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ウォルター・クレインとメイ・デー(前) Walter Crane and the May Day (1st Part) [カリフォルニア時間補遺]

(いちおう『あしながおじさん』の背景にある社会主義を考えつつ) 

前の記事「チョルガッシュ、ゴールドマン、無政府主義 Leon Czolgosz, Emma Goldman, and Anarchism in America [Marginalia 余白に]」で1896年5月のシカゴのヘイマーケット暴動 Haymarket Riot [Haymarket Affair, Haymarket Massacre] に触れました。この事件は5月3日に起きるのですけれど、1日の労働時間8時間 ("the eight-hour [work] day") を要求する集会・デモ活動は5月1日に始まっています〔英語のウィキペディアの記事 "Haymarket affair" <http://en.wikipedia.org/wiki/Haymarket_affair> を参照〕。さかのぼること2年前の1894年10月に、the Federation of Organized Trades and Labor Unions は、この1896年5月1日を8時間労働の実現の日と決議しておったのでした。

  対応する中文記事はあるけれど、日本語の記事のない、英語ウィキペディア "Haymarket affair" の記事には "The Haymarket affair and May Day" という大見出しがあり、1888年にアメリカ労働総同盟 AFL=American Federation of Labor の会議において8時間労働のストライキを1890年5月1日に行なうことが決議されたこと、翌年の1889年にAFL の議長 サミュエル・ゴンパーズ Samuel Gompers, 1850-1924 (ちなみに1896 年に結成されたAFL の初代議長であったゴンパーズは、反アナキズム、反革命主義の穏健派でした)は、(社会主義者の国際組織)第二インターナショナルに、8時間労働制の主張を書簡で提起したこと、など書かれています。パリで7月14日に開かれた第二インターナショナルの会議は、8時間労働を国際的に主張するとともに、アメリカのAFL の計画に応じて、1890年5月1日をデモの日と決議します。こうして、最初の国際的な労働者の日としてのメイ・デーが、1890年5月1日に始まったのであり、それには、4年前のアメリカのシカゴのヘイマーケットの事件が歴史として刻まれているのだと思われます。えーと、日本語のウィキペディアの「メーデー」は、最初の「労働者の日として」のメーデーを1886年5月1日としていますけれど――

メーデーの労働運動が、五月祭と関係しているかどうかははっきりしない。

労働者の日としてのメーデーは、1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求8-hour day movement)の統一ストライキを行ったのが起源[1]。 1日12時間から14時間労働が当たり前だった当時、「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、おれたちの好きなことのために」を目標に行なわれた。

1888年AFLは引き続き8時間労働制要求のため、1890年5月1日にゼネラル・ストライキを行なうことを決定したが、1886年の統一スト後にヘイマーケットの虐殺Haymarket massacre[2]といわれる弾圧を受けていたため、AFL会長ゴンパースは1889年第二インターナショナル創立大会[3]でAFLのゼネスト実施に合わせて労働者の国際的連帯としてデモを行うことを要請、これが決議され、1890年の当日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実行された[4]。以後も労働者の権利を主張する運動、また、国民がその時々の要求を掲げ団結と連帯の力を示す日として継続・発展してきた。

なお、メーデー起源の国であるアメリカ合衆国と、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの旧イギリス植民地である4カ国は、"Labour Day"を5月1日ではなく9月または10月に設定している[5]

  ふーむ。えーと、Haymarket 事件と、事件にいたる経過をメモっておくならば・・・・・・ (1) 1890年5月1日(土)、全米でゼネストが行なわます。ニューヨーク(市)やデトロイトやミルウォーキーでは1万人くらいでしたが人数が多かったのがシカゴで、40000人の労働者がストライキに参加。International Working People's Association (IWPA) の創立者でアナキストのアルバート・パーソンズ Albert Parsons は妻子とともに市民を含む8万人のデモ行進を率います。(2) 5月3日、労働者は、400人の警官隊がかためる McCormick Harvesting Machine Co (前年に大半がアイルランド系移民の工場従事者とピンカートン会社(あのPinkerton 探偵事務所です)とのあいだで騒動があり、2月からロックアウト状態だった)の工場に集結、それまでは非暴力的に行なわれていたデモだったが、終業のベルとともに、「スト破り」の従業員たちと対立、警官隊の発砲によりマコーミック社の2名(一部情報では6名)が死亡した。(3) 翌3日、この警察の暴挙に激怒したアナキストたちがヘイマーケット広場での抗議集会を呼びかけるビラを作成し、配布。夕方小雨のなか、集会が始まり、夜10時半、最後のスピーカーが演説を終了し、警官隊が隊列を組んで散会を呼びかけようとしたところで爆弾が警官隊に投げられる。警官は発砲を開始、武器をもった労働者もいたが、どの程度打ち合いがあったかは不明。警官同士での撃ち合いもあったとされ、8人の警官と少なくとも4人の労働者が死亡、負傷者多数を出す。

  この事件で、Albert Parsons を含むアナキスト7人が死刑の判決を受け、1人が15年の懲役刑となります。

HaymarketMartyrs.jpg
"Portraits of the Condemned Chicago Anarchists" Frank Leslie's Illustrated Newspaer, November 12, 1887: 201.  image via Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/File:HaymarketMartyrs.jpg>.

    A[lbert] R[ichard] Parsons (1848-87), Samuel Fielden (1847-1922 [死刑→終身刑→1893年に赦免]), Louis Lingg (1864-87),  August Spies (1855-87), Michael Schwab (1853-98 [死刑→終身刑→1893年に赦免→病死]), George Engel (1836-87), Adolph Fisher (1858-87)が、警官殺害を教唆したとして死刑、もうひとり、その場にそもそもいなかった Oscar Neebe (1850-1916 [懲役15年→1893年に赦免])が15年の刑を宣告されたのでした。
         Oscar Neebe

  さて、ラファエロ前派に共鳴し、ウィリアム・モリスとともに工芸運動を行なったイギリスの版画家・美術家のウォルター・クレインが、この8人を描いた版画を作成していることを知って、またまた自分の無知を恥じたのでした。

AnarchistsofChicago(WalterCrane,1894)1024.jpg
Walter Crane, "Anarchists of Chicago" Liberty (November 1894)

  ウィリアム・モリスとの関係からして、当然考えられることなのですけれど、童話画家として知られるウォルター・クレインは、社会主義者としての顔をもった人だったのでした。

  後半につづく~


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