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バーネットの『白いひと』と人種問題 (3) Burnett's _The White People_ and Race Matters (3) [The White People]

前置き的言い訳が多いですけれど、また書いておきます。カリフォルニアにいるときにもぶちぶち書いた気がするのだけれど、あくまで自分にとってのブログの意味(個人的な意味、という意味です)は、ブログにしか書き留められなかっただろう思念が、残るということにあります。まあ、メモとか、ノートか、書き込みとか、断片のままに散らばるいろんなコトバはあるのだけれど、それがあるていどはまとまる施工を思考を伴って指向しながら、試行のママ終わったしても、志向のあとは絶対にメモやノート以上に残るという嗜好。しこう踏んじゃった。

  まあ、やっつけ、というコトバがありますけれど、やっつけないで、ぼけっと、いやのんびりと眺めていると、いろいろ考えるわけです。

  問題(箇所)と自分が思ったものを、最初に導入するときの自分のことばは以下のようでした(「バーネットの『白いひと』と人種問題 Burnett's _The White People_ and Race Matters」)。――

〔・・・・・・〕近年の批評の流れに乗って考えられる線は、ポストコロニアリズム批評みたいなところがひとつあります(典型的には『秘密の花園』における大英帝国と植民地インド、ならびにコレラ問題とか)。

  そのラインでいうと、『白いひと』なんて、タイトルからしてあからさまに人種の問題にからみそうな気配があるわけです。

  でも、おもしろいのは、人種問題文脈をあたかも作家自身が先んじて記述しているところです(こういうのってポーにもあって、いったい批評というのはなんなんじゃろ――(フランク・カーモドが言ったように、作家自身が最初の批評家か)――、という思いにときどき駆られたりもします)。主人公で語り手の少女イザベルがロンドンに出てきて後見人の邸のパーティーで初めて作家ヘクター・マクネアンと話をするところ。ロンドンに向かう汽車にふたりは偶然に乗り合わせていて、喪に沈む母親と、その母親にしがみつくようにしている男の子(この子を見ているのは実はイザベルだけなのだけれど、その事実を誰も知りません)について、イザベルは以前からの彼女の呼称「白いひと White People」をもちだして話します。

  それで、問題箇所の終わりの核心部分のひとつをあらためて引きます(「バーネットの『白いひと』と人種問題 (2) Burnett's _The White People_ and Race Matters (2)」)。――

     That led us into our talk about the White People.  He said he did not think he was exactly an observant person in some respects.  Remembering his books, which seemed to me the work of a man who saw and understood everything in the world, I could not comprehend his thinking that, and I told him so.  But he replied that what I had said about my White People made him feel that he must be abstracted sometimes and miss things.  He did not remember having noticed the rare fairness I had seen.  He smiled as he said it, because, of course, it was only a little thing―that he had not seen that some people were so much fairer than others.  (そこからわたしたちは<白いひと>について話をすることになりました。マクネアンさんは、自分はある方面では観察力のある人間とは思わないと言いました。この世界のあらゆるものを見聞し理解しているひとの作品だとわたしには思われた著書を思い出して、わたしは彼の考えがわからなかったので、そう言いました。しかし、返ってきた答えというのは、わたしが<白いひと>について話したことで感じたのは、自分がときおりぼんやりとして物事をとらえそこなっているに違いないということだった、ということでした。わたしが目にしてきたような稀な色白というのを目に留めた記憶はないというのでした。そう話しながら微笑んでいましたが、それは、もちろん、ほんのちょっとしたことだったからです――他よりもずっと色白のひとたちがいるということに彼が気づかなかったことが。)
     "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours." (でも、あなたには、明らかに、ちょっとしたことではなかったのですよね。だからこそ、好奇心がわいているのです。」と彼は説明した。「その違いというのは、あなたが彼らについてまるでわたしたちの人種とは異なる人種のように話すほどに、明確に異なっている。」)
     I sat silent a few seconds, thinking it over.  Suddenly I realized what I had never realized before.  (わたしは黙ってしばらく腰を下ろしたまま、反芻しました。突然、それまでまったく気づかなかったことに気づきました。)
     "Do you know," I said, as slowly as he himself had spoken, "I did not know that was true until you put it into words.  I am so used to thinking of them as different, somehow, that I suppose I do feel as if they were almost like another race, in a way.  Perhaps one would feel like that with a native Indian, or a Japanese." (「えーとですね」、とわたしは、彼が話したのと同様にゆったりとした口調で言いました。「あなたが言葉にされるまでそうなんだとわかりませんでした。あのひとたちを、違ったひとと考えることに慣れていたので、どこか別の人種のようなものとして感じているのだと思うんです。もしかすると、ネイティヴ・インディアンとか、日本人とかについてなら、誰でもそいういうふうに感じるのではないかしら。」)
     "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?" (「それはよい直喩(たとえ)かもしれない」と彼は考えながら言った。「親しく知るようになったときには違うのかしら?」)  (The White People 40-44 [ch. 4])

