佐藤春夫の「デカダンに対する慌しい一考察」 [魂と霊 Soul and Spirit]
佐藤春夫の文章を、とくに『退屈読本』を、写経的に書きうつしていこうかと思ったのだけれど、佐藤春夫 (1892-1964) は歿後50年を経ておらず、著作権を尊重して引用にとどめざるを得ないのでした。
「デカダンに対する慌しい一考察」の初出は雑誌『純正美術』大正11年6月号。
「デカダンとは何であるか。健全でないものである。人生そのものヽ病気である。さうして病気のなかには、しばしば〔くりかえし記号が表記できず〕健全以上のものが閃いている。犯罪人や発狂者などのなかには、ほんの一面的にではあるが人間性の真実が露骨に拡大されて現はれてゐることが絶えずある。」と始まるエッセーの終わりの3段落――
人生そのものを一つの宗教とすれば、真のデカダンは人生の殉教者であると言へる。――そんなことを言つた人がある。
泥溝のなかのメダカが、天上の星かげを慕つてゐるのだ。――デカダンといふものは一種のロマンティケルで、それが近代の洗礼を受けてもう一歩を深入りしたものである。
霊がくさつてしまつて燐光を放つてゐる――これが本当のデカダンである。さうして平俗な人間は? 腐るにもてんで霊などは、或はまた自分自身の霊〔原文傍点付き・・・・・・〕などは持つてゐないのだ。
うーん。いっぽうでポーも含めた外国文学の影響を受け、いっぽうで支那日本文学の伝統に深く棹差した佐藤春夫の言葉遣いを探ってみようかな、みたいなところです。退屈まぎれに。でもちょっと大仰に「魂と霊 Soul and Spirit」という新マイカテゴリーをついでのように立ててみます。うーん。フォント変わったみたい。