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『あしながおじさん』とエミリー・ディキンソンの詩 Emily Dickinson's Poem in Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生の4月から5月にかけて書かれたらしい一連の手紙のひとつ、「金曜夜9時半」の日付の手紙は、その日いろいろなトラブルやモメゴトやワケワカランコトがあった報告ですけれど、そのなかで、午後の英語(国語)〔英文学〕の授業で、黒板に教師が誰のものともわからない8行の詩を書いていて、それについて思うところを書けという課題があったことを報告しています。

[. . .]  In English class this afternoon we had an unexpected writing lesson.  This was it:

               I asked no other thing,
               No other was denied.
               I offered Being for it;
               The mighty merchant smiled.

               Brazil?  He twirled a button
               Without a glance my way:
               But, madam, is there nothing else
               That we can show to-day?

     That is a poem.  I don't know who wrote it or what it means.  It was simply printed out on the blackboard when we arrived and we were ordered to comment upon it.  When I read the first verse I thought I had an idea―The Mighty Merchant was a divinity who distributes blessings in return for virtuous deeds―but when I got to the second verse and found him twirling a button, it seemed a blasphemous supposition, and I hasitily changed my mind.  The rest of the class was in the same predicament; and there we sat for three quarters of an hour with blank paper and equally blank minds.  Getting an education is an awfully wearing process!  (Penguin Classics版, p. 37)

 

   (午後の英文の授業では思いがけない作文の課題がありました。これがそれです。――

        わたしは他には求めなかった
        ほかのものは拒まれなかった
        わたしはそれには存在を支払うと申し出た
        強大な商人はほほえんだ

        ブラジル? 彼はボタンをまわして
        こちらを見なかった
        しかし、マダム、ほかにお目にかけるものは
        今日はございませんか

  これは詩です。誰が書いたのかもどういう意味なのかも知りません。教室に着くと黒板にブロック体でただ書かれていただけで、コメントを書くように指示されたのです。最初の節[verse=stanza]を読んだとき、わたしはわかったと思いました。――<強大な商人>というのは、善行の見返りに恵みをほどこす神だと。――ところが、第二連になると、彼はボタンをいじくっています。それで、神さまと考えるのは涜神的になりそうなので、わたしはあわてて考えを変えました。クラスのほかのひとたちも同様の苦境におちいっていました。そうして、私たちは45分間みんな白紙のまま、頭も白紙のまま途方にくれました。教育を受ける過程というのはものすごく消耗するものです。)

    ペンギン・クラシックス版の編者のエレイン・ショーウォルターは、尾注29番 (p. 351) を付して、これがエミリー・ディキンソンの詩で、作者のジーン・ウェブスターはヴァッサー大学(ここに経済学と英文学のダブル・メイジャーでウェブスターは在籍しました――1897年から1901年まで――)でディキンソンのこの詩を読んだと書いています。――

From Emily Dickinson's poem "Part One: Life."  Webster and her classmates studied this poem at Vassar, well in advance of Dickinson's critical acclaim as a major American poet.

    仮にマリ・バシュキルツェフも教室で読んでいたのなら、メジャーもへったくれもないと思うのですが、それはさておき、メジャーなアメリカ詩人として認められるのに力があったのは、もちろんディキンソンの死後に友人たちによって19世紀末に詩集が何冊も刊行されたことが出発点ですけれども、学者としてディキンソン評価に力があったのはトマス・H・ジョンソンで、今日、ジョンソン編の3巻本の全集がディキンソン詩集の定本となっています。ディキンソンは詩のタイトルを付けないことも多かったのですけれど、ジョンソンは原稿を調査し、通しで番号を振って、全体像をあらわにしたのでした。

  で、そのジョンソン編の全集だと621番の詩です(478ページ)。

          I asked no other thing ―
          No other ― was denied―
          I offered Being ― for it ―
          The Mighty Merchant sneered ―

          Brazil?  He twirled a Button ―
          Without a glance my way ―
          "But ― Madam ― is there nothing else ―
          That We can show ― Today?"

