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塔 Tower [Daddy-Long-Legs]

1月29日の「フロアの曖昧性 Ambiguous Meaning of the Story of the Floor」の補足です。
  作家個人の背景やヴァッサーにひきつけないで考えると、ジュディーが自分の住まいを「塔」と呼び、その高いところの部屋から手紙を書きつづるのは、グリム童話のラプンツェルとレメディオス・ヴァロの『大地のマントを織りつむぐ』を足して(足したのはトマス・ピンチョンだけどw)2で割って、手紙というテクストを織りつむぐイメジを透視的に喚起するのだけれど、それはまことに身勝手な空想というものでありましょう。

  ヴァッサーの寮の建物については、以前「女子寮の話から火馬、火の車馬、火事馬、消防馬、消防馬車馬へ Fire Horses」と「ヴァッサー女子大 Vassar Female College」で書いたように、寮がどんどん建て増されて、Strong House (1893)、Raymond House (1897)、Lathrop House (1901)、Davison House (1902) と基本的には同様のデザインの4棟が19世紀末から20世紀初頭にかけてできました。
  で、自分の目は「D. R. L. S.: 親愛なるロバート・ルイス・スティーヴンソンちゃま Dear Robert Louis Stevenson」と称されるこの4つで止まっていたのですけれど、もうひとつ、やや異質の建物が、ウェブスター卒業後、しかし『あしながおじさん』発表前の1907年に建造されています。

JewettHouse,VassarCollege,with9-StoryTower.jpg
image via Karen Van Lengen and Lisa A. Reilly, Vassar College: An Architectural Tour 80

  Jewett House は1907年に、ヴァッサーの教授だった Lewis Pilcher の設計で建てられました。はじめの名前は "North" だったのだが、まもなく大学創設の貢献者で「初代」の学長だった Milo Parker Jewett (1808-82) の名をとって改名されたのだそうです。ジュウェットというひとは、1864年に退いているので、実際に大学が「開かれて」学生が通うようになった1865年の段階での学長は、レイモンド・ハウスに名が冠されている John H. Raymond だったのでした。
  下のマップで上の中央にあるのがジュウェット・ハウスです。


大きな地図で見る

  4つの既存の residence halls――マップの中央右から時計回りに、Lathrop House、Strong House、Raymond House、Davison House――に向かい合うようにして北に建てられた建物のメインの部分は、4階建てなのですが(そしてどうやら既存の寮も4階建てのようです、やはり)、同時に中央奥に連結する9階建ての "Tower" が建てられ、ここにも学生の部屋があったのでした。
  ですから、ジーン・ウェブスター在学中には影もかたちもなかった建物ですけれど、作家がヴァッサーをモデルに構想したのだとしたら、唯一高層の、しかも「タワー」と呼ばれたこの9層の建物にジュディーは虚構上はいたのかな、と思われるのでした。

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"Festivities to mark 100th birthday of distinctive Jewett House dorm. Saturday, April 21, 2007" <http://collegerelations.vassar.edu/2007/2409/> 〔ジュウェット・ハウス建造100周年記念祭〕


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拝啓着物柱様 Dear Clothes-Pole [Daddy-Long-Legs]

Daddy-Long-Legs(Century,1912)22.JPG 

(でもジョン・スミスなんて呼ばれることを望んでいるひとに、どうして「かしこ」まったりできるでしょう。どうしてちょっと個性のある名前を選びだせなかったのでしょうか。これではまるで拝啓馬繋ぎ柱 (Hitching-Post) さまとか拝啓物干し柱 (Clothes-Pole) さま宛てに手紙を書いているようなものです。)

   ふたたび1年生の最初の手紙。

  hitching-post は、どうやらもともとアメリカニズムで、イギリスは tethering-post と称してきたみたいです(記事「拝啓繋柱様 Dear Hitching-Post」と「馬繋ぎポスト Hitching Post or Horse Post」の補足です)。clothes-pole のほうは、『あしながおじさん』のイギリス版は clothes-prop に変えています。

  マシューズ (Mitford M. Mathews) の DA (Dictionary of Americanisms) には、なるほど clothes-pole もアメリカ英語として載っています。clothes-post ということばもあって、 "clothes" の combinations に "(2) pole, a pole for propping up a clothesline 〔物干し綱を支える (prop up) 棒〕" と "(3) post, (see quot.) 〔用例参照〕" と並んでいます。

用例――(2) 1865 Atlantic Mo. XV. 659  She never conjectures to what base uses a clothes-pole may come.― (3) 1935 BAILEY Standard Cyclo.  Horticulture I. 652  Clothes-post. . . . A post set in the ground to support a clothes-line. 〔クローズ・ポスト――物干し綱を支持するために地面に置かれる支柱〕

  この辞書の用例から判断する限りでは、clothespost のほうは20世紀になってから出来たことばで、初例が1935年なので、ジーン・ウェブスターは知らないことばだったのかもしれません。

  『リーダーズ英和辞典』を見ると、"clothes post" はイギリス英語として、= clothes prop と記述しています。でも "clothes prop" もイギリス英語との表示があります。わけわかりません。

  WEB 情報的には、clothes pole というのは、洋服をかける子供用の家具みたいなのも指すみたいです――例1  "Kids Coat Rack - Clothes Pole - Natural - KidKraft Furniture - 19221 - ショップ・ドットコム"・・・・・・あー、でもこれ、もとはドイツあたりかも/ 例2 "Clothes Pole" <http://www.kaboodle.com/reviews/clothes-pole> / 例3 ebay.co.uk. (もっとも、物干し用の商品も並んでいます) <http://shop.ebay.co.uk/i.html?_nkw=clothes-pole&_sacat=0&_trksid=m270&_dmpt=UK_Baby_Nursery_Furniture_ET&_odkw=clothes-pole&_osacat=0>。 あと、クロゼットのなかの横棒も clothes pole というみたい――"VERTICAL SHELF AND CLOTHES POLE SUPPORT - Patent 3478891" pdf.。 

  今日も典型的なのはT字型のものみたいです。――

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image via ACE - 2004 Wilf Flower Run <http://www.citroenwa.com/pevents/2005/BRIERY/briery2.html

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image via Flickr, posted by Ms. Kristie on March 2, 2009 <http://www.flickr.com/photos/7225985@N04/3322084371/>

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"Awaiting Wash Day" image via Flickr, posted by Country Dreaming on February 13, 2006 <http://www.flickr.com/photos/95994086@N00/99561999/>

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"Clothes Pole - T Post" image via Home Storage Concepts <http://www.homestorageconcepts.com/(S(fgp1h3bhasmk0ju2vjdmnpm0))/default.aspx?act=Catalog.aspx&catalogid=512&Subcategory=Outdoor+Laundry&category=Laundry+Room&browse=&MenuGroup=Home&desc/Clothes+Pole+Assembly+-+T+Post+Four+Piece&AspxAutoDetectCookieSupport=1> 〔商品名 "Clothes Pole Assembly - T Post Four Piece": "Heavy wall galvanized steel to withstand natural elements and rugged use. 3 vertical sections are 2" diameter and assembles to 90" high. Cross arm comes complete with bolts and nuts, endcaps and 7 eyebolds to secure clothesline." 4本で$47.99〕

   しかし、シンプルなのは、1本の棒です。常識的に考えれば、1本の物干し綱を張るシンプルなものから、複線に広がったのだと思われます。

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"Nothing grows in our garden, only babies and washing" image via Flickr, posted by jolie-coeur on March 28, 2009 <http://www.flickr.com/photos/jolie-coeur/3391460847/>

   ただ縛っただけの棒杭――

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"Poled and Strangled" image via Flickr, posted by ~Loolapazoolan Ballerina~ on April 16, 2006 <http://www.flickr.com/photos/loolapazoola/129375934/>

ClothesPole-s6e.jpg
Johny Gruelle, Raggedy Ann Stories <http://www.gutenberg.org/files/18190/18190-h/18190-h.htm>

   このフォーク状の棒は、長い物干し綱の場合に、あいだに入れて、支えるようです。

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image via "The Blues of the Clothes-Prop Man by Frank Povah" <http://likethedew.com/2010/01/05/the-blues-of-the-clothes-prop-man/>

  "Old Mother Goose and Her Son, Jack" というイギリスの物語には、clothes-prop を手に旅する男の挿絵がありますが、フォーク型というか二股に割れています。

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image via "Old Mother Goose and Her Son Jack, an adventure and short story for children" <http://www.2020site.org/robbinhood/goose.html>

  OED (オックスフォード英語大辞典)を見ると、見出し語 clothes の4番の combinations の中に clothes-pole 、clothes-post 、clothes-prop が並んでいますが、つぎのような記述です。――

clothes-pole U.S., a clothes-prop; clothes-post, -prop, a post, or prop for a clothes-line

マシューズの辞典と大差ないですが、clothes-pole をアメリカニズム (U.S.) とし、clothes-post をアメリカニズムとしていないのはリーダーズと同じです。

  用例としては、 clothes-pole のほうは1865 年の『アトランティック・マンスリー』誌で、マシューズと同じ、clothes-prop のほうは、やはりひとつだけ、1903年の用例が挙がっています。――

1903 Westm. Gaz. 10 Oct. 2/1  Holding out gaunt branches like spectral clothes-props against the sky

    やっぱ clothes-prop というのは枝分かれしている、フォークのイメジなのかしら。

   画像で重くなったので、またの日につづきまーす。

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"The History of Old Mother Goose and Her Son Jack" illustrated by Joseph Martin Kronheim, image via My First Picture Book <http://www.gutenberg.org/files/18937/18937-h/18937-h.htm>

 

 


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ジョン・スミスという名前 John Smith [Daddy-Long-Legs]

Daddy-Long-Legs(Century,1912)22.JPG
(1年生9月24日の手紙)

(でもジョン・スミスなんて呼ばれることを望んでいるひとに、どうして「かしこ」まったりできるでしょう。どうしてちょっと個性のある名前を選びだせなかったのでしょうか。これではまるで拝啓馬繋ぎ柱さまとか拝啓物干し柱さま宛てに手紙を書いているようなものです。)

   もういちど1年生の最初の手紙。

ジョン・スミス宛に手紙を書くことは、『あしながおじさん』冒頭の「ブルーな水曜日」で、リペット院長からジュディー(ジェルーシャ)が言い渡されたのでした。――

"These letters will be addressed to Mr. John Smith, and will be sent in care of the secretary.  The gentleman's name is not John Smith, but he prefers to remain unknown.  To you he will never be anything but John Smith. [. . .] (Penguin Classics 10)
(その手紙はジョン・スミスさま宛として秘書気付で送りなさい。紳士の名前はジョン・スミスではないけれど、本名は隠しておきたいご希望なのです。あなたには、ただジョン・スミスという名前のかただということ以外はなにもわからないのですよ。)

  ジョン・スミスというのは、敢えて日本でいえば、山田太郎とか鈴木一郎みたいな名前であって、実際にそういう名前の人はもちろんいるわけですけれども、「無個性」の名前の典型です。

  ひまができたら文学作品におけるジョン・スミスをリストアップしてみたいという思いがむくむくとわきおこる(あんまり意味はないw)のですが、とりあえず自分に現時点ではっきりと思い起こされるのは、ポーの短篇小説です(イギリスの劇作家の誰だったかのなんだったかの芝居にもジョン・スミスが出てきますが、思い出せませんw)。

  最晩年の1849年に発表されたポーの短篇小説「Xだらけの社説 X-ing a Paragrab」にライヴァル編集者として出てくるのがジョン・スミスですが、これはほとんどのひとの記憶には残らないかもしれません。10年前の1839年に発表された短篇「使いきった男 The Man That Was Used Up」の主人公は「まことに容姿端麗なる男」だが「人物の個性(individuality) 全体に奇異なところ」があります。体の大部分が「モノ」にとって代わられており、脚・腕・肩・胸・歯・目・口蓋、その他、体のモロモロの部分がインディアンとの戦争によって奪われている、サイボーグ的な人間、というかそれも超えて、いったい何がこのひとをひとたらしめているのか、人間のどこまでが人間たるのか――どこまで"dividual" なのか――という、アイデンティティーの問題を喚起する、コミカルな物語です。この「特別進級代将」の名前がジョン・A・B・C・スミスというのでした。John A. B. C. Smith――ジョン・スミスのあいだにミドルネームのイニシャルがABCです。たいへんわざとらしいです。「美空ドレミひばり」みたいなもんです(ちがうか)。意識的にポーがジョン・スミスとABC を合わせているのは確かでしょう(自信99パーセント)。

  ちなみにGreenwood 社の The Poe Encyclopedia には、見出しが "Smith, Brevet Brigadier-General A. B. C." でこのキャラクターが載っています。 "brevet" は「名誉進級による」という意味の(ここでは)形容詞です。"brigadier general" は大佐と少将のあいだの「准将」「代将」。まあ、確かに作品内でも長々としたこの「名誉進級代将」という肩書きがくりかえし付されるのですけれど、"John" が抜けています。イカンです。

  しかしまた、ジョン・スミスは、アメリカの歴史においてインディアンがらみ&南部がらみで記憶される名前でもあります。ポカホンタスのジョン・スミスです。

  茫漠とつづくかも。


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デートと万年カレンダーによるジュディーの誕生日の推定はほんとにあっていたのか? パート2 Was the Supposition of Judy's Birthday from Dates and the Perpetual Calendar True (Part 2) [Daddy-Long-Legs]

迂闊でした。うかつ。

デートと万年カレンダーによるジュディーの誕生日の推定はほんとにあっていたのか? Was the Supposition of Judy's Birthday from Dates and the Perpetual Calendar True」とその前の記事で、えらそうな推測をしましたが、作品を読み直してみると、4年生3月4日だけでなくて、そもそもの最初の手紙でも、日付と曜日が組み合わされていました。迂闊でした(汗)。

Daddy-Long-Legs(Century,1912)21.jpg
Jean Webster, Daddy-Long-Legs (New York: Century, 1912)

    9月24日付の手紙です。前日はじめて4時間の汽車の旅をしたことを最初に書き、二番目の段落では、「授業は月曜日の朝になるまで始まらず、いまは土曜の夜です Classes don't begin until Monday morning, and this is Saturday」と書いています。

  4年の3月5日の手紙の翌日、つまり3月6日が水曜日というのは、以前の記事に書いたように、ジーン・ウェブスター自身がヴァッサー大を卒業した1901年と『あしながおじさん』の出版される1912年の暦と合致していたのでした。では、そこに9月24日土曜日という条件が加わって、どちらに決するのか。

