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右側通行 Keep (to the) Right [雑感]

モーリちゃんの父が小学生・中学生のころは、「廊下は右側を」とか校舎内の通行ルールとして定められていたし、公道でも、「車は左、人は右」という標語が、実際に掲げられるまでもなく、掲げられていたと思う。

  去年の4月に1年ぶりに日本に帰ってきてから思ったのは、通行に関するマナーのなさでした。まー、自転車の夜間無灯走行みたいなのはたぶん15年ぐらい前に、多くなったよねー、みたいな会話を友人と交わした記憶はあります。

  でも、このごろ目に付くのは、自転車の傍若無人な道路右側走行であり、歩行者でいうと、狭い道での左側歩行、それから、廊下や階段の左側通行です。一番最後のでいうと、心ある日本の建物の階段は、時計回りに昇っていくようにつくられています(と思います)。それは廊下の右側通行の延長ですけれど、昇っていくひとと降るひとの負担を考えれば、降るほうが楽なわけですから、下るひとが円の外側を歩くべきで、上るひとは内側の楽な道を歩むべきだと思うわけです。

  でも、楽をしたがるのが人間のいやしい根性なのかもしれません。やれやれ。

  でも、公道とか廊下の左・右歩行は、同じマナーの問題だけれども、苦楽とは別の問題のはずです。

  で、唐突に引用ですが、ヴァルター・ベンヤミンが引用したフリードリヒ・エンゲルスの描く19世紀中葉のロンドンの群衆のようすです――

かれらは、互いに何ひとつ共通性を、共同の仕事をもたないかのように、忙しくすれちがってゆくばかりであって、かれらのあいだの合意といえば、互いにすれちがう二つの雑踏の流れが淀まぬように、おのおのが歩道の右側を歩く、という暗黙の合意があるにすぎない。他人に一瞥でもくれることなど、誰の念頭にも浮ばない。あらゆるひとが個人として切り離され、無感覚になり、私的利害だけに閉じこもって残忍なまでに冷淡になっていることは、かれら諸個人が小さな空間にますます数多く詰めこまれてきているだけに、いっそういやったらしく、たまらないことに思われる。(エンゲルス 〔『イギリスにおける労働階級の状態』(「マルクス・エンゲルス選集 2」) 武田隆夫訳・新潮社、1960年〕四八) (笠井潔「ポーが発見した群衆」、八木敏雄・巽孝之編『エドガー・アラン・ポーの世紀』163-4)

  えーと、ややこしい孫引きをするなと言われれば、まあーそれまでなのですけれどー、うーん。ま、引用のコンテキストをとりあえずは記憶にとどめておきたい、のか、も。

  それで、とりあえず。日本の現状って、19世紀半ばのロンドン以下だな、と。モラルもマナーもないだけでなく、暗黙の合意もない。右でも左でもどっちでもいいんじゃないみたいな(別に政治的ライト・レフトの寓意ではないです)。悲しい。


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