textual note 的な情報として書き添えられているのは、"4.  sneered] smiled ― " という異同と、"MANUSCRIPT: About 1862, in packet 40 (H 215d)." つまり原稿は1862年ごろのもので、40番の資料包みに入っていること、それから "PUBLICATION: Poems (1890), 25.  The suggested change is adopted." つまり刊行の歴史としては1890年版の『詩集』25ページ、そして誰がsuggest したか知りませんが、smiled となっていたのはsneered が正しかろうということで直したよ、という記載です。1890年初版の Poems 第一集は Internet Archives に見つかります(1891年、1892年、1893年の再版と一緒に並んでいるので探すのに苦労しましたが)。

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Emily Dickinson, The Poems, ed. Mabel Loomis Todd and Thomas Wentworth Higginson (Boston: Robert Brothers, 1890)

    冒頭の2語(I と asked)が大文字とスモールキャピタルとなっているのは昔の(いまでもイギリスにはけっこう残っているらしい)出版の美的な約束事です。ですので、第二連の最後の2行の "He" のことばが引用符に入っている・いない、という一点を除けば、ジュディー(あるいはジーン・ウェブスター)が引いているテクストは、1890年版詩集に、トマス・ジョンソン版全集よりもずっと、近いです。つーか、その一点以外は、第二連1行目の button のあとにコンマがあるかないかだけの差です。

  いっぽう、ジョンソンが復元したテクストは、大文字が多い。ダッシュが多い。ジュディーが地の文で "The Mighty Merchant" としているフレーズは実際大文字になっていて、あたかもジュディーの読み――この商人はdivinity ではないかという blasphemous な読み――を後押しするかのようです。まー、ディキンソンは大文字を多用し、それは必ずしも神ではないのですが(18世紀から19世紀のロマン派詩人に似ているかもしれない。よく知らんが)。

    この詩は、たぶんディキンソンの難解詩のひとつで、わけがわからん、というのがまっとうな応答であるような気もします(いいかげん)。他のものは拒まれずに提供されるなかで、「私」はひとつのものだけ求め、それに自分の存在を差し出してもいいと言う。それがブラジル。商人はボタンをいじくり、他のものではどうか、と笑いながら言う。ブラジルが当時の雑誌を経由してダイアモンドの換喩であるとか、なんたらいうような解釈をする人もいるようですが(Rebecca Patterson)、とりあえず歴史的コンテクストから離れてみたとき、意外なのは、この、ヴァッサー大学での実際のジーン・ウェブスターの体験をもとにしたらしい授業が、まさしく作者の私的・歴史的背景を離れて自律・自立する作品という、いわゆるニュークリティシズム的な実験を先取りしているところではないでしょうか。つまりいつの誰の作品と言わず、テクストのみで考えてみるみたいな。まあ、だめなんですけど(笑)。

  ついでながら、ショーウォルターが注で Emily Dickinson's Poem "Part One: Life" と書いている、その "Part One: Life" は詩のタイトルではなくて、この詩が入っている詩集の「第一部――生」です。初版の詩集だと "Part" じゃなくて "Book" ですが(Book 1 が「生」、2が「愛 Love」、3が「自然 Nature」です)。――

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  12番が "I asked no other thing" で、引用符に入っているのは、もともとタイトルは付いておらず、仮に第一行を題とした、という含みです。

  えーと、この詩のナカミについては、秋になってヒマになったら書くかもしれません。

  が、しかし既にジーン・ウェブスターがほのめかしているかもしれないのは、研究やらを通して作家の個人的・歴史的背景がわかってしか意味がぜんぜん了解されないようなテクストは、ダメなんじゃないか、ということかもしれません。いちおー、もうちょっと素直に考えれば、エミリー・ディキンソンへのユーモアを含んだプライヴェトなオマージュなのかもしれませんが。さらにまじめに考えると、『あしながおじさん』における神の問題とからんでくるのかもしれませんが――ほんとにそうかもしれない。

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「おしえて!HOME'Sくん あしながおじさん (ジーンウェブスター著) の中にある詩(エミリ・ディッキンソン) の解釈について」 <http://oshiete.homes.jp/qa4947324.html> 〔2009.5.10〕

 


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