  では、正直に告白します。

  A.  まず、最初、(1) インド人と日本人というのが出てきているのが自分には新鮮であり、(2) 白人を示すコーカソイド(これについてはまぁウィキペディアに説明を譲ります)がこの引用の前の部分に出てきて19-20世紀の人種問題をにおわせたうえでであるというところです。

  B.  それから、仔細に英語を読み直してみて、気になったのが (上の引用の前の箇所ですが)(1) "I always call them, to myself, the White People, because they are different from the rest of us."(「わたしは、いつも、自分で<白いひと>と呼んでいるのです。ほかのひとたちとは違うんですもの。」)というところと、(2) "But it has not been a little thing to you, evidently.  That is why I am even rather curious about it," he explained.  "It is a difference definite enough to make you speak almost as if they were of a different race from ours." (でも、あなたには、明らかに、ちょっとしたことではなかったのですよね。だからこそ、好奇心がわいているのです。」と彼は説明した。「その違いというのは、あなたが彼らについてまるでわたしたちの人種とは異なる人種のように話すほどに、明確に異なっている。」)  えーと、責任転嫁する気はないですけれど、ちなみに、砂川さんの訳だと、(1) 「わたしはいつも、あの人たちのことを白い人たちとかってに呼んでいるんです。だって、あの人たちは、わたしたちとはちがうんですもの」、(2) 「でも、明らかに、あなたにとっては、そういうことはとるに足りないことではなかったんですよね。だから、ぼくはそういうことにますます興味がわいてきたのです」とマクネアンさんは説明なさるのでした。「あなたはその人たちのことを、まるでその人たちがぼくたちとは人種がちがうかのように話すのですが、それほどちがっているわけですね。」

  (1) についていえば、なんで "from us" じゃなくて "from the rest of us" なのか? (2) についていえば、マクネアンが "ours" と呼ぶのは英語的には our race ということになるわけですけど、 our race とは、なんなのか? 

  これ、悩ましいです。ひとつの考え方は、(1)でいうと "us" は白人種で、そうすると "the rest of us" は白人種以外の人間です。白人種以外なのに白いわけです。この考え方だと (2) でも "our" は白人種。けれども、少なくとも文法的可能性としては ours は our races つまり人間の人種という意味にも取り得ます。

  というわけで(という誤魔化しの常套句を引きますが)、よくわからなくなりました。

  C.  個人的にはインド人だろうな、と最初読んだときから思っていた native Indian を、砂川さんは「純粋なインディアン」と訳しているので、迷いました。迷った結果が (2) の「ネイティヴ・インディアン」です(爆)。思うに、アメリカ的文脈で "native Indian" というといかにも北米インディアンだけれど、イギリス的文脈だとインド系の人間がイングランドに入ってきているわけで、移民や混血じゃなくて、インド土着のインド人ということじゃないかしら(あーまさに人種問題か)。