  

 

 

 

  ところが、1897年(入学した年)の暦では、9月24日は金曜日でした。そして、1908年の9月24日は、木曜日なのでした。やれやれ。

   むかっときました。念のため、並べてみます。

1895年9月24日――火曜日  
1896年9月24日――木曜日 
1897年9月24日――金曜日 
1898年9月24日――土曜日 
1899年9月24日――日曜日 
1900年9月24日――月曜日 
1901年9月24日――火曜日
1902年9月24日――水曜日
1903年9月24日――木曜日
1904年9月24日――土曜日
1905年9月24日――日曜日
1906年9月24日――月曜日
1907年9月24日――火曜日
1908年9月24日――木曜日
1909年9月24日――金曜日
1910年9月24日――土曜日
1911年9月24日――日曜日
1912年9月24日――火曜日

  土曜日となっている三つの年の4年後卒業年の3月6日を調べてみます。――

1902年3月6日――木曜日
1908年3月6日――金曜日
1914年3月6日――金曜日

  

 

 

   やれやれ。設定はランダムか。むかっ。

   ということで、すべてが瓦解したのでした。

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参考urls―

  (1) The Perfect Perpetual Calendar 〔「あの日は何曜日? 10000年カレンダー」 の英語版
  (2)  
The Infoplease Perpetual Calendar 〔"The first year recorded by this calendar is 1583, the first full year of the Gregorian calendar. 1753 was the first full year in which the U.S. (then a British colony) began using the Gregorian calendar." (Note)〕


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キャプテン・ジョン・スミスと南北問題 (1)  Captain John Smith and the North-South Problem (1) [Daddy-Long-Legs]

〔記事「ジョン・スミスという名前 John Smith」のつづきです〕 

ジョン・スミスとポカホンタスについてあれこれウンチクを傾けるのも楽しいかもしれないけれど、不正確な妄想を書きかねませんし、なんだか英語ウィキペディアを参照したうえでそれなりに充実しているように見受けられる日本語ウィキペディア記事「ジョン・スミス(探検家)」「ポカホンタス」もあるので、そこからはずれた話を勝手にしたいと思います。
  あ、それからウィキペディアでジョン・スミスを検索すると、日本語のほうだと、だいぶ人数を絞っていますけれど、英語の Wikipedia "John Smith" だと、虚構の人物を除いても100人並んでいます。
  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

  イングランド東部の北海に臨む州リンカンシアに生まれて、十代で船乗り、そして軍人になったジョン・スミス John Smith, 1580-1631 は、(北)アメリカ植民地建設を目的としてジェイムズ1世が勅許したヴァージニア・カンパニー Virginia Company のロンドン会社のほうの一員として、1607年5月、「南部」ヴァージニアのジェイムズタウンに(北)アメリカ最初の恒久的植民地を建設します。アメリカ建国の父祖とされるピルグリム・ファーザーズ Pilgrim Fathers が「北部」のプリマスに植民地を建設するのが1620年で、10年以上あとのことなわけですけれど、第一に北部が文化的・政治的中心としてアメリカの歴史は進んだこと、第二に、おおざっぱに分けると南部は商売的な目的や野心で入植する者が比較的多かったのに対し、北部は宗教的な理由から新天地を求めてくる者が多かった(北部は生活がむつかしく、実際ピルグリム・ファーザーズの一行の半分以上が最初の冬に飢えと寒さで亡くなったのでした、確か)、第三に、南部は英国の勅許に基づいて植民が始まったし、英国王が統治者を認めていたわけですが、北部の植民地の土台を築いたピルグリム・ファーザーズは、いわゆるピューリタンで、英国国教会の不十分な宗教改革に反対して祖国を捨ててエミグレとしてオランダに移住し(それによってカルヴィニズムを受容し)、一度英国へ戻り、また迫害され、新世界での新しい歴史の始まりの可能性を夢見てやってきた、宗教に傾斜したひとたちでした。ので、今日もキリスト教信仰の強いアメリカが自らを語る歴史としては、いきおい、故国イギリスの「植民」先であった南部ジェイムズタウンではなくて、故国イギリスを捨てて「移民」してきた北部の物語を中心に据えたのでした(たぶん)。
  ポカホンタスとジョン・スミスの「神話」というのは、1607年12月にジョン・スミスがポーハタン族のインディアンに捕まったときに酋長の娘のポカホンタスが身を投げ出してスミスの命を救った、というものです(まあ、その後の、ジョン・ロルフとポカホンタスの結婚などにまつわる神話化もありますけれど)。ポカホンタスは英語を学び、白人とインディアンの友好の架け橋となります。もっともジェイムズタウンは、ポカホンタス Pocahontas, c.1595-1617 死後の1622年には「ジェイムズタウンの虐殺 Jamestown Massacre; Indian Massacre of 1622」が起こり、インディアンと白人の友好関係を示すと思われた土地であったジェイムズタウンのイメジは、ヨーロッパ白人の目には、崩壊します。
  ジョン・スミス自身は既に1609年にイギリスに戻って、脚色をまじえた文筆業に専念していたみたいですけれど、スミスが残したものに地図があります。

  あ、このへんで、ちゃんとwWikipediaを引いておきます。――

ジョン・スミス(英: John Smith、1580年–1631年6月21日)はイギリスの軍人、船乗りおよび著作家である。現在のアメリカ合衆国バージニア州ウィリアムズバーグ市内に北アメリカでは最初の恒久的植民地となったジェームズタウンを建設した。スミスは先住民族インディアンポウハタン族のポウハタン酋長との諍いの間に、酋長の娘ポカホンタスと短期間だが交流があったことでも知られている。スミスは1607年から1609年まで、ジェームズタウンを本拠とするバージニア植民地の指導者であり、バージニアの多くの川やチェサピーク湾を探検した。

スミスの書いた本はその業績と同じくらい重要であった。イギリスの多くの男女がスミスの切り開いた道に従って新世界に渡り開拓者となった。スミスはアメリカ北東部も探検してその地域にニューイングランドという名前を付けたことでも知られている。その時のスミスは「ここならば誰もが自分の思うところに従って働き土地の所有者になれる。...もしその働く手しか無いにしても、...勤勉に働けば直ぐに金持ちになれる」と言って人々を励ました。これが力強いメッセージとなり、続く4世紀の間に何百万人もの人々をこの地域に引き寄せることになった。〔Wikipedia 「ジョン・スミス(探検家)」<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9_%28%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E5%AE%B6%29> リンクを適当に省略〕

   この日本語記事に相当する英語はつぎのようです。――

Captain John Smith (c. January 1580 – June 21, 1631) Admiral of New England was an English soldier, explorer, and author. He is remembered for his role in establishing the first permanent English settlement in North America at Jamestown, Virginia, and his brief association with the Virginia Indian[1] girl Pocahontas during an altercation with the Powhatan Confederacy and her father, Chief Powhatan. He was a leader of the Virginia Colony (based at Jamestown) between September 1608 and August 1609, and led an exploration along the rivers of Virginia and the Chesapeake Bay.

His books and maps may have been as important as his deeds, as they encouraged more Englishmen and women to follow the trail he had blazed and colonize the New World. He gave the name New England to that region, and encouraged people with the comment, "Here every man may be master and owner of his owne labour and land...If he have nothing but his hands, he may...by industrie quickly grow rich." His message attracted millions of people in the next four centuries.

  長くなりそうなので続きます。すいません。

Shifflett_JohnSmiths_1612_Map.jpg
ジョン・スミス作成のヴァージニア地図 (1612) (クリックで少し拡大)

 

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Thomas R. Smith Map Collection <http://www.lib.ku.edu/mapscoll/wworld.shtml> 〔The University of Kansas Libraries〕

New York State Historical Maps <http://www.stonybrook.edu/libmap/nymaps.htm> 〔State Univestiy of New York at Stony Brook/ Univestity Libraries/ The Map Collection〕

New York State Map Pathfinder <http://www.stonybrook.edu/libmap/nypath1.htm> 〔Stony Brook University/ Univestity Libraries/ The Map Collection〕


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キャプテン・ジョン・スミスと南北問題 (2)  Captain John Smith and the North-South Problem (2) [Daddy-Long-Legs]

キャプテン・ジョン・スミスと南北問題 (1)  Captain John Smith and the North-South Problem (1)」のつづきです。  ジョン・スミスは「ニュー・イングランド」の名づけ主でもあって、ニューイングランドの地図も残しています。――
NewEngland-CaptainSmith_1614.gif
Capt. John Smith's Map of New England, 1614 "Observed and described by Captayn John Smith 1614"

  この「新しい」イングランドには、古いイングランドの地名がちりばめられていることがわかります。ロンドンとかオックスフォードとか、プリマスとか、エディンバラ (Edenborough) とか、ケンブリッジ (Cambridg) とか。これ自体は、広い意味でのタイポロジーと言おうと思えば言えるかもしれませんけれど、基本は大英帝国の植民地であることを刻印する名付けではないでしょうか。ちなみに Plimouth は、1619年に英国プリマス港を出たピルグリム・ファーザーズがたどり着いた場所でした(なんたる偶然!)。

  ということで、1607年に南部ヴァージニアのジェイムズタウンに北米初の恒久的植民地を築いたジョン・スミスは、北部ニューイングランドにも足跡を残すのですけれども、初期アメリカ植民地は、北のマサチューセッツ湾と南のヴァージニアのふたつに大別され、文化的にちょっと異なる発展を遂げます。

  『あしながおじさん』の1年生1月の試験前夜の手紙で、ジュディーはジュリアから家のことを訊かれたと書いています。――

Julia Pendleton dropped in this evening to pay a social call, and stayled a solid hour.  She got started on the subject of family, and I couldn't switch her off.  She wanted to know what my mother's maiden name was―did you ever hear such an impertinent question to ask of a person from a foundling asylum?  I didn't have the courage to say I didn't know, so I just miserably plumped on the first name I could think of, and that was Montgomery.  Then she wanted to know whether I belonged to the Massachusettts Montgomerys or the Virginia Montgomerys.  (Penguin Classics 29)
(ジュリア・ペンドルトンが今晩、社交的訪問にやってきて、たっぷり1時間いました。家族のことをいいだして、わたしはどうしても話題をそらすことができませんでした。わたしの母親の旧姓を知りたがりました――捨て子の養育院の出身者に、これほど失礼な質問はないのではないでしょうか? わたしは知らないという勇気がなかったので、思いつくままにみじめなでたらめの名前をいったのですが、それがモントゴメリーでした。すると彼女は、マサチューセッツのモントゴメリー家か、それともヴァージニアのモントゴメリー家かと知りたがるんです。)

  ジュリアが言っているマサチューセッツとヴァージニアというのは、それぞれ北部と南部の初期植民地なわけです。

   ペンドルトン家自体は、1年生10月1日の手紙で "Julia comes from one of the first families of New York" (Penguin Classics 15) と書かれ、また、ジュリアの母親の旧姓はラザーフォード Rutherford (29) です。Rutherford あるいは Rutherfurd という姓はフランドル地方の Ruddervoorde にまで遡るみたいです、調べてみると。Pendleton のほうは調べがつきません(それなりの名前辞典はあるかもしれないのですが、仕事場へ行かないと見られず)。ニューヨーク州のNiagara Falls のとなりにペンドルトンという町があって、でも、それは Sylvester Pendleton Clark (? 1800年ごろ活躍)にちなむ名であるとか、ヴァージニアの法律家でアメリカ独立時に活躍した Edmund Pendleton (1721-1803) というひとがいたとか(あ、このひと日本語版もあります、Wikipedia エドモンドじゃなくてエドマンド・ペンドルトンだと思いますけど)。

  で、なんでこんなことを書いているのかというと、『あしながおじさん』における神問題とのかかわりです。ジュディーがしばしば糾弾している(ように見える)キリスト教的世界観は、1年生8月の日曜日のロック・ウィロー農場からの手紙にあるように、ピューリタニズムが色濃いように思われます。昨年の夏の記事「天(国)地(獄)人(間) (1) Heaven, Hell, and Man」[2009-08-06「ケロッグさんの選んだ讃美歌 Hymn Sung by Mr. Kellogg――天(国)地(獄)人(間) (2) Heaven, Hell, and Man」[2009-08-07]「サザン・ハーモニー The Southern Harmony――天(国)地(獄)人(間) (3) Heaven, Hell, and Man」[2009-08-08]で書いたような讃美歌を引いて、ジュディーはセンプル家の世界観との違和感を書きます。――

I find that it isn't safe to discuss religion with the Semples.  Their God (whom they have inherited intact from their remote Puritan ancestors) is a narrow, irrational, unjust, mean, revengeful, bigoted Person.  Thank heaven I don't inherit God from anybody!  I am free to make mine up as I wish Him.  He's kind and sympathetic and imaginative and forgiving and understanding--and He has a sense of humor.  (Penguin Classics 48)
(わたしはセンプルさん夫妻と宗教について語るのは安全でないと知りました。ふたりの神さま(遠いピューリタンの先祖からそのまま受け継いできた神)は、狭量で、不合理で、不正で、卑しくて、復讐にもえた、頑固なペルソナです。わたしが誰からもどんな神さまも受け継いでいないことを天に感謝! わたしはわたしの神さまを自分の望むように自由にこしらえられます。親切で思いやりがあって想像力があって寛大で理解もある神さま――それにユーモアのセンスもあります。)
  いま、自分の書いた記事を読んでみたら、こんなふうに書き留めていました。――

  不合理な神を糾弾する姿勢は、ほとんどおおおじさんのマーク・トウェインと重なるところがあるような気もしますけれど、とりあえず北部南部のキリスト教の違いという問題を棚上げにして、構図的には以下のような教義に対して、ある程度普遍的な怨嗟・糾弾があったのではないかと考えられます。

  アメリカのピューリタニズムの17世紀以来の歴史的な基盤はカルヴィニズムです。カルヴィニズムの中心的な教義のひとつは total depravity(全的堕落)、もうひとつは predestination (予定説)です。「全的堕落」とは全人類的かつ全人格的堕落のこと、別言すれば、人間は「原罪」を負った不完全な存在であるという考え。「予定説」というのは、救済されるか(天国に入れるか)、地獄に堕ちるかは予め神によって定められているという考え。ぶっちゃけていうと、がんばって徳を積んだからといって予定がそれで変わるわけでないし、がんばらない人も救われうるし、みんな罪人といいながらそのなかに聖人として選ばれるエリートがいるし、全能な神が地獄堕ちをあらかじめ選別しておいて生かすのはなぜかとか、悔い改めよと説き続けるのはなぜかとか、いろんな、バチアタリな疑問が出てくるように思われます。

  ジュディーがこれまでの人生でためこんできた神学的疑問が出てきたのか、あるいは作家自身の問いかけが筆としてすべって出てきたのでしょうか。ピューリタン的な地獄堕ちの暗い宿命論に対する反感が、自然と出てきたのでしょうか。それとも親に捨てられた孤児のジュディーが神の摂理なるものに疑問をもつのが自然ということなのでしょうか。よくわかりません。考え中w。

  とりあえず、「『あしながおじさん』における神」というタッグを組んで継続審議することにしますぅ。

  あー、そーそーw。  一歩踏み出します。

  ジーン・ウェブスターの母方は南部の家系で、父親は北部ニューイングランドの出身でした。ジーン・ウェブスターのユーモアのセンスは、母やマーク・トウェインの属していた南部的センスと考えることができます。父の出身地である北部は、対照的な伝統をもった地方で、きびしい戒律によって人間性の自由な発露を抑えるピューリタニズムの伝統が北部の伝統であったということができます。

  そういう、個人的かつ歴史地理的な視野がこの作品に埋められているか、という問題なのでした。たぶん。

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1907年発行の、ジェイムズタウン建設300年記念切手

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The Plymouth Colony Archive Project <http://www.histarch.uiuc.edu/plymouth/index.html> 〔The Plymouth Colony Archive Project at the University of Virginia ――なぜ南部ヴァージニア大学がプリマス植民地研究をw

Thomas R. Smith Map Collection <http://www.lib.ku.edu/mapscoll/wworld.shtml> 〔The University of Kansas Libraries〕

New York State Historical Maps <http://www.stonybrook.edu/libmap/nymaps.htm> 〔State Univestiy of New York at Stony Brook/ Univestity Libraries/ The Map Collection〕

New York State Map Pathfinder <http://www.stonybrook.edu/libmap/nypath1.htm> 〔Stony Brook University/ Univestity Libraries/ The Map Collection〕

John Smith and Virginia <http://www.virginiaplaces.org/settleland/johnsmith.html> 〔Virginia Places <http://www.virginiaplaces.org/> 内。有益なリンクを含む〕


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ロング・レッグズ船長、ジョン・スミス船長、ジョン・シルヴァー船長 Cap'n Long-Legs, Cap'n John Smith, Cap'n John Silver [Daddy-Long-Legs]

ジョン・スミスは、『あしながおじさん』の最初の手紙でジュディーが不満を述べるように無個性の名前の典型なのですけれど、アメリカ史のなかでは、1620年のピルグリム・ファーザーズによる北部のプリマス植民地建設に先立つ1607年に、最初の恒久的植民地を南部ヴァージニアに設立したひとの名として思い浮かぶ名でもあります。

  前の記事に載せた1907年の記念切手でもそうですが、ジョン・スミスは "Captain" のタイトルを付されるひとでした。そのことは、彼の業績を語る図版でも確認されます。――

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"A description of part of the adventures of Cap: Smith in Virginia" (クリックでちょっと拡大)

  "Cap: Smith" とか "C: Smith" とか、コロンの使い方は現在のものではありませんが、ともかく、J. Smith ではなくて Captain を冠した呼ばれ方をしています。

  著書でも "Captain John Smith" です。――

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A Description of New England: or The Observations, and Discoveries, of Captain John Smith (Admirall of that Country) in the North of America, in the Year of Our Lord 1614: with the Successe of Sixe Ships, That Went the Next Yeare 1615; and the Accidents Befell Him among the French Men of Warres (London, 1616)

  1609年のインディアンとの戦いの際に怪我をしてヴァージニアを離れ帰郷していたジョン・スミスは、1614年と1615年に船でニューイングランドのマサチューセッツからメインにかけての海岸の探検を行ないます。しかしフランスの海賊に捕えられ、数ヶ月の抑留後に逃亡してイギリスに戻ります(以後はもっぱら故国で文筆にいそしみます)。その探検行の記録が1616年にロンドンで出版されたのでした(E-text (pdf.) @University of Nebraska <http://digitalcommons.unl.edu/etas/4/>)。

    ジョン・スミスというひとは、探検家であり冒険家であり、船乗りの船長さんでありました。

  ☆ ☆ ☆ ☆

  『あしながおじさん』のなかで、一箇所、あしながおじさんが "Captain" と呼ばれるところがありました。

skull&bones,Daddy-Long-Legs.jpg

Ship ahoy, Capn Long-Legs!

     Avast!  Belay!  Yo, ho, ho, and a bottle of rum.  Guess what Im readling?  Our conversation these past two days has been nautical and piratical.  IsnTreasure Island” fun?  Did you ever read it, or wasnt it written when you were a boy?  Stevenson only got thirty pounds for the serial rights―I don’t believe it pays to be a great author.  Maybe I’ll teach school.
     Excuse
  me for filling my letters so full of Stevenson; my mind is very much engaged with him at present.  He comprises Lock Willow’s library.
     I’ve been writing this letter for two weeks, and I think it’s about long enough.  Never say, Daddy, that I don’t give details.  I wish you were here, too; we’d all have such a jolly time together.  I like my different friends to know each other.  I wanted to ask Mr. Pendleton if he knew you in New York―I should think he might; you must move in about the same exalted social circles, and you are both interested in reforms and things―but I couldn’t, for I don’t know your real name.
     It’s the silliest thing I ever heard of, not to know your name.  Mrs. Lippett warned me that you were eccentric.  I should think so!
                                                                                   Affectionately,
                                                                                                                JUDY.
     P.S.  On reading this over, I find that it isn’t all Stevenson.  There are one or two glancing references to Master Jervie.
(船やああい、ロング・レッグズ船長!
 止まれー! それでよーし! よー、ほー、ほー、ラム一本だ。何を私が読んでいると思います? この二日間というもの私たちの会話は海事・海賊関係のことばでいっぱいでした。『宝島』って本当におもしろくないですか? この本を読んだことがあるでしょうか、それとも子供の時分にはまだ書かれていなかったかしら? スティーヴンソンは雑誌連載してたった30ポンドしか得られなかったのです――偉大な作家になってもあまりもうからないみたいですね。学校の先生になろうかしら。
 手紙がスティーヴンソンだらけになってしまいごめんなさい。私の頭は目下スティーヴンソンでいっぱいです。ロック・ウィローの書庫を構成しているのはスティーヴンソンなんです。
 この手紙には二週間かかっていて、ちょっと長すぎるかなと思います。けれども、ダディー、細かいことを書いていないじゃないかと決して言わないでください。  あなたもここにいらしたらいいのに、と思います。そうすればみんな一緒に楽しい時を過ごせるでしょうに。私、自分のお友達同士が知り合いになってもらうのが好きです。  ペンドルトンさんに、ニューヨークであなたを知っているか聞いてみたかった――知っているかもしれないです。あなたはきっと同じような上級の社交界に出入りしているにちがいありませんから。そうして、あなたもジャーヴィスさんも社会改良などに興味をもっていますし――けれども、尋ねることができませんでした。だって本当の名前を知らないのですもの。
 名前を知らないなんて、こんな馬鹿みたいなことがあるでしょうか。リペット夫人があなたは変なおじさんだって私に注意しましたけれど、ほんとうにそうだわ!
                                      愛情深い ジュディー
 追伸 読み返してみると、全部がスティーヴンソンではないですね。ジャーヴィー坊ちゃまがちょこっと出ています。)

  "Cap'n John Smith" と呼んでいるのではありません。しかし、「名前を知らないなんて」と、本名を教えられないでいることに対する愚痴がまた出てくることから、「ジョン・スミス」という名前を頭にのぼらせていることも確かでしょう。そのうえで、記事「ロング・ジョンとジョン・スミスの脚 Legs and Long John and John Smith」で書いたように、『宝島』の片足 (one leg / one-legged) のジョン・シルヴァー船長が「ロング・ジョン」と呼ばれていることをジュディーが意識していたならば、ロング・ジョン―ロング・レッグズ―ジョン・スミスという連鎖が、百足の足のごとく、とはいえないまでも、起こっている可能性はあるのではないでしょうか。

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A Description of New England: or The Observations, and Discoveries, of Captain John Smith (Admirall of that Country) in the North of America, in the Year of Our Lord 1614: with the Successe of Sixe Ships, That Went the Next Yeare 1615; and the Accidents Befell Him among the French Men of Warres (London, 1616) <http://digitalcommons.unl.edu/etas/4/> 〔E-text at University of Nebraska〕

The General Historie of Virginia, New England and the Summer Isles: Together with the True Travels, Adventures and Observations [, and a Sea Grammar], 2 vols. (London, 1624 [A Sea Grammar 1627]; rpt. Glasgow, 1907) <http://memory.loc.gov/cgi-bin/query/h?ammem/lhbcbbib:@field(NUMBER+@band(lhbcb+0262a))>  〔Library of Congress〕


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ジョン・スミスの『海の文法』 (1627) A Sea Grammar by John Smith (1627) [Marginalia 余白に]

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ジョン・スミスが1627年にロンドンの John Haviland から公刊した A Sea Grammar について、日本語ウィキペディア「ジョン・スミス(探検家)」は「スミスの著作」の項で、「英語では初めての水夫の辞書」と記しています。がどうやら前年に刊行されたAn Accidence, or the Pathway to Experience Necessary for all Young Seamen (1626) (このタイトルはウィキペディアにも挙がっている)の改増版のようです。"Accidence" というのは「基本」とか「初歩」「基礎」というような意味です。"Grammar" も、まあ、「文法」といってもよいのでしょうけれど、「入門書」とか「手引き」という意味でもあります。「文法」は誤訳やろー、という声が聞こえなくもないですけれど、結局 accidence も grammar も文法のコトバなわけです、本来(文法用語としての accidence は今日は morphology というのがふつう)。長いタイトルを含む文献情報を、The Maritime History Virtual Archives というWEB サイトが記述しています。このサイト、すごいです。――

Smith, John: An Accidence, or The path-way to experience. Necessary for all young sea-men, or those that are desirous to goe to sea, briefly shewing the phrases, offices, and words of command, belonging to the building, ridging, and sayling, a man of warre; and how to manage a fight at Sea. Together with the charge and duty of every officer, and their shares: also the names, vveight, charge, shot, and powder, of all sorts of great ordnance. With the vse of the petty tally.
Printed by N. Okes for Ionas Man and Benjamin Fisher, London, 1626 (1st). 8vo, 13,5×7,5 cm, 38 pp.
RCA records (8), 42 pp & Roberts records 4to, iv, 42 pp. Other editions 1627 (2nd) and 1636 and enlarged in A Sea Grammar in 1627, 1653, 1691, 1692, 1699 and 1705. Reprinted 1884, 1895, 1907 and 1910 in The Complete Works of John Smith. JCB has a copy with a variant dedication to Sir Robert Heath on A2r.
〔"17th Century Maritime and Naval Dictionaries" <http://www.bruzelius.info/Nautica/Bibliography/Dictionaries_1600.html>〕

  同じサイトから、 A Sea Grammar の初版 (1627) の書誌情報――

Smith, John: A Sea Grammar, with the Plaine Exposition of Smiths Accidence for young Sea-men, enlarged. Diuided into fifteene Chapters: what they are you may partly conceiue by the Contents. Written by Captaine Iohn Smith, sometimes Gouernour of Virginia, and Admirall of Nevv-England.
Iohn Haviland, London, 1627. 8vo, 16,5×10,5 cm, (12), 76 pp. Pagination irregular 55=54, 54=55, 70 unnumbered, 83-86=73-76.
Facsimile: Theatrum Orbis Terrarum, Amsterdam, 1968.
Michael Joseph, London, 1970. 8vo, xxxii, 113 pp, 10 plates. Edited by Kermit Goell.
A second and expanded edition of An Accidence, or path-way to experience, first published in 1626.

    違う出版社とはいえ、ページが38 から76と倍増しています。でも Accidence のほうの Benjamin Fisher は1636年になって基本同じタイトルで、ただし副題の冒頭を "Very necessary for all young sea-men" と強調して、62ページの本を出しているので、そんなに増補されたのではないのかもしれません。Accidence のほうはテクストを参照できないので断定できませんが、ともかく、この時点で "phrases" や "words" を解説していたことは副題からも確認できます。逆に A Sea Grammar のほうを見てみても、まさに手引書という趣きが強く、辞典という感じは弱いです。

  Encyclopedia.com は "Smith, John - FREE Smith, John information | Encyclopedia.com: Find Smith, John research" <http://www.encyclopedia.com/doc/1O123-SmithJohn.html> でハート James D. Hart の有名なオックスフォード・コンパニオン The Oxford Companion to American Literature を引いているみたいで、著作について記述している箇所はつぎのようです(ジョン・スミスの他の著作についても参考になる解説なので引用します)。――

His books are A True Relation of such occurrences and accidents of noate as hath hapned in Virginia since the first planting of that Collony (1608), a pamphlet giving the earliest firsthand account of the settlement, but not mentioning his rescue by Pocahontas; A Map of Virginia with a Description of the Country (1612), continuing the account of his governorship; A Description of New England: or the Observations and Discoveries of Captain John Smith … (1616), a narrative of his later ventures in New England and unsuccessful voyages while in the employ of Gorges; New Englands Trials (1620), a pamphlet that has been called “essentially a plea for employment,” and which was enlarged (1622) to give an account of the successes of the Pilgrims; The Generall Historie of Virginia, New England, and the Summer Isles (1624), a lengthy and more magniloquent reworking of his earlier writings, containing an extended account of the Pocahontas story; An Accidence, or The Pathway to Experience Necessary for all Young Seamen (1626), a pamphlet that was recast, probably by another hand, as A Sea Grammar (1627) and The Seaman's Grammar (1692); The True Travels, Adventures, and Observations of Captaine John Smith in Europe, Asia, Africa, and America, from …1593 to 1629 … (1630), the autobiography that furnishes information about his early life; and Advertisements for the Unexperienced Planters of New England, or Anywhere; or, The Pathway to Erect a Plantation (1631), which, in the manner of a wise scholar counseling a young pupil, addresses advice to Winthrop and his Massachusetts settlers, and contains Smith's pathetic autobiographical poem The Sea‐Mark.

  1626年の Accidence の、もしかすると別の人の手で ("probably by another hand") 書き直された ("recast") ものとして 1627 年の A Sea Grammar と 1692 年の The Seaman's Grammar を並べています。

    A Sea Grammar のリプリント版を見ると、ジョン・スミス自身の序文や献辞的やりとりも載っているので、たぶんスミス自身がかかわっていたのではないかと思われます。1692年は、そもそもスミスは没していますから、新たな編集があったとしか思われません。

  ちなみに、1644年に Henry Mainwaring というひとが The Sea-mans Dictionary: Or, An Exposition and Demonstration of all the Parts and Things belonging to a Shippe: Together with an Explanation of all the Termes and Phrases used in the Practique of Navigation.  Composed by that able and experienced Sea-man Sr Henry Manwayring, Knight . . . という本を出し、少なくとも英語圏の海事事典としてはライヴァルが登場します。1641年、ジョン・スミスは亡くなっていますが、ロンドンの Randal Taylor 社は John Smith の名で The Sea-Mans Grammar and Dictionary という新たなタイトルにして出していました。で、どうもこのマンウェアリングとスミスは(というか両者の出版社は)競っていたみたい。

ASeaGrammar(1627)byJohnSmith.JPG
<http://www.archive.org/stream/generalhistorieo02smituoft#page/208/mode/2up>

  「15章にわかれているけれど、君は目次を見ると中味がわかるよ」と表紙と同様に扉にも書かれています(なんか教科書っぽいのかw)。ということで、目次を書き留めておきます(ページは1907年の合本リプリント版第2巻のもの)。海事用語事典としては、下の参考urlsに載せた Maritime History のサイトが有益だと思います。

Chap. I.  Of Dockes and their definitions, and what belongs to them.   222

Chap. II.  How to build a Ship, with the definition of all the principall names of every part of her, and her principall timbers, also how they are fixed one to another, and the reasons of their use.  223

Chap. III.  How to proportion the Masts and Yards for a Ship, by her Beame and Keele.  237

Chap.  IIII [IV].  The names of all the Masts, Tops, and Yards belonging to a Ship.  240

Chap. V.  How all the Tackling and Rigging of a Ship is made fast one another, with the names and reasons of of their use.  241

Chap. VI.  What doth belong to the Boats and Skiffe, with the definition of all those thirteen Ropes which are only properly called Ropes belonging to a Ship or a Boat, and their use.  250

Chap. VII.  The Names of all sorts of Anchors, Cables, and Sailes, and how they beare their proportions, with their use.  Also how the Ordnance should be placed, and the goods stowed in a Ship.  253

Chap. VIII.  The charge and duty of the Captaine of a Ship, and every office and officer in a man of warre.  258

Chap. IX.  Proper Sea termes for dividing the Company at Sea, and stearing, sayling, and moring a Ship in faire weather or in a strome.  262

Chap. X.  Proper Sea tearmes for the Winds, Ebbes, Flouds, and Eddies, with their definitions, and an estimate of the depth of the Sea, by the height of the Hils and largenesse of the Earth.  271

Chap. XI.  Proper Sea tearmes belonging to the good or bad condition of Ships, how to find them and amend them.  277

Chap. XII.  Considerations for a Sea Captaine in the choise of his Ship, and in placing his Ordnance.  In giving Chase, Boording, and entring a man of warre like himself, or a defending Merchant man 〔商船〕.  280

Chap. XIII.  How to manage a fight at Sea, with the proper tearmes in a fight largely expressed, and the ordering a Navy at Sea.  284

Chap. XIV.  The names of all sorts of great Ordnance, and their appurtenances, with their proper tearmes and expositions, also divers observations concerning their shooting, with a Table of proportion for their weight of metall, weight of powder, weight of shot, and there best at randome and point blanke inlarged.  289

Chap. XV.  How they divide their shares in a man of Warre; what Bookes and Instruments are fit for a Sea man, with divers advertisements for young Gentlemen that intend to follow the Sea, and the use of petty Tally.  296

   ひさしぶりに写経の気分を味わいましたw。

    思えば、サミュエル・ピープス (1633-1703) が生まれるちょっと前の英語です。ま、17世紀間それほど変わったとも思われませんけれど、Dockes = docks とか principall = principal とか metall = metal とか、 Beame = beam とか、Sailes = sails とか、 tearmes = terms とか、inlarged = enlarged とか、今の英語と綴りが違いますし、大文字の使用も今の習慣と違います。

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参考urls――

The Maritime History Virtual Archives <http://www.bruzelius.info/Nautica/Nautica.html> 〔"Etymology, including Dictionaries" の項 <http://www.bruzelius.info/Nautica/Etymology/Etymology.html> が各国語の辞典類〕

John Smith, A Sea Grammar [rpt. 1907] <http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=lhbcb&fileName=0262b//lhbcb0262b.db&recNum=238&itemLink=r%3Fammem%2Flhbcbbib%3A@field%28NUMBER%2B@od1%28lhbcb%2B0262b%29%29&linkText=0> 〔@Library〕

John Smith, A Sea Grammar <http://www.archive.org/stream/generalhistorieo02smituoft#page/208/mode/2up> 〔@Internet Archive〕


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茶と黄のシンフォニー Symphony in Brown and Yellow [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月10日の手紙で、ジュディーは、部屋のようすを報告します。――

Do you care to know how I've furnished my room? It's a symphony in brown and yellow. The wall was tinted buff, and I've bought yellow denim curtains and cushions and a mahogany desk (second hand for three dollars) and a rattan chair and a brown rug with an ink spot in the middle. (Penguin Classics 16)
(わたしが部屋をどんなふうに模様替えしたか知りたいですか? 茶と黄のシンフォニーです。壁はバフ色〔淡黄褐色〕に塗られていましたので、わたしは黄色いデニムのカーテンとクッションとマホガニーの机(3ドルの中古品)と籐の椅子とまんなかにインクのしみがついた茶色のラッグを買ったのです。)

  「茶と黄色のシンフォニー」という言い方は、いろんな翻訳が採用している「調和」を確かに言っているのでしょうけれど(そして確かに辞書にも「調和的組み合わせ」「音の調和」「色彩の調和」とか書いてあるけれど)、もっと色のついた表現に思えてなりませんでした。もっとも、調和とか一致をいう、harmony にしても concord にしても、もとは音楽なのかもしれませんけど――(ウンチク的に書けば、concord の "cord" は heart で、symphony の "phony" は「インチキ」のphony とは無関係で sound, voice の意味です)。

  で、はじめデューク・エリントンなどのジャズに「なんたらの交響楽」とか「黒とタンのなんたら」とかあったか、ありそうな気がしてなにげに調べてみたりしたのですが、あったとしても時代的にアナクロです。

  共感覚とか、すべての芸術が音楽の状態をめざすとか、なんかそういう美学思想的な流れの中で流行したコトバなのだろうか、という妄想が頭をもたげたりもしますが、よくわかりません。

  いま、なんとなく関係がありえるかな、と考えているのは、アメリカ生まれでヨーロッパで活躍した画家のホイッスラーの、音楽用語を入れた一連の絵画作品です。日本語のウィキペディア「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」英語のウィキペディア "James Abbott McNeill Whistler" に、Symphony in White, No. 1: The White Girl 『白のシンフォニー第1番――白の少女』(1862) と、Nocturne: Blue and Gold - Old Battersea Bridge (『青と金のノクターン――オールド・バターシー・ブリッジ』)(1872) と Arrangement in Grey and Black: The Artist's Mother (『灰色と黒のアレンジメント――母の肖像』)(1871) などの絵が掲載されています。『白のシンフォニー第1番』については、サルヴァスタイル美術館 Salvastyle.com の azuma takashi さんの解説が詳しいです――<http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/whistler_whitea.html>。ま、いろんな解釈が行なわれる絵のひとつであることは確かです。国書刊行会のゴシック叢書のウィルキー・コリンズの『白衣の女』の表紙に使われていたと思いますが、小説のタイトルは The Woman in White (1859-60) でした。

Whistler,SymphonyinWhiteNo.1.jpg
James Whistler, Symphony in White, No. 1: The White Girl 『白のシンフォニー第1番――白の少女』(1862), image via freeparking <http://www.flickr.com/photos/freeparking/521951974/>. (クリックで拡大)

Whistler,SymphonyinWhite-No.2.jpg
James Whistler, Symphony in White, No. 2: The Young White Girl 『白のシンフォニー第2番――若い白の少女』(1864), image via freeparking <http://www.flickr.com/photos/freeparking/537190852/>.(クリックで拡大)

   (うちわ持っちゃってます。日本趣味です。でもうちわの中の絵は妙に印象主義風に簡略化されていてよくわかりません。たぶん海と空を描いているみたいですが。)

バターシーの海をホイッスラーは好んで描きましたが、1865年ごろに描かれた絵には副題として "A Symphony in Brown and Silver" (「茶と銀のシンフォニー」)が付けられています。――

Whistler,OldBatterseaBridge(c.1865).jpg
James Whistler, Old Battersea Bridge: A Symphony in Brown and Silver (c. 1865)

  『パティーが大学生だったころ When Patty Went to College』 (1903) の第1章の冒頭で、4年になって割り当てられた部屋が気に入らないパティーは、友人のプリシラ(この子は『おちゃめなパティー』に描かれるように、聖アーシュラ学園から一緒に大学に進学したマブダチです)にハンマーを借りに走らせますが、そのあとの記述。――

   Patty, in the interval, sat down on the top step and surveyed the chaos beneath her. An Oriental rush chair, very much out at the elbows, several miscellaneous chairs, two desks, a divan, a table, and two dry-goods boxes radiated from the center of the room. The floor, as it showed through the interstices, was covered with a grass-green carpet, while the curtains and hangings were of a not very subdued crimson.
   "One would scarcely," Patty remarked to the furniture in general, "call it a symphony in color." (Century 5:太字強調付加)
(パッティは、ひと休みして、きゃたつのてっぺんに腰をおろした。そして、下の大混乱ぶりに目をやった。
  ひじがいやに外に張り出した東洋風のイグサのいす、いくつかのいろいろな形のいす、机がふたつ、ソファー・テーブル、それに部屋の中央から放射状におかれているふたつの布地入れの箱。
  そういったものの間から顔をのぞかせている床は、グリーンのじゅうたんでおおわれ、カーテンや壁掛けは、あまりおちつきのない緋色だった。
  パッティは、そのあたりいちめんにちらばっている家具にむかって、話しかけるようにいった。
  「だれだって、すてきに調和した色だなんていわないわよね」 (内田庶訳『おちゃめなパッティ 大学へ行く』(ブッキング、2004) 8

  こちらはなんだかふつうの言い方のように聞こえてしまいます。不思議だわぁ。


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マイケル・アンジェローとミケランジェロ Michael Angelo or Michelangelo [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月10日の手紙の冒頭は、無知を笑われたエピソードを語っています。――

     Did you ever hear of Michael Angelo?
     He was a famous artist who lived in Italy in the Middle Ages.  Everybody in English Literature seemed to know about him, and the whole class laughed because I thought he was an archangel.  He sounds like an archangel, doesn't he?  The trouble with college is that you are expected to know such a lot of things you've never learned.  It's very embarrassing at times.  But now, when the girls talk about things that I never heard of, I just keep still and look them up in the encyclopedia.  (Penguin Classics 10)
(ミケル・アンジェロってお聞きになったことありますか?
  中世にイタリアに住んでいた有名な芸術家です。英文学のクラスに出ているひとは、みんなこのひとのことを知っているらしくて、わたしが大天使だと思ったというのでクラス全部が笑いました。彼って大天使みたいに聞こえるでしょ? 大学で困ることは、習ったことのないたくさんのことを当然知っているものと思われることです。ときどきえらくバツが悪い思いをします。でも今では女の子たちがわたしの聴いたことのないことを話しているときは、ただじっと黙っていて、あとから百科事典で調べることにしています。)

  ミケランジェロ Michelangelo, 1475-1654 を Michael Angelo のようにわかちがきで綴るのは、19世紀中葉のアメリカ作家のエマソン(たとえば書評 "Michael Angelo" (1841) や有名なエッセイ『自然』Representative Men (1849))とかポー(たとえば短篇小説 "Assignation" ["The Visionary"] (1834))とか、あと思い出せませんが、19世紀後半の作品のなかでも見たことがあります。それで、ジーン・ウェブスターが学生だった19世紀末ごろはまだこの綴りだったのかな、と思って、ただじっと黙っていました。あとから百科事典で調べることにして・・・・・。

  百科事典といえば、19世紀中葉の Chambers とか Americana とか、どうだったのか興味はあるのですが、くわしく渉猟している時間がいまはなく、とりあえず、有名な1911年のブリタニカを見てみると、 "Michaelangelo" と、今日の一般的な綴りと同じ一語で挙がっています―― <http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri18chisrich#page/362/mode/2up/search/Michelangelo>。

  しかし、1912年にアメリカで出版された、ミケランジェロ伝は、 "Michael Angelo" の分かち書きです。――

RomanRolland,TheLifeofMichaelAngelo(1912).JPG

  しかし、ロマン・ローランの翻訳なので、もとのフランス語が分かち書きだったのかしら。

  1865年にロンドンで初版が出て、1874年にアメリカ版が出版されたミケランジェロ伝も分かち書きでした。――

HermanGrimm,LifeofMichaelAngelo(1874).JPG

  しかし、ヘルマン・グリムの翻訳なので、もとのドイツ語が分かち書きだったのかしら。

  イギリス版のほうには、ミケランジェロの自署らしいものがポートレトの下に印刷されていて、どうやら、一語で書かれているように見えるのにです。

Michael Angelo (HermanGrimm).JPG
Herman Grimm, Life of Michael Angelo, trans. Funny Elizabeth Bunnett (London, 1865)

  下に活字で、 MICHEL AGNIOLO DI BONARROTI SIMONI. SCHULTORE. ROMA と記されているようです。え゛ーっ、なにそれ~! 目医者か。

  英語("Michelangelo")と日本語とイタリア語("Michelangelo Buonarroti")のウィキペディアを見てみたのですが、綴りはどれも Michelangelo でした。

ミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリアルネサンス期の彫刻家画家建築家詩人。名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの。 〔「ミケランジェロ・ブォナローティ」 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD>〕

  ラテン語か。いやちがう~―― "Michael Angelus Bonarotius - Vicipaedia"

  で、このMichel Agniolo Buonarroti という名前の綴りの謎にはまりこんでしまい、未解決です。確かにこの綴りで検索ヒットするのですけれども。

  それはそれとして(w)、二語・一語の問題ですが、思いついて、ウォルター・ペイターの有名な『ルネッサンス』を調べてみると、初版の Studies in the History of Renaissance (London, 1873) から、Michelangelo という一語の綴りなのでした。

  さらに思いついて、ジョン・ラスキン John Ruskin, 1819-1900 の Modern Painters (1843-60) をひっぱりだしてみたら、一貫して Michael Angelo という二語綴りでした(自分がもっているのは1900年代と1910年代にGeorge Allen 社から出版された文庫みたいな全集で、第6巻がまるごと『近代画家論』5巻の総索引と注になっています)。ジョン・シモンズ John Addington Symonds, 1840-93 はミケランジェロとトマソ・カンパネラのソネットの英訳を 1878 年に出版していますが、タイトルは、The Sonnets of Michael Angelo Buonarroti and Tommaso Campanella: Now for the First Time Translated into Rhymed English というのです。しかし、1893年(?)にミケランジェロの評伝を書いたときに、タイトルは、The Life of Michelangelo Buonarroti と、ミケは一語で表わされたのでした。

JohnSymonds,TheLifeofMichelangeloBuonarroti(1893).JPG
John Addington Symonds, The Life of Michelangelo Buonarroti: Based on Studies in the Archives of the Buonarroti Family at Florence, Second Edition (London: John C. Nimmo, 1893)

   第2版しか見当たらず、ウィキペディアは1893年を出版年としているのですが、初版が別の年か不明です。ソネットの訳も、カンパネラなしで、ミケランジェロ単独の本も出ているようで、書誌情報は専門的な本を見ないとわかりません。

  ともかく調べれば調べるほど、たくさんのミケランジェロ伝が19世紀後半に出版されていることがわかります。

 

CharlesHeathWilson,LifeandWorksofMichelangeloBuonarroti(1876).JPG
Charles Heath Wilson, Life and Works of Micelangelo Buonarroti: The Life Partly Complied from That by the Commend. Aurelio Gotti, Director of the Royal Galleries of Florence (London, John Murray, 1876)

JohnS.Harford,TheLifeofMichaelAngeloBuonarroti(1857).JPG
John S. Harford, The Life of Michael Angelo Buonarroti; with Translations of Many of His Poems and Letters. Also, Memoirs of Savonarola, Raphael, and Vittoria Colonna (London: Longman, 1857)

  なんとなくですが、1870年代くらいから Michelangelo という一語が出てきて、二語の分かち書きと並存しつつもブリタニカ百科事典1911年版に至る、という感じでしょうか(いいかげん)。

  やっぱ19世紀の古い百科事典も調べねば・・・・・・。

 

  天使の話を書こうと思っていたのですけれど、話が長くなったので、これで終わります。

〔20時45分付記 ちょっと画像を増やして書き足しました〕

2月16日(火)付記 今日、記事「大天使ミカエルのこと The Archangel Michael [Marginalia 余白に]」を書きました。


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メーテルリンクは新入生の女子の名前か Somebody Mentioned Maurice Maeterlinck, and I Asked If She Was a Freshman [Daddy-Long-Legs]

1年生10月10日の手紙。ミケランジェロのエピソードにつづけて、初日の失笑話を語ります。――

I made an awful mistake the first day.  Somebody mentioned Maurice Maeterlinck, and I asked if she was a Freshman.  That joke has gone all over the college.  But anyway, I'm just as bright in class as any of the others―and brighter than some of them!  (Penguin Classics)
(第1日目にひどい失敗をしでかしました。誰かがモーリス・メーテルリンクの話をしました。彼女って1年生なの、とわたしは訊きました。このジョークは学校中にひろがっちゃいました。それはともあれ、わたしはクラスの誰とも同じくらい頭がいいんです――いえ、その中の何人かよりはわたしのほうが頭がいいわ!)

  後段の「比較」の文法&論理問題も気にならなくはないのですが、とりあえず、こう訳しておきます。

  はじめ、モーリスってどう考えても男の名前だよなー、と映画の『モーリス』を頭に浮かべ、それから栗原知代その他の顔を思い浮かべて、それきりにしたのですが、最近ハタと思いいたりました。誰かの話に出てきたのは「メーテルリンク」だけだったのではないかと。

  だったらわかります。うわさのメーテル――


「うわさのメーテル -Maetel-」 (0: 49) posted by "yoo0709" on September 23, 2007: "福岡県の新北九州空港(KKJ)にいるメーテルさんとお話してきました。
確かに綺麗な方だったんですが・・・。
Though Matel was a certainly beautiful woman ・・・.

"Maetel" is Talking Guide Robot in Kitakyushu Airport.

Maetel "Welcome!"
Woman "Where is TETSURO?"
Maetel "Is it a locker??"

Everyone LOLOLOLOL.
"

  LOL.  Maetel is a mysterious female character in Galaxy Express 999 [Ginga Tetsudo 999] by Matsumoto Reiji. The robot Maetel at the New Kitakyushu Airport answers questions from travellers.  She was designed by the Center for Human Quality of Life through Information Technology and the Kitakyushu Foundation for the Advancement of Industry Science and Technology.  Matsumoto Reiji, born in Kurume, Fukuoka in 1938, wrote Galaxy Express 999, inspired by Miyazawa Kenji's "Night on the Galactic Railroad [Ginga Tetsudo no Yoru]" and also by Maeterlinck's 1908 play The Blue Bird [L'Oiseau bleu].

  はっ。モーリス・メーテルリンク Maurice Polydore Marie Bernard Maeterlinck, 1862-1949は、ベルギー生まれの作家(詩人・劇作家)ですが、フランス語を話す家に育ち、若くしてパリに出て、だいたいフランス語で作品を発表したようです。フランス語読みだと「メーテルラーンク」、ベルギーというかフレミッシュというかフラマン語だと「マーターリンク」ですか。英語だと Maeterlinck は、「メイタァリンク」みたいな発音だと思うんすけれど、Maeter というファースト・ネームは(あるいは銀河鉄道の Maetel というファースト・ネームは)実は聞いたことないですし、調べても出てきません。でも Linck さんというファミリー・ネームはあります。あと、Mae (メイ)さんというのは女性のファースト・ネームです。

MauriceMaeterlinck(1915).jpg
Maurice Maeterlinck (1915)

  19世紀末の象徴主義の影響を受けて、神秘主義を内包した作品を書いたメーテルリンクが、有名な童話劇『青い鳥』(聖杯探求物語のパタンを入れて生の意味を考えていると思われる作品)を発表するのが1907年、ノーベル賞を受賞するのが1911年ですから、ジュディーたちにとっては「時の」作家のひとりだったと考えられます。ジーン・ウェブスターが学生だった頃は・・・・・・既にそれなりに有名な作家だったでしょう。

  ちょっとあとですが、1915年に [Mary Ellen] McDonald Clark が評伝 Maurice Maeterlinck: Poet and Philosopher (London: George Allen & Unwin, 1915) を出したときに、本の最初に載っていた広告――

WorksbyMauriceMaeterlinck(London,GeorgeAllen&Unwin,1915).jpg

  1910年に同じ出版社から出た Maurice Maeterlinck: A Biographical Study という本(フランス人の Gérard Harry の著作の英訳書らしい)の冒頭に載っていた広告――

PocketEditionofWorksbyMauriceMaeterlinck(GeorgeAllen,1910).jpg

  青い鳥はどこいった♪

   1911 年にアメリカで出たEdward Thomas のMaurice Maeterlinck (New York: Dodd, Mead, 1911) の冒頭の "Note" を見ると、複数の出版社が英訳を出していて、『青い鳥』はロンドンのMethuen が出していることがわかりました。―― 

EdwardThomas,Note,MauriceMaeterlinck(NewYork,1911).jpg
(クリックですこし拡大)

 

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Ge222s.gif 

メーテル・リンク集――

  • メーテルリンク モーリス:作家別作品リスト青空文庫
  • Works by Maurice Maeterlinck at Project Gutenberg
  • List of Works by Maurice Maeterlinck at the Online Books Page
  • a transcript of the Nobel prize presentation speech
  • Gérard Harry, Maurice Maeterlinck: Biographical Study: With Two Essays by M. Maeterlinck.  Trans. Alfred Allinson (London: George Allen & Sons, 1910)
  • Edward Thomas, Maurice Maeterlinck (New York: Dodd, Mead, 1911)
  • Montrose J. Moses, Maurice Maeterlinck: A Study (New York: Duffield, 1911)
  • Henry Rose, Maeterlinck's Symbolism: "The Blue Bird" and Other Essays (New York: Dodd, Mead, 1911)
  • Henry Rose, On Maeterlinck: or, Notes on the Study of Symbols, with Special Reference to The Blue Bird (London: A. C. Fifield, 1911)
  • Lida Morse Staples, An Interpretation of Maeterlinck's Blue Bird (San Francisco: John J. Newbegin, 1914)
  • Granville Forbes Sturgis, The Psychology of Maeterlinck, As Shown in His Dramas (Boston: Richard G. Badger, 1914)
  • McDonald Clark, Maurice Maeterlinck: Poet and Philosopher (London: George Allen & Unwin, 1915)
  • Richard Hovey, trans. with an introductory essay "Modern Symbolism and Maurice Maeterlinck," The Plays of Maurice Maeterlinck: Princess Maleine, The Intruder, The Blind, The Seven Princesses (Stone and Kimball, 1896; rpt. New York: Duffield, 1906, 1908)
  • Richard Hovey, trans., The Plays of Maurice Maeterlinck, Second Series: Alladine and Palomides, Peleas and Melisande, Home, The Death of Tintagiles (Stone and Kimball, 1896; rpt. New York: Duffield, 1906)
  • Maurice Maeterlinck, Wisdom and Desiny.  Trans. Alfred Sutro (New York: Dodd, Mead, 1908; rpt. 1912)
  • Maurice Maeterlinck, The Blue Bird: A Fairy Play in Five Acts.  Trans. Alexander Teixeira De Mattos (New York: Dodd, Mead, 1909)
  • Maurice Maeterlinck, The Inner Beauty (London: Arthur L. Humphreys, 1910)
  • Thoughts from Maeterlinck [Chosen and arranged by E. S. S.] (1903; rpt. New York: Dodd, Mead, 1912)
  • Maurice Maeterlinck, On Emerson, and Other Essays.  Trans. Montrose J. Moses (New York: Dodd, Mead, 1912)
  • Maurice Maeterlinck, Death.  Trans. Alexander Teixeira De Mattos (New York: Dodd, Mead, 1912)
  • MauriceMaeterlinck.jpg

  • Maurice Maeterlinck, News of Spring and Other Nature Studies.  Trans. Alexander Texteira De Mattos (New York: Dodd, Mead, 1913)

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    シルバニアファミリーのものほしセット――拝啓クローズ・ポール(着物柱)様、パート2 Dear Clothes-Pole, Part 2 [Daddy-Long-Legs]

    Daddy-Long-Legs(Century,1912)22.JPG
    Jean Webster, Daddy-Long-Legs (Century, 1912), p. 22
     (でもジョン・スミスなんて呼ばれることを望んでいるひとに、どうして「かしこ」まったりできるでしょう。どうしてちょっと個性のある名前を選びだせなかったのでしょうか。これではまるで拝啓馬繋ぎ柱 (Hitching-Post) さまとか拝啓物干し柱 (Clothes-Pole) さま宛てに手紙を書いているようなものです。)

    Mizumoto Machine Mfg. Co. の英語ページは、アルミ・チェーンの使用として、「物干しざお(ひも・ロープ)のかわりとしても」 "As the substitute of a clothespole" としてますけれど、「ひも・ロープ」はclothespole とは呼ばれないと思います。<http://www.mizumoto-mm.co.jp/chain/CH08_.html>

      つぎの、100年前の写真はどうでしょう。

    m196701430037.jpg
    "Linen on a Clothespole Flaps against Funeral Sculpture - 1905 -" Crédit photo: © Alvin langdon Coburn - George Eastman House Foundation, image via Edimbourg vu par Alvin Langdon Coburn - Partie 2 | Saint-Sulpice <http://saintsulpice.unblog.fr/?p=2037> (Cf. George Eastman House Alvin Langdon Coburn Series <http://www.geh.org/fm/coburn/alcoburn/m196701430037_ful.html#topofimage>)

      『埋葬の彫刻を打ってはためく物干し柱のリネン』 (1905)。この写真、見たことがあるようでいて、たぶん知りませんでしたが、住宅に近接した墓所の、紋章の入った重厚な墓石と、日常の卑近な生活を示す物干し柱にはためく布の対照が、死と生の交わりみたいなものを(あるいは逆に皮肉な近接を)あらわしているのかと思います。写真家のアルヴィン・ラングドン・コバーンについては、別の関心がフツフツと沸いていますので、別の記事で書こうと思います。1905年というとコバーンはロンドンに住んでいたので、イギリスの風景だと思われます。

       そうなると、シンガポールの、窓から突き出た竹ざお(bamboo poles)の物干し竿も、たぶん clothes pole と呼ばれうるかも――"Hock Lam Street, 1950s" ( (c) National Library Board Singapore 2009)<http://www.flickr.com/photos/snapsg/4111408768/>。

        そうなると、(どうなると?)日本の物干し竿も clothes pole と呼んでいいのでしょうかね。

      海外進出しているシルバニア・ファミリーの clothes pole set ――

    WS000440.JPG
    Dolls Inc Ptz Ltd <http://dollzinc.com/catalog/product_info.php?manufacturers_id=30&products_id=2001&osCsid=da36b6b22223b5c1d0aae9cf0ae334dd>

      7.48ユーロ。このとき "pole" はどれを指しているのかしら。

    SylvanianFamiles-MonohoshiSet.jpg
    image via おぢいさんの店 <http://www.bidders.co.jp/item/41751238>

      シルバニアファミリー 家具シリーズ【カー610 ものほしセット】エポック社 (C)EPOCH CO.,LTD.

      この箱は、最初見たのは、ebay のオークションの画像で、「ものほし」のあとにシールが貼ってあって見えず、オリジナル日本語はなんなんだろう、と気になっていた(その画像は行方不明、見つかったら報告します――せんでええ、せんでええw)のですけれど、「ものほしセット」という、「もの」よりは「ふるまい」に力点を置いた名称なのでした。うーん。「ものほし」はモノだか動作だか、あいまいですか。むしろ前者か。モノ売っているんだからモノですか。

      ebay で「そうしきセット」かと思ってしまったセットは、英語でも "Vacuum Cleaner Set" ですので、セットによりけりかもしらんけど、「そうじ」ではなくて「そうじき」とモノを指す商品名なのかしら。。なーむー。――

    SylvanianFamilies-VacuumCleanerSet.jpg

      ところでしかし、「ものほしセット」は、アメリカの店では "Clothes Line Set" の名称で出ていました。――

    WS000441.JPG 
    Tama Boutique <http://www.tamaboutique.com/sylvanian_clothes_line.html>

      付属部品一覧は、

  • Two Clothes Line Poles 〔物干しポール 2〕
  • Two Clips  〔挟み 2〕
  • Sheet 〔敷布〕
  • Two Towels 〔タオル 2〕
  • Basket 〔籠〕
  • Two Rug Beaters 〔蒲団ばたき 2〕
  • Drying Rack 〔ラック・・・・・・物干し架(?)〕
  • Four Hangers 〔ハンガー 4〕
  • Two Slippers 〔スリッパ 2〕
  • Four Clothes Pins 〔洗濯ばさみ 4〕
  • Two Shirts 〔シャツ 2〕

  • でした。

      下から2つ目の "clothes pin" (clothespin) というのは、「干し物留め」「洗濯ばさみ」で、イギリス英語で "clothes-peg" と呼ばれるとされるものです。上から2つ目の clip は、画像でシーツをはさんでいるものだと思うのですが、じゃあ、洗濯ばさみはどこに? あー、タオルをはさんでいますね。上から7つ目の "drying rack" というのは、ここでは、タオルを掛けてある、十字型のモノのことでしょう。あと、「はたき」だと思うのですけれど、"rag beater" というのが2つあります。ひとつは、先端が割れていて、なんだか、先の記事で見た先割れ棒(もしかすると clothesprop?)に似ているのが気になりますが、ともかくじゃあ、 "clothes line pole" x 2というのはどれ? 棒と台はどう区別されておるの????

      ここで、エポック社のホームページを調べました。ちゃんと「シルバニアファミリー公式ホームページ」がありました。そして、「しょうひんカタログ」見ると、ありました、ありました。「ものほしセット」 <http://sylvanian-families.jp/catalog/furniture/1159363477831837.html>――

    1159363477831837_01_l.jpg
    image via エポック社、シルバニアファミリー公式ホームページ

      どうやら、このホームページの画像を左右反転させたりなどしてお店は使っているようです。

        そして、じゃじゃーん、「セット内容」――

    1159363477831837_02_l.jpg
    「セット内容」 image via エポック社、シルバニアファミリー公式ホームページ

      残念ながら、部品の名称・個数の記述がないのです。が、洗濯ばさみ系は2個ずつしかないようです。洗濯ばさみは「はさみ」が "a pair of scissors" と呼ばれるように、あるいはスリッパ1足(まあ、日本風にはサンダルだと思われますが)が (a pair of) slippers といわれるように、4で2とか2で1みたいなことになるのかしら。

      そうなると、"Two Clothes Line Poles" が「物干し台」と「物干し竿/綱」の両方を指していることになるのですが。

      うーむ。むつかしいです。

      いずれにしても、基本、洗濯物をかけるのに、ロープを使うのと、棒を使うのとで、文化的・風土的に別れていて、それゆえに、英米で clothespole というと、日本風の「物干しざお」ではなくて、「物干しざお」に替わる「物干し綱 (clothesline)」を張る、基本一対の柱のことを指してきたのだと思われます。

      シルバニアファミリーのものほしセットの海外普及によって、物干しの概念が変わるか否かはわからんです。

    SylvanianFamiles-ClothesPoleSet2.jpg
    「イメージ画像」 image via エポック社、シルバニアファミリー公式ホームページ

      このイメージ画像を見ると、Y字型の棒は、布団を叩くというのではなくて、物干しざおを降ろしたり掛けたりするのに使われているように見え。そしてY字型は clothesprop の形状ではないの? 謎は解決せず・・・・・・。これでは(シルバニアファミリーにおいて) clothespole が三つに分裂しております。(1) 日本的な物干しざお、(2) その物干しざおを指示する一対の台、(3) 物干しざおなり干し物を引っ掛けるらしい股割れした棒。

      う、まだ続くのか・・・・・・。 

    ////////////////////////////////////

    5396 物干し動作に適した竿高さに関する官能評価 : バルコニー空間の適正寸法に関する実験的検討その1(機器・設備,建築計画I)  [in Japanese] Preferred height of laundry pole in clothes-drying place. : Optimal Dimensions of Balcony Part 1.  [in Japanese] 」 <http://ci.nii.ac.jp/naid/110006675601/en> 〔日本建築学会大会学術講演概要集(東海) 2003.9 CiNii CiNii Fulltext PDF  "laundry pole" というふうに「物干しざお」を呼んでいます〕

    シルバニアファミリー公式ホームページ <http://sylvanian-families.jp/> 〔エポック社内〕


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    ストレンジャー・イン・パラダイス、またはアゲイン Stranger in Paradise; or Again [Marginalia 余白に]

    暮れにクリスマスの気分に浮かれて、"Stranger in Paradise" について書き始めて、なんとなく正月も書いたりしたのですけれど――「楽園の他所者 Stranger in Paradise [2009/12/25]」「"Stranger in Paradise" の不思議な日本語訳 A Stranger Translation of "Stranger in Paradise" [2009/12/26]」「ミュージカル『キスメット』のなかの "Stranger in Paradise" "Stranger in Paradise" in the Musical Kismet (1953) [2009/12/26]」「ストレンジャー・イン・パラダイスふたたび Stranger in Paradise Again [2010/01/09]」――暮れからテレビから聞こえてくるCMをたぶん平均1,2日おきくらいにほぼぼけ~っと聞きつづけ、声の感じは1953年初演のミュージカル『キスメット Kismet』 の、ブロードウェイのストライキ中にプロモーションとして抜擢されたトニー・ベネット (Tony Bennett, 1926 - ) なのだけれど、歌詞がなんだかちがうにゃ~、とひと月近くたって思いましたw。

      Time again~♪

      って、聞こえる歌詞。

      で、調べてみると、これ(JR東海のCM曲)は、日本人草間和夫が「作詞」、そして名前からすると日本人 のMISUMI が英訳した歌詞で、日本で活躍している外国人ふたりがレコーディングして2006年に出た「Again」という曲なのだとようやく知りました。
      つぎURLはJR東海のページで、「JR東海 | うまし うるわし 奈良 | うましうるわし奈良 キャンペーンソング」(音源つき)――<http://nara.jr-central.co.jp/campaign/song/index.html>
      しかし、Donna Burke というのは女声で女性です。Nello Algelucci というひとはイタリア人のギタリストのようなのですが、彼の声が別ヴァージョンとしてあるのでしょうか。
      YouTube の過去CM再生リストみたいなもの――<http://www.youtube.com/watch?v=1cRC7BzYub8&feature=PlayList&p=82C6ECB7AD00D2DC&index=36>
      2009年師走13日の「サンデーソングブック」の山下達郎のおはなしとして、9thNUTSのブログ「未来の自分が振り返る」<http://yamashitatatsuro.blog78.fc2.com/blog-entry-68.html>に書きとめられていること――

    以前、JR東海のCMで流れていた”ストレンジャー・イン・パラダイス”絶対にフランクシナトラの歌でお願いします。どこを探してもシナトラでこの曲が無いと言われました。何故テレビで流れていたのでしょう?
    教えてください。

    達郎氏:

    「これ、フランク・シナトラと勘違いされたんだと思います。これ、奈良のなんかのCMですが、あれは、トニー・ベネットだったと記憶しています。いろんな人のバージョン聴きましたが、フランク・シナトラが”ストレンジャー・イン・パラダイス”を歌っているというのは、今まで聞いたことがありません。不勉強なので知らないのかもしれませんが、トニー・ベネットと勘違いされているのではないかと思います。
    それでも納得いかなければJR東海に問い合わせてみますが、今日は、これが一番押しが強いお便りだったのでご紹介しました。」

      誰の声やねん。合成映像ならぬ合成音声なのかしら。

      ま、それはそれとして、この「Again」の正式なタイトルは、 "Again: Ancient Place, the Destination Is Surely True . . ." (表記ちがうかも) というらしいのですが、1番の冒頭は、Time again, take my heart to a gentle place.  ききとれず(汗) Am I [??]dreaming again and again, in a silence [??]  where you remain.  So time will as a nation as old and new, ききとれず(汗) destination as surely true as used to be ききとれず(汗) というのです。 なんかとても日本人くさいです。耳医者いってこようかな。

    //////////////////

    Tony Bennett, Official Website <http://www.tonybennett.net/>

    Tony Bennett Art | Official Website <http://www.benedettoarts.com/index2.html> 〔Anthony Benedetto という画家として〕


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    大天使ミカエルのこと The Archangel Michael [Marginalia 余白に]

    『あしながおじさん』1年生10月10日の手紙の冒頭。――

         Did you ever hear of Michael Angelo?
         He was a famous artist who lived in Italy in the Middle Ages.  Everybody in English Literature seemed to know about him, and the whole class laughed because I thought he was an archangel.  He sounds like an archangel, doesn't he?   (Penguin Classics 16)
    (ミケル・アンジェロってお聞きになったことありますか?
      中世にイタリアに住んでいた有名な芸術家です。英文学のクラスに出ているひとは、みんなこのひとのことを知っているらしくて、わたしが大天使だと思ったというのでクラス全部が笑いました。彼って大天使みたいに聞こえるでしょ? 

      英語の Michael Angelo あるいは Michelangelo の発音は、「舞妓安寿郎」、いや「マイコゥアンジェロウ」みたいなものでしょうが、日本語ウィキペディアの「ミケランジェロ」の記述を信じれば、そもそも、「名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたもの」でした。そのときのMichael が大天使の名前としてなのか、人名としてなのか、結局同じことなのか、はわかりませんが、ジュディーが「大天使みたい」といっているのは、大天使ミカエル+エンジェルとというふうに、ダブルで耳に響いてきたからにほかなりません。(書きそびれましたが、これは2月10日の記事「マイケル・アンジェローとミケランジェロ Michael Angelo or Michelangelo [Daddy-Long-Legs]」のつづきです。)

      大天使 archangels については、数がいくつだ(「三大天使」「四大天使」「七大天使」)とか宗派・宗教による違いとか、ウィキペディアが薀蓄を傾けているし、ほかのサイトでも薀蓄が傾けられているので、それを参照していただけばよいのですが、中心となる三大天使についてかいつまんでいうと、洗礼者ヨハネの誕生を告げたりマリアに受胎告知 (Annunciation) するのがガブリエル(そういう点では天使の原義の "messenger" の役まわりですけれど、伝統的に、終末を告げるラッパを鳴らすのもガブリエルだとされています ("Gabriel's horn [trumpet]"))、そして旧約の「ダニエル書」ではイスラエルの守護者としてあらわれ、新約の「黙示録」で天使軍を率いて赤い竜と戦うとされるのがミカエル(だからミカエルは軍人の守護者になっている)、そして旧約聖書外典(カトリックでは正典)の「トビト書 The Book of Tobit [Tobias]」に描かれる、人間の姿をしてトビトの息子のトビアスの旅に犬と一緒に同行し、父トビトの目を治したり、悪魔 asmodeus に憑りつかれた花嫁のサラを救ったりするのがラファエロです(このラファエロはイスラム教ではイズラフェル Israfel にあたるとされますが、イズラフェルというのはあのエドガー・アラン・ポーのあだ名になっている、音楽をつかさどる天使で、やっぱり世の終末に最後の審判の裁きを知らせるラッパを吹く役回りももっています)。あ、かいつままないで薀蓄を傾けてしまいましたw。

      ラファエルとトビアス(と犬)を描いた絵を多数添えて物語を語る記述が英語のウィキペディア "The Book of Tobit" にあります。魚釣りの絵とか悪魔退治の絵とかあって楽しいです。

      そして、ラファエロがトビト書にしか出てこないからか、ミカエルとガブリエルも友情出演(?)するモチーフも絵画にはあります。――

    FraFilippoLippi_ThreeArchangelsandtheYoungTobias.jpg
    Fra' Filippo Lippi (1406-69), The Three Archangels and the Young Tobias

      左から、ミカエル、犬、ラファエル、トビアス、ガブリエル。

    DomenicoDiMichelino(1417-91)_TheThreeArchangelsandTobias.jpg
    Domenico De Michellino (1417-91), Tobias and the Three Archangels

        左端の、なべを兜代わりにかぶっているのがミカエルです。つぎはラファエル、つぎはトビアス、手前に犬、手に釣った魚(これで薬をこしらえる)、そしてガブリエル。

    FrancescoBotticini(1446-97)_TobiasandtheThreeArchangels(c1470).jpg
    Francesco Botticini (1446-97), Tobias and the Three Archangels (c. 1470)

       左から、すかしたミカエル、犬、ラファエル、トビアス、そしてちょっとやる気のなさそうなガブリエル。この、ボッティチーニの絵で、左端の剣と玉をもっているミカエルのモデルはレオナルド・ダヴィンチだということになっています。

      剣をふるった、勇猛なミカエルの図は多いです。一番有名なのはグイド・レニの絵かも――

    GudeReni_TheArchangelMichael(c.1636).jpg
    Guideo Reni 〔2010.9.9訂正〕(1575-1642), The Archangel Michael (c. 1636)

      ミカエルは竜とか堕天使とか悪魔とか踏みつけにします。ムカデを踏んでる絵はみつかりませんが。

      いっぽう、ジャンヌ・ダルクの夢にあらわれたのがミカエルだということになっています。これがなかなかおもしろいです。

    EugineThirion_AppearanceofArchangelSaintMichaeltoJoanofArc(c1876).jpg
    Eugine Thirioin, Appearance of Archangel Saint Michael to Joan of Arc (c. 1876)

    JulesBastien-LePage_JoanofArc.jpg
    Jules Bastien-Lepage (1848-84), Joan of Arc 

        このバスチアン=ルパージュは、はい、ジュディーが読む『マリ・バシュキルツェフの日記』を書いた女流画家マリが恋していた画家です(記事「マリ・バシュキルツェフの日記 Marie Bashkirtseff's Journal」など参照)。ミカエルは半分透明みたいな霊的存在として描かれているように見えます。

    JoanofArc'sVision(Harpers,1895).jpg
    Joan of Arc's Vision (Harpers, 1895)

     

    ////////////////////////////////////////

    「大天使」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E4%BD%BF#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E5.A4.A7.E5.A4.A9.E4.BD.BF>

    「天使の一覧」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%BF%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7>

    「ミカエル」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%AB>

    「ラファエル」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A8%E3%83%AB>

    「ガブリエル」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB>

    Fra Filippo Lippi - The Complete Works <http://www.frafilippolippi.org/>

    Edgar Allan Poe, "Israfel" audio@ AudioPoetry <http://www.archive.org/details/audio_poetry_50_2006>

    Hervey Allen, Israfel: The Life and Times of Edgar Allan Poe (New York: George H. Doran, 1927), Vol. I  etext@ Internet Archive <http://www.archive.org/stream/israfelthelifean006580mbp#page/n11/mode/2up>

    Hervey Allen, Israfel: The Life and Times of Edgar Allan Poe (New York: George H. Doran, 1927), Vol. II  etext@ Internet Archive <http://www.archive.org/stream/israfelthelifean006456mbp#page/n9/mode/2up>

    The Book of Tobit: A Chaldee Text from a Unique MS. in the Bodleian Library, with Other Rabbinical Texts, English Translations, and the Itala.  Ed. Adolf Neubauer.  (Oxford at the Clarendon Press, 1878) <http://www.archive.org/stream/israfelthelifean006456mbp#page/n9/mode/2up>

    "Book of Tobit (Tobias)" audio@ LibriVox <http://www.archive.org/details/tobit_ss_librivox>

     

     

     


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    古い伝染病棟と新しい診療所 The Old Contagious Ward and the New Infirmary [Daddy-Long-Legs]

    『あしながおじさん』1年生10月1日の、最初の手紙から1週間後、ジュディーからの2通目になる手紙に、部屋と建物の説明があって、ジュディーの部屋がある「塔」は、新しい診療棟ができるまでは伝染病棟だったということです。――

    My room is up in a tower that used to be the contagious ward before they built the new infirmary.  There are three other girls on the same floor of the tower―a Senior who wears spectacles and is always asking us please to be a little more quiet, and two Freshmen named Sallie McBride and Julia Rutledge Pendleton.    (Century 25-26 / Penguin Classics 14)
    (わたしの部屋はかつて新しい診療棟が建てられる前に伝染病棟だった塔の高いところにあります。塔の同じフロアにあと3人女の子がいます。メガネをかけてていつもわたしたちにどうかもう少し静かにしてちょうだいって言っている4年生と、あとは1年生がふたりで、名前はサリー・マクブライドとジュリア・ラトレッジ・ペンドルトンといいます。)

      「診療棟 infirmary」と「伝染病棟 contagious ward」 と、なんで呼び方が異なるのか、ちょっと気になっていたのですが、はっきりとはわかりません(19世紀後半の伝染病についてはコレラも含め調査開始中)。もっぱら伝染病だけ扱う施設がどうして必要だったのかしら。しかし、もしかすると、手紙のつぎの段落で、"After you've lived in a ward for eighteen years with twenty room-mates, it is restful to be alone." (Century 26 / Penguin Classics 15)(18年間 "ward" の中で20人のルームメートと暮らしたあとでは)というふうに、自分のいた孤児院の「収容施設」を指すべく、同じ ward という言葉を使って冗談をかますためにしかけられた工夫であるのかもしれません。 ( ward というのは、(病院の)特定患者のための病棟、あるいは(ふつう6人以上の)大部屋の病室、みたいなのが病院関係の意味ですが、刑務所の監房とか、救貧院とか養老院などの収容室という意味もあります。ここでは孤児院の収容室を指して、同じ ward という言葉を使っておるのだと考えられます。)

      記事「フロアの曖昧性 Ambiguous Meaning of the Story of the Floor」で書いたように、この塔は、おそらくジーン・ウェブスター卒業後の1907年にヴァッサー大学に建てられた新しい寮の建物の背後にあった9階建ての "Tower" をモデルにしていると考えていいのでしょうが、ヴァッサー関係を調べてみると、「古い診療所」があったのは最も古い建物であるメインビルディングでした。

      今日の午後、たまたま古いニューヨークタイムズを開いていたら、「新しい診療所」建設の記事が載っているのが目に留まったので、書き留め書き写します。――

    VassarCollegeSecuresaGift(NewYorkTimes,October29,1899)p.15.jpg
    The New York Times (October 29, 1899), p. 15

    VASSAR COLLEGE SECURES A GIFT

    Infirmary Building Is Presented by Mrs. Caroline S. Atwater.

    POUGHKEEPSIE, Oct. 28.―Ground is to be broken on Monday on the Vassar College campus, the gift of Mrs. Caroline Swift Atwater of Poughkeepsie, a member of the class of 1877.  The infirmary is given in memory of Mrs. Atwater's father, Charles W. Swift, to whom the college owes much, not alone for his distinguished service on the first Board of Trustees, but because he is said, more than any other, to have influenced Matthew Vassar's decision to found a college for women.

        いずれヒマができたら全部訳すかもしれませんが、かいつまんでいうと、ポーキプシー市のヴァッサー大学のキャンパスで、独立した診療棟の建設のための土地の掘り起こしが始まった、という記事です。大学の創設時にマシュー・ヴァッサーに影響を与え、草創期の理事だったチャールズ・W・スウィフトの娘で、1877年の卒業生であるキャロライン・スウィフト・アトウォーター夫人が、父親を記念して大学に寄贈するのだということです。

      この新しい診療所は1900年に完成して、Swift Hall と呼ばれていたようです。現在の診療棟は1940年に造られた Baldwin Infirmary というみたいです。これは19世紀末から20世紀前半にかけての設計者たちとは違う人々によって違う意匠で建てられた最初の建物だったみたい(Karen Van Lengen and Lisa A. Reilly の Vassar College: Architectural Tour 110ページの記述によると)。

      ともあれ、1899-1900年というのは、ジーン・ウェブスターが2,3年生から3、4年生だったころですが、以前確認したように(「『あしながおじさん』の年代の確定 [2010/01/15]」)、この小説の物語は1910年前後に設定されているので、「新しい診療所」であったといえると思います。

      だいぶ前にひろった絵葉書は、このスウィフト・ホールなのね。――

    Infirmary, Vassar College, Poughkeepsie, NY.jpg
    image via epodunk.com <http://www.epodunk.com/cgi-bin/genInfo.php?locIndex=1476>

    "Poughkeepsie, N. Y.  B??? Infirmary, Vassar College" と書いてあるようですが、??? のところが読めません。違う名前だったのでしょうか。20世紀とは思われない雰囲気です。

       同日夜11時付記 よく見直したら、BではなくてS で、ちゃんと Swift Infirmary と書いてあるのだとわかりました。それから、www.nypostcards.net というところのestore にも "Swift Infirmary at Vassar College, Poughkeepsie NY" というモノクロの絵葉書が出ていました――<http://www.nypostcards.net/ProductDetails.asp?ProductCode=n4941>。

    //////////////////////////////////////

    NYPL Digital Gallery | Results - vassar <http://digitalgallery.nypl.org/nypldigital/dgkeysearchresult.cfm?keyword=vassar> 〔infirmary は現在載っていないけれど、古い絵葉書や写真やメモラビリアが楽しい〕

     


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    新しい診療所の建設・続報、と古い診療所とウィーン万博の話など Swift Memorial Infirmary [Marginalia 余白に]

    今日もニューヨークタイムズを広げていたら、昨日の記事(「古い伝染病棟と新しい診療所 The Old Contagious Ward and the New Infirmary」参照)の続報が載っていました。――

    Vassar'sNewInfirmary(NewYorkTimes1900).jpg
    The New York Times (February 2, 1900), 2面.

    VASSAR'S NEW INFIRMARY.
              _______
    Mrs. Atwater Doubles Her Gift Because of Higher Cost of Building.

    POUGHKEEPSIE, Feb. 9―Mrs. Caroline Swift Atwater of Poughkeepsie, an alumna of the class of '77, has doubled her original gift of money to Vassar College for a new infirmary, the rise in the price of building materials since the gift was made last June necessitating a larger expenditure than was at first anticipated.
         Vassar was the first college in the world to establish an infirmary, having had one in the main dormitory since the founding of the college itself.  The growth of the college, however, and the erection of new dormitories has made desirable a separate infirmary building, which Mrs. Atwater's generosity has furnished.  This will be known as the Swift Memorial Infirmary, in honor of Mrs. Atwater's father, a member of Vassar's first Board of Trustees.

      ヴァッサーの新しい診療所
          ________
    建築費の高騰によりアトウォーター夫人、寄贈額を倍に

      ポーキプシー、2月9日.――ポーキプシー市のキャロライン・スウィフト・アトウォーター夫人は、昨年6月、ヴァッサー大学の新しい診療所のための資金の寄付を行なっていたが(夫人は77年の卒業生)、建材の価格の高騰により、当初見込まれていたより多額の出費が必要となったため、はじめの寄付金を倍増した。
      ヴァッサーは診療施設をもった世界初の大学であり、大学創設時より中央棟の寮内に診療所をもっていた。しかし、大学の拡充にともなういくつもの新しい寮の建造によって、独立した診療棟が望まれており、アトウォーター夫人の厚意により建設の運びとなった。新しい診療所は、ヴァッサーの最初の理事会のメンバーであった、アトウォーター夫人の父親を記念して、スウィフト記念診療所と名づけられる。

      2代目の学長の(といっても「塔 Tower」で書いたように、初代ジュウェットを次いで1865年の開学時に学長となった)レイモンドが、7年の大学運営を経て、1873年5月に、合衆国教育局の求めに応じて大学運営の報告書を提出したときに、学内の医療施設についてはつぎのように書かれていました。(この報告書は、さらに教育局長の要請により、その年のウィーン万国博覧会に、女性の教育についてのヴァッサーでの取り組みの報告のために本として出版されました。この万博のテーマ(モットー)は「文化と教育 Kultur und Erziehung [Culture and Education]」でした。)――

    The executive head is the President of the college, whose duty it is to watch over all its interests, and to see that all laws and regulations prescribed by competent authority are carried out.  He is specially charged with its discipline and with the moral and religious instruction of the students.  The Lady Principal is the chief executive aid of the President in the government of the college, and the immediate head of the college family.  She exercises a maternal supervision over the deportment, health, social connections, personal habits, and wants of the students.  She is assisted by nine of the lady teachers, each of whom has immediate charge of one of the college corridors; and in matters of health she has the counsel of the "Resident Physician," who is a regularly educated medical woman, and who has under her direction a well-appointed infirmary and a nurse. [Vassar College.  A College for Women, in Poughkeepsie, N.Y.: A Sketch of Its Foundation, Aims, Resources, and of the Development of Its Scheme of Instruction to the Present Time (New York: S. W. Green, 1873) 13-14 <http://www.archive.org/stream/vassarcollegeac01raymgoog#page/n22/mode/2up/search/inf>]

        この箇所を読んで初めて知ったのですが、学長とは別に "principal" 校長さんがいて、それは女性で、健康面も含めた学生の生活・習慣その他もろもろを「母親」のように監督するのでした(「"maternal supervision" を行使する」)。学長のほうは道徳教育・宗教教育の側面に責任をもつようにも書かれています。この the Lady Principal の下に9人の女教師がいてそれぞれ "corridor" を受け持ち、健康については医学をちゃんと学んだ "Resident Physician" ――というから住み込みですね――が校長の相談役というか協力者としていて、この女性の校医は看護婦とともに診療所を指揮するという体制です。

    /////////////////////////////////////

    Weltausstellung 1873, Vienna [at ExpoMuseum] <http://expomuseum.com/1873/> 〔ExpoMuseum <http://www.expomuseum.com/> のなかのウィーン万博1873のページ(別にヴァッサーのことは書いてありませんが〕

     


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    学生数の増加とスウィフト診療所・補足 Swift Infirmary, Swift Recovery, Swift Hall [Marginalia 余白に]

    補足。足が遅いといいますか、だらだら書いている感じがあるかもしれませんが、自分にとってブログのいいところは、呑み込んですぐ排出するみたいな、消化不良のままに勢いで書けること、あるいは(ときどきは)即興の思いつきを節足に、いや拙速に書きとめられること、なの、かもしれず、ご勘弁を願います。

      思えば1890年代から1900年代はじめというのは、学生数の増加によりヴァッサー大学に「寮」がつぎつぎと建てられた時期でした。すなわち、『あしながおじさん』の大学のモデルになっているヴァッサー女子大学にジーン・ウェブスターが1897年秋に入学したときには、ストロング・ハウス Strong House (1893)  とレイモンド・ハウス Raymond House (1897) という二つの寮がありましたが、さらに Lathrop House (1901) と Davison House (1902) が同じ意匠で建設され、4つの寮が二の字二の字の下駄のあと、という感じで、二つずつ向かい合って並ぶ。そして「塔」のモデルと想定される9階建てのTower をもった ジュウェット・ハウス Jewett House (1907) が、"North" として4つの寮に向かい合って北側に建てられます。

      当初から全寮制だったわけで、Main Building は教室と寮が一緒になっていたわけです。そして、そこに古い診療所もありました。1900年に卒業生が新しい独立した診療所の建物を寄贈することにしたのは、確かに要望が高かったからだと思われます。ヴァッサーの学生数の増加については、なぜかコーネル大学の同窓会報 Cornell Alvmni News, Vol. 3, No. 12 (1900年12月12日(水))に、記事として載っています <http://www.ecommons.cornell.edu/bitstream/1813/3165/12/003_12.pdf>。――

    CornellAlu[v]mniNews,Vol.3,No.12(December19,1900).jpg
    (クリックで拡大)

       左から2つ目のコラムの最後の段落の記事です。この記事は、この2年であらわになった"over-crowded condition" を解消すべく100人収容の新しい dormitory が建設される、という主旨ですが、名前は出てないけれど Lathrop House (1901) の建設のことをいってると思われます。で、最後の一文――"Strong Hall, which was built in 1892, and Raymond House, which was erected four years later, have always been taxed to their full capacity, as well as the accomodations in the main building, and at the present time there are 135 students living in lodging houses outside the college grounds." (1892年に建てられたストロング・ホールと、その4年後に建造されたレイモンド・ハウスは、メイン・ビルディング内の施設同様につねに満杯の使用状況で、現在、135人の学生がキャンパスの外の宿泊所に暮らしている。)

      135引く100は35で足りません。そして案の定、というか、つづく1902年にDavison House が建てられることになります。

      135人が住んでいた "lodging houses" というのがどんなものだったのか興味深いのですが、わからんです(ヴァッサー大学にとってはあまり誇れる歴史ではないかもしれず)。

      (ついでながら、左のコラム下の5行の短い記事は、カリフォルニア大学学長の Benjamin Ide Wheeler が『アトランティック・マンスリー』誌に "Art in Language" という論文を書いた、というものですが、ベンジャミン・ホイーラー (1854-1927) はマサチューセッツ出身でブラウン大学を卒業した文献学者で、1899年から1919年までバークレーのカリフォルニア大学の学長だった人です。おそらくコーネル大学の教授もしていたので載っているのかもしれません。彼を記念した Wheeler Hall にUCバークレーの英文科も入っています。なつかしい。)

      ☆ ☆ ☆

      スウィフト診療所について、ヴァッサーの同窓会報 Vassar, the Alumnae/i Quarterly, Vol. 105, Issue 3 (Summer 2009) の "Hidden Histories" 特集の記事に書かれていました <http://vq.vassar.edu/issue/summer_2009/article/fs_hidden_histories_summer09>。

      それによると、"Swift Hall" というのは現在の呼称で、1941年に史学科が移ってきたのだそうです(これは、補足すると、新しいBaldwin Infirmary が前の年に建てられたからです)。もとは Swift Infirmary でしたが、昔の学生の呼び名としては "Swift Recovery" だったそう。「早い回復(=スグナオル)」ということばのシャレです。 

    Infirmary, Vassar College, Poughkeepsie, NY.jpg
    推定20世紀初頭のSwift Infirmary, image via epodunk.com <http://www.epodunk.com/cgi-bin/genInfo.php?locIndex=1476>

    SwiftHall.jpg
    推定21世紀初頭の Swift Hall, image via Vassar, the Alumnae/i Quarterly <http://vq.vassar.edu/issue/summer_2009/article/fs_hidden_histories_summer09>

      こうして100年の時間をはさんだ2枚の絵を眺めていると、そのあいだに数知れぬひとびとがさまよっているさまが、1枚の絵を見る以上に、浮かぶようです。


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    腫れた扁桃腺 Swollen Tonsils [Daddy-Long-Legs]

    新しい診療所にジュディーが入院するのは1年生3月末のことです。入院して5日後くらいの4月2日の手紙――

         I am a BEAST.
         Please forget about that dreadful letter I sent you last week―I was feeling terribly lonely and miserable and sore-throaty the night I wrote.  I didn't know it, but I was just coming down with tonsilitis and grippe and lots of things mixed.  I'm in the infirmary now, and have been here for six days; this is the first time they would let me sit up and have a pen and paper.  The head nurse is very bossy.  But I've been thinking about it all the time and I shan't get well until you forgive me.
         Here is a picture of the way I look, with a bandage tied around my head in rabbit's ears.
         Doesn't that arouse your sympathy?  I am having sublingual gland swelling.  And I've been studying physiology all the year without ever hearing of sublingual glands.  How futile a thing is education!
         I can't write anymore; I get sort of shaky when I sit up too long.  Please forgive me for being impertinent and ungrateful.  I was badly brought up.  (Penguin Classics 33-34)
    (わたしはケダモノよ。
    先週あなたに送ったあのおそろしい手紙のことはどうか忘れてください――書いた夜はすごくさびしくて情けなくてのどが痛かったんです。自分ではわからなかったのですけれど、扁桃腺炎 (tonsilitis) と流行性感冒 (grippe) とその他もろもろ一緒くたにかかりかけていたのでした。わたしはいま診療棟にいます。もう6日ここにいます。今日、初めて、体を起こしてペンをもつことを許されました。看護婦長はとてもいばりん坊です。でも、わたしはずっとあの手紙のことを考えていました。あなたが許してくださるまでわたしはよくならないでしょう。
      わたしがどんな感じか絵で示します。頭に包帯を巻いてウサギ耳のようなかっこうに結んでいます。
    Daddy-Long-Legs(Century,1912)68-69.jpg
      これを見て同情の念が起きないでしょうか? わたしは舌下腺が腫れています。1年じゅう生理学を教わりながら舌下腺なんて一度も聞いたことがありませんでした。教育とはなんと無益なものでしょう!
      もう書けません。あんまり長く体を起こしているとちょっと震えます。どうか失礼で恩知らずなことを申し上げたのをお赦しください。わたしは育ちが悪かったのです。

      先週の手紙というのは3月26日のもので、何を訊いても返事をくれず、自分に少しも関心を示さないあしながおじさんに対して、①いやな理事たちのなかでもたぶん最悪の理事である、②自分を教育する理由は義務からにすぎない、③<モノ Thing>にむかって手紙を書くのはじつに張り合いがない、④自分の手紙は読まずにゴミ箱に捨てているのだろう、と並べ立てて、ラテン語と幾何の再試は先週受けた、と報告する手紙です。
      感情的にダディーにぶつかって、そのあと悪いと反省して、「わたしは×××よ」、というのは、2年生4月11日の「わたしはムシ (Worm) よ。1000本足のムシよ。」というのと同型です。

    ☆  ☆  ☆

    さて、扁桃腺というのは、いちど扁桃腺炎にかかると、菌がなくならないためにくりかえし発症するので、昔から扁桃腺の切除ということが行なわれてきました。
      ジュディーの場合、手紙で判断する限りでは、4年生1月9日に再び扁桃腺炎にかかっていることが語られます。――

    I address you, Daddy, from a bed of pain.  For two days I've been laid up with swollen tonsils; I can just swallow hot milk, and that is all.  "What were your parents thinking of not to have those tonsils out when you were a baby" the doctor wished to know.  I'm sure I haven't an idea, but I doubt if they were thinking much about me.  (Penguin Classics 115-6)
    (ダディー、苦しい病床からお便りします。扁桃腺が腫れて二日間床についています。やっと温かいミルクがのめるだけで、ほかは何も呑みこめません。「こんな扁桃腺を赤ちゃんのときに取ってしまわなかったなんて、あなたの両親は何を考えていたのかしら」と医者は知りたがりました。わたしだってちっともわからないことは確かですけれど、親がわたしのことをあんまり考えていたとは思えません。)

      夕ご飯の時間です。扁桃腺切除手術の話(ジュディーがじゃなくて一般論)はまたつぎに。

    ///////////////////////////////////

    「扁桃」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E7%82%8E>

    "Tonsil" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Tonsil>

    「扁桃炎」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E7%82%8E>

    "Tonsillitis" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Tonsillitis>

    "Tonsillectomy" Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Tonsillectomy> 〔扁桃腺切除手術〕

    "Nation's ENT Surgeons Respond to President Obama's Press Briefing Remarks on Tonsilletomy Procedures" <http://www.businesswire.com/portal/site/google/?ndmViewId=news_view&newsId=20090723006009&newsLang=en> 〔BusinessWire, July 23, 2009〕


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    ジーン・ウェブスターの父親による『ハックルベリー・フィンの冒険』の出版 The Publication of _Adventures of Huckleberry Finn_ by Charles L. Webster [Marginalia 余白に]

    ジーン・ウェブスターが生まれた1876年にマーク・トウェイン Mark Twain [Samuel Clemens, 1835-1910] の『トム・ソーヤーの冒険 The Adventures of Tom Sawyer』が出版されたのは、ふたりの作家の(といってもウェブスターの側での)ささやかな奇縁として語られることがあります。『トム・ソーヤーの冒険』の出版社は、ハートフォードの Elisha Bliss, Jr. というひとの the American Publishing Company で、この出版社は1869年の出世作『赤毛布外遊記 The Innocents Abroad』からマーク・トウェインの作品を出版し、マーク・トウェイン自身も1868年からハートフォードに住んでブリス Jr. と交流していました。オリヴィア・ラングドンと結婚して2年くらいはニューヨーク州バッファローに住みますが、1874年にまたハートフォードに戻ってきて、ビリヤード・ルームのある豪邸を建てました。

      その後、A Tramp Abroad (1880) の出版は American Publishing Company ですが、The Prince and the Pauper (1882)、The Stolen White Elephant (1882)〔短篇小説ですが単行本として〕、Life on the Mississippi (1883) はボストンの James R. Osgood and Company から出版されました。

      そして1884年5月1日、もともと出版や印刷に興味をもっていたマーク・トウェイン自身が出資して出版社をつくります。マーク・トウェインは、1875年に姉パメラ (Pamela Ann Clemens Moffett, 1827-1904) の娘のアニー・モフェット (Annie E. Moffett, 1852-1950) と結婚して義理の甥となっていたチャールズ・ルーサー・ウェブスター (Charles Luther Webster, 1851-91) に出版社の仕事を任せ、Charles L. Webster and Company という名前の出版社がニューヨークで立ち上げられます。結婚翌年の7月に生まれていた幼いジーンを含むウェブスター一家はフレドニアからニューヨークに居を移しています。この出版社が最初に出した本が『ハックルベリー・フィンの冒険』(アメリカ版、1885年2月)でした。同じ1885年には南北戦争時の将軍U・S・グラントの自伝も出版し、数十万部を売るベストセラーとなり、一躍有名な出版社となります。

      しかし、その後、企画の失敗(法王の手記とかヘンリー・ウォード・ビーチャーの手記とか、11巻本のアメリカ文学アンソロジー――これ、見てみたいのですが・・・・・・――とか)や、ウェブスターの体調不良もあって、1888年、マーク・トウェインは Fred[erick] J. Hall というひとに首をすげかえます(でも出版社の名前は変えず)。チャールズ・ウェブスターは仕事の行き詰まりと精神的な疾患で苦しみ、薬の多量の服用により1891年4月28日、フレドニアの自宅で亡くなります(このときジーン・ウェブスターは14歳)。

      その後、出版社の経営は不振で、大金を投じたペイジ植字機の失敗もあり、マーク・トウェイン自身が破産してしまい、1894年にチャールズ・ウェブスター・アンド・カンパニー社は10年の短命でなくなります。マーク・トウェインは、ハーパー社とか、あるいはまたアメリカン・パブリッシング・カンパニーとかから作品を出版するようになりました。

    ☆ ☆ ☆

    で、『ハックルベリー・フィンの冒険』のことを書こうと思っていたのですが、だいぶ前置きが長くなったので(でもつい、ジーン・ウェブスターのことを考えていたら書かざるを得なかったのです)、細部はつぎにまわして、でも少しだけ書いておきたいと思います。

      ウィキペディア(英語)の "Adventures of Huckleberry Finn" にも載っているのは、つぎのおもて表紙です。――

    200px-Huckleberrycover.jpg

      これの背表紙の下のほうには "CHARLES L. WEBSTER & CO." と金字でしるされています。――

    HuckleberryFinn-1st-bookcover.jpg
    Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885)

      さて、ネットサーフィンしていたら、デラウェア大学図書館の特別収蔵品のページに、青色の表紙の初版が載っていました。――

    HuckleberryFinn-1stEd(1884).jpg
    image via "FOUR DECADES OF LIBRARY SUPPORT: Literature" University of Delaware Library, Special Collections Department <http://www.lib.udel.edu/ud/spec/exhibits/udla/lit.htm>

       そして、説明は以下のようです。――

    Mark Twain, 1835-1910.
    Adventures of Huckleberry Finn: (Tom Sawyer's Comrade).... London: Chatto & Windus, 1884.

    Perhaps the best-known work of American literature, Huckleberry Finn has also been a source of great controversy over the years. The first edition of Twain's novel remains one of the great high spots of American book collecting.

      『ハックルベリー・フィンの冒険』についての有名な話として、1884年に、誤って定冠詞 "The" を付してイギリス版を出版(上にあるようにロンドンのチャトー・アンド・ウィンダス社)、翌1895年に "The" をとってアメリカ版を出版ということがあります。アメリカ版の出版が遅れたのについては、E. W. Kemble の挿絵の1枚にワイセツなイタズラが加えられて、それを修正するのに時間がかかった、という事情があったとされていますが、ともかく、正しいタイトルは定冠詞のないもので、それは、リクツとしては、『トム・ソーヤーの冒険』のほうは冒険が完結しているが、『ハック』のほうは冒険が完結せず、まだこれからも続く、そのことと定冠詞の有無はかかわっているのだ、ということです(このリクツを最初に言った批評家はフィリップ・ヤングでした)。

      いまはインターネットの時代で、わたしのような貧乏人にも初版テクストが電子的に入手可能です。で、Internet Archive を漁ると、英米両方の初版テクストが見つかりました(あー、しあわせ♪)。

    TheAdventuresofHuckleberryFinn(Chatto&Windus,1884).jpg
    Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (London: Chatto & Windus, 1884)  xvi+438, 32 (publisher's  catalogue) pp. <http://www.archive.org/stream/adventureshuckl00unkngoog#page/n9/mode/2up2up>

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    Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885) 366pp. <http://www.archive.org/stream/adventureshuckle00twaiiala#page/n9/mode/2up>

      イギリス版のほうの電子テクスト (Google ブックス) は、残念ながらケンブルの挿絵を削除して見られないようにしています。版権の関係なのでしょうか。そして表紙もカヴァーしていません。

      両方をパラパラめくっていると、まず本文第一ページの最初の挿絵にタイトルが含まれているのに気づきます。先にアメリカ版――

    AdventuresofHuckleberryFinn(American1st)17.jpg
    Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885), p. 17 


      そしてイギリス版――
    [The]AdventuresofHuckleberryFinn(Chatto,1884)xvi,1.jpg
    Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (London: Chatto and Windus, 1884), pp. xvi, 1

      イギリス版は、目次やイラストのリストの部分をローマ数字でページを振ってあり、本文のはじまりが第1ページです。アメリカ版は本文の始まりは第17ページ。両者はページ番号のみならず組版が異なっていることがわかります。それにしても、ケンブルの挿絵に組み込まれていた冒頭第一語の "You" まで切り取っているのはケシカランと思います("don't" で始まっている)。ムカデ図をはじめ著者のイラストを排除したグーテンベルクの『あしながおじさん』よりもひどいです。

      しかし、げげげっ。アメリカ版を見ると、"The Adventures of Huckleberry Finn" と定冠詞が入っているではありませんか(イギリス版の電子化ファイルが、たまたま "The" を切り取っているのはご愛嬌としても)。さらに、ページを繰ると、偶数ページの上部にタイトルが印刷されつづけています。

    TheAdventuresofHuckleberryFinn(Chatto&Windus,1884)p2.jpg
    Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (London: Chatto and Windus, 1884), p. 2

         イギリス版に "The" が一貫するのはうなずけるとしても、アメリカ版――

    AdventuresofHