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社会主義者ジュディー、社会主義者ジーン (3) Judy the Socialist, Jean Webster the Socialist (3) [Daddy-Long-Legs]

ジーン・ウェブスターが通ったヴァッサー女子大学は共和党寄りで、当時の保守主義として女性参政権を支持しなかったし、学生が参政権活動に参加することも許さなかったようです (Elaine Schowalter x)。しかし、ウェブスターは当初から社会主義に傾倒していて、社会改革に熱意をもっていました。英文学と経済学を専攻したウェブスターは、2年生のときに、のちに詩人となる Adelaide Crapsey と同室になりますが、彼女とふたり、大学のパレードで社会主義のバナーを掲げたそうです。

  2つ前の記事で引いたように、3年生1月の手紙でジュディーが自身を Fabian socialist と規定していることは重要です。まず1月11日の手紙で「社会主義者は無政府主義者 (Anarchists) とはまったく違います。人民に爆弾をぶつけたりなんかしません。」と書いていたジュディーは、つぎの手紙で、自身をフェビアン主義者だというのです。急激な革命が起こることを欲せず、変革を待ち望みながら「産業や教育や孤児院の改革にたずさわ」るのだ、と説明します。

   以前「合衆国と日本が戦争するとか大統領が暗殺されるとかロックフェラー氏がジョン・グリアー孤児院に100万ドル遺贈した場合 In Case War Breaks Out Between the United States and Japan, or the President Is Assassinated , or Mr. Rockefeller Leaves a Million Dollars to the John Grier Hom」(タイトル長ッw)で書いたように、マッキンリー大統領を1901年9月に暗殺したチョルガッシュは無政府主義に共鳴するポーランド系移民でした。それから、1886年5月の ヘイマーケット事件 the Haymarket Affair から、暴力とアナキズムの連結連想は形作られていたでしょう(アナキズムも多様ですし、情報操作的なものもありえたでしょうが)。

  フェビアン協会 (Fabian Society) は1884年イギリスのロンドンで設立された社会主義団体です。1900年に労働党の前身である労働代表委員会が結成されるときに多くのフェビアンが参加していますが、こんにちも労働党に影響力をもつ団体として存続しています(HP <http://fabians.org.uk/>)。トニー・ブレア Tony [Anthony Charles Lynton] Blair, 1953- やゴードン・ブラウン James Gordon Brown, 1951- はフェビアン協会員です。

  その後のロシアのコミュニズムに対して、コミュニズムへの過渡期として社会主義を位置づける考え方と、そうではなくてコミュニズムを目標としない社会主義もあって、イギリスの社会主義は後者の立場が多いようです。

  そのイギリスのフェビアン協会の創設者のふたり Sidney Webb と Beatrice Webb 夫妻がヴァッサー大学を訪問して話をするのが1898年のことでした。Elizabeth Daniels, "Vassar History, 1891-1904" <http://historian.vassar.edu/chronology/1891_1904.html>:

1898, May 9
Mr. and Mrs. Sidney Webb of London, active in the Fabian Society, visited the college and spoke informally on "The Scope of Democracy in England". They were the guests of Professor Herbert E. Mills.

  公の講演というのでなく Herbert E. Mills 教授の客として来訪、「英国の民主主義」について夫妻は話をしたのですが、ジーン・ウェブスターはこのとき2年生です。

  ところで、日本語ウィキペディアの「フェビアン協会」の「1 名称の由来」にも書かれているように、「フェビアン」は例の古代ローマの軍人クィントゥス・ファビウス・マクシムスにちなみます。カルタゴのハンニバルを持久戦で破ったファビウスの戦略が "Fabian strategy" と後に呼ばれることとなったのです。  

200px-N26FabiusCunctator.jpg
Fabius Maximus, Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Fabius_Maximus>

   ということで、記事「第二次ポエニ戦争とジュディーの戦況報告 Second Punic War and Judy's Reports from the Scene of Action」で紹介した1年生11月15日の手紙の戦況報告で出てくるクイントゥス・ファビウス・マクシムスは、ハンニバルに敗れていたのですが、その後のファビウスの持久戦略によって最終的な勝利を得たのでした。以上が先の記事で書いた「ファビウスをここで言及することの伏線的意味合い」です。


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