  D.  で、最初は、この時期(発表年は1917年ですから、第一次大戦まっさかりなわけです)日本人を引き合いに出すことの個人的/社会的意味みたいなものに興味を惹かれたのでしたが、――勝手なことを書き留めておくなら20世紀初頭の、日本に対するさまざまな言及というのはとても興味深いものだとかねて思っています、アメリカ作家だともろに愛国心的敵愾心を示したり、いっぽうジーン・ウェブスターみたいに親愛の情を示したり・・・・・・19世紀末からのジャポニスム+茶道や禅や武士道みたいなものが浸透しながらも、アメリカに典型的なように反日的な国策が国際的に出てくる――自分の興味じゃないポスコロ的な文脈を述べれば、もちろんイギリスと日本はいわゆる日英同盟下にあって、1902年の第一次日英同盟ののちの1905年の第二次日英同盟では、「イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあう」ことになります(「日英同盟 - Wikipedia」)。

  でも、わたくし個人は日本への言及の理由を別のところにもとめたいわけ。あんまり根拠はないけど、そーだなー、バーネットという人について考えたときにそうじゃないかなーと、まあ、そんないいかげんな感覚です。

  E.  そして、いちばんの問題は、マクネアンの「差異」についてのことばで、 "I dare say that is a good simile," he reflected.  "Are they different when you know them well?" (「それはよい直喩(たとえ)かもしれない」と彼は考えながら言った。「親しく知るようになったときには違うのかしら?」) というところ。自身自信喪失気味なので、砂川訳を引くと、「「それはよいたとえかも知れませんね」 マクネアンさんは考えこんでおられました。「その人たちは、親しくなったあとでも、やはりちがっているように感じられるのですか?」」。

  マクネアンの、親しくなったら違い(と思われたもの)はどうなる(違いじゃなくなる)というコトバは、インド人・日本人というタトエに論理的にはつながっているわけです。これの含みってなんなんだろう。とボーっと猛暑残暑の中、考えざるを得ない自分なわけです。

  それで、(1)まとまってから考えを述べよ、とか (2) (もっとふつうには)みんなによくわかるような言葉で述べよ、とか、ブログの高級マナーがあるわけですけれど、守ってちゃ書けねーよ。つーか、それでも書いてよかですか、みたいなことかしらん。

  いや、そうじゃなくて、ブログは日記であるというのが自分の基本姿勢なので、不完全な、もしかしたら夢の要素を含んでいるものを書けることがありがたいことなのかなと。


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morichanの父

kaoru さま、涙がちょちょぎれそうにうれしいです。
by morichanの父 (2010-09-12 10:13) 

パピロ

バーネットはあまり人種問題などを深く考えずに、作品内に取り入れたのかな、とも思います。『秘密の花園』のバーサは、メアリーのことを軽い感じで「black]だと期待したとか言っており、それに対してメアリーはインド人のことをひどく言いますし。でも『小公女』だとインド人のラムダスさんは結構好意的に描かれているようでもあり・・・。
by パピロ (2010-10-13 13:05) 

morichan

パピロさま、またまた、見落としておりまして、さらに返事が遅くなり、失礼しました。
えー、バーネットがあまり人種問題など深く考えておらなかったのだろうとも思います。ただ、二つ問題はあって、まず、自己弁護的にブログ中の文章を引けば、――「でも、おもしろいのは、人種問題文脈をあたかも作家自身が先んじて記述しているところです(こういうのってポーにもあって、いったい批評というのはなんなんじゃろ――(フランク・カーモドが言ったように、作家自身が最初の批評家か)――、という思いにときどき駆られたりもします)。」 ここで自分が言いたかったのは、(0) 作家が作品を書く前から先んじて作品解釈を構想しているということではないのであって、(1) 書きながら考える、(2) 書いてから考える(こっちのほうが、おそらく、ヘンリー・ジェームズのもろもろの「序文」についてカーモドが言っていること)、があるわけです。
  ほんとのところをいうと、批評的には作家自身が自覚していようがいまいが(いや、むしろ無自覚に抑圧しているほうが)、〇〇差別主義みたいな問題は問題化されるわけです(一般論です。racism とか sexism とか)。
  けれども、バーネットのこの作品は、タイトルからして、あまりにも人種意識を喚起するところが大きい。もちろん、通常の人種の差異とは異なる存在のカテゴリーに「白いひと」がなっているところがおもしろいのですけれど。
  それと、パピロさんが例示している三例は、もしかするとバーネットが人種問題に敏感であったことの証左になるかもしれません。
by morichan (2010-10-30 22:08) 

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