇蚊とんぼスミス」「(米)ジヤン・ウヱブスター」、そして本文も「蚊とんぼスミス」と記されています。――

SekaiKokkeiMeisakushu,transAzumaKeji(Kaizosha,1929)8‐9.jpg

  ふつう誰でも「ゆううつな水曜日」と訳すであろう "Blue Wednesday" を「なさけない水曜日」と、たぶん、暗いおもむきにならずにお笑いふうな方向へシフトすべく(かどうかはわかりませんが)訳しています。この冒頭10ページ足らずの散文は、手紙本体に対する「枠 frame」となっていて、三人称の語り手による主人公ジェルーシャの提示が行なわれ、リペット院長による間接話法的な――つまり、篤志の人の考えが伝えられるけれどもリペットによる脚色を含んでいる可能性がある――スミス氏 (あしながおじさん)の提示とともに、大学へ行って作家となるべく文章修行をさせてもらえる条件として、毎月学校生活について手紙を送ること、という設定が説明される部分です。

  原文と見比べてみると、段落の改行を適宜変更はしているものの、ほぼ全訳であることがわかります。意識的な改変はありますけれど。「「さうぢやねえやい」なんて言つちやいけないのよ」というのは東が追加した文章です。それから9ページの最後の3行(「あゝ、これで今日は済んだ」以下)は、原文は地の文になっていますが、それを東は、ジェルーシャの内面を表わした描出話法的なものととったうえで、カッコに入った直接話法に訳して「ジェルーシャは斯う思ひながら」という、発話(頭の中でですが)を示す言葉(もちろん原文にはない)を付け加えています。わかりやすさを選んだのだと思います。

The day was ended―quite successfully, so far as she knew.  The Trustees and the visiting committee had made their rounds, and read their reports, and drunk their tea, and now were hurrying home to their own cheerful firewides, to forget their bothersome little charges for another month.  Jerusha leaned forward watching with curiosity [. . .].

   しかし、描出話法ととるのはこの場合は無理があって、その無理を "to forget their bothersome little charges for another month" を省略して6点リーダーに変えることでつくろっているようにも思えます。

  それはそれとして、英語ができる人なのだろうなあ、ということはわかります。

  ついでながら、この、「またひと月は厄介な小さな孤児たちのことは忘れられると」我が家の陽気な炉辺へと家路を急いでいた、という記述は、いかにもこの場でのジェルーシャの言葉(心中の思い)としてはふさわしくないのですけれど(つまり、理事たちは孤児を預かることを厄介で面倒なことと考えているという大人びた理解が直截であらわすぎる)、それでも、可能性としてはジェルーシャ自身が、ある種のユーモアを含めてこのように記述するということは考えられます。時間をおいてなら。とりわけジェルーシャが "Blue Wednesday" というタイトルの文章を書き、それが朗読されるのを聴いたあしなが「スミス」氏が、そのユーモアのセンスゆえに共鳴して大学へ行かせる申し出をする、という事実があるので(リペットさんは「これまで恩義をかけてくれた施設をあんなふうに茶化すとは感謝がない」と言いますし、「おもしろい書き方になっていたからまだしも、そうでなければ許されるものではない」とも言っています)。

  訳者によるジェルーシャの性格描写といいますか、描きかたがわかる手紙の部分を引いておきます。以前に他の訳者の翻訳を並べてみたのと同じ箇所です。――

SekaiKokkeiMeisakushu,transAzumaKeji(Kaizosha,1929),126-7.jpg

    読みにくいので、新字新かなに改めて写すことにします。

  八月十日
  蚊とんぼ様
拝啓、牧場の水溜りの側の柳の樹の二段目の股から申し上げるのよ。下には蛙が鳴き、頭の上では蝉が歌っています。そうして小さな栗鼠が二匹樹の幹を矢のように駈け上ったり駈け下りたりしています。あたしもう一時間も前から此処へ来ているのよ。大変工合の良い樹の股なのよ。長椅子の蒲団を二枚持って来て被せてからは尚更良い工合です。あたし不朽の名作を書く積りでペンと原稿用紙を持って此処へ登ったのよ、所があたしの女主人公には実に困って了いました――何だが[か]お行儀が悪くって如何してもあたしの言うことを聞かないのよ。だからあたし女主人公の描写の方はしばらくおっ放り出して置いて、其代りあなたに手紙を書くことにしました。(けれどもあなたにだって言うことを聞かせることは出来ないから矢張同じね)
  もしあなたがあの厭な紐育にいらっしゃるのなら、あたし此の美しい涼しい明るい景色を少し送ってあげたいと思うわ。一週間雨が降った後の田舎はほんとに天国のようよ。

  「のよ」「ね」「よ」という打ちとけてくだけた語尾が「です」「ます」に混在するかたちの口調です。実は1年生の最初の手紙から、卒業後の手紙まで、おんなじスタイルです。ときどき「だわ」とか「ないわ」とか「わねえ」というような語尾も混じります。

  1929年刊行の、改造社版『世界大衆文学全集』第34巻の『世界滑稽名作集』を見ているわけですけれど、その10年前に『蚊とんぼスミス』の幻の初版が出ていたとしても、訳者の東健而の姿勢は、やっぱりこの全集版によって知られると思うのです。それはジュディーをヒロイン、ジョン・スミスをヒーローとして、明るい人生観を「ハイカラ」な文章で「戦闘的」に表明した滑稽文学(いまふうにいうとユーモア文学)だという見方でしょう。

  いずれにせよ遠藤寿子による『あしながおじさん』訳以前に翻訳が行なわれていたのは事実です。そしてこの東健而による既訳を遠藤寿子は意識していなかったらしく思われます。それはジャンルの意識の違いによる受容の差異が原因だったのでしょうか。

つづく


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