SSブログ

キボウという名の橋 (1) A Bridge Named "Hope" [歌・詩 ]

(山下達郎の)希望という名の光について考えていたら希望という名のあなたのことを思い出していた今日この頃。(岸洋子の)「希望」の話者はなんで毎日のように汽車に乗っているのだろう、という疑問に頭を揺らしていたら、希望という名の夜汽車の歌(欧陽菲菲の)が浮かんで、つなぎに書き留めたつもりが、敬愛するshjさんからコメントをもらって、それに返答しながら、あれこれ考えた。さらに、shjさんのコメントを深夜に読む前の木曜の夜、神楽坂で飲んだ席で、「象徴はもういやです(辟易)」みたいな発言をする女学生がいて(エライ!)、思索は深まらざるを得なかった。

  エーと、最初に適当に書いておくと、アメリカ文学とシンボリズムの密な関係というのはとりあえず所与の想定みたいになっちゃっていて、それは植民地時代のキリスト教的タイポロジカルな世界観に根っこをもち、時代的には南北戦争後の遅くにやってきたリアリズムの時代にも、たとえば自然主義作家の象徴主義とかあっちゃったりするし、戦後にサリンジャーが評価されたのは(少なくとも当時の日本人研究者たちの文章を読むと、くそリアリズムに対して)象徴主義を復活させたからだったりする。象徴というのは、神秘主義的にいうと、神的・霊的な認識(のきっかけ)をもたらす契機となるようなものかもしらんけれど、一般化していうなら、モノがそのモノとしての意味や価値を超えて日常的認識を跳躍した意味や価値を示すときのモノのことだ。(単純なのはヘビ(蛇)=ドラゴン(竜)(=ムカデ(百足))=悪魔みたいな)。

  ややこしいのは、モノを指すコトバがモノにとってかわるのが言語動物人間の宿命なので、モノではなくてコトバが象徴になりおおせるという事態かもしれない。ドラゴンは架空の存在であるけれど言葉としては存在しちゃっているわけだし、ムカデ(centipede=百足)は足が百本なくても100の足をもつ。あるいは、可視的なモノはイデア的な物自体の仮象にすぎない(18-19世紀)とか、言葉は現実に対応しているのではなく現実を抽象化した観念にしか対応していないのだから、コトバ自体が結局のところ虚構である(20世紀)とか、イデア―現実―象徴―ことばをめぐる関係はぐるぐるとわけがわからないところがある。別言すれば、それぞれの間がぼや~っと溶け合って、モノをいうコトバなのか、象徴としてのモノをいうコトバなのか、象徴としてのコトバなのか、イデアを志向するコトバなのか、ただのコトバなのか、コトバを使っている当人ももしかしたらわからず、あるいはただコトバで遊んでいるみたいな超反現実的事態も容易に起こりうるかもしれない。

  以上前置き。

  青山テルマである。青山テルマはモーりちゃんの父たちが2008年から2009年にかけて離日していた前後にテレビで同じ歌を歌い続けていたのでちょっと驚いた記憶がありますが、2007年の曲。

「My dear friend」   青山テルマ   2007(平成19)年12月5日発売
作詞 Kenn Kato  作曲 Hitoshi Harukawa
だって、だって、時はいつだって 呆れるくらいわがままだよ、って なぜかあなたの隣にいるだけで心の声が響いてくる
My dear friend -  青山テルマ 歌詞情報 goo音楽     ○Live

   作詞のKenn Kato さんというのはカトチャン&ケンチャンではなくて、なんかアメリカ出身の日本人で、エグザイルの歌詞とかいろいろ1990年代から活躍しているひとのようです。歌詞全体を吟味するつもりもなく、中心的に考えたいのは最後から2連目です――

雨上がりの君の空に
キボウという名の橋が架かる
ためらえばすぐに消えてしまうから
負けない気持ちで渡りきるんだ

  このあとはリフレインで、「だって、だって、時はいつだって/呆れるくらいわがままだよ、って/なぜかあなたの隣にいるだけで/心の声が響いてくる」でおしまい。

  この一連が示しているのはまことに人間中心主義的 (anthropocentrist) 擬人主義的 (anthropomorphist) 世界観であります。

  が、また明日・・・・・・断片的ですいませんが、なんかカリフォルニア時間を思い起こしつつもありw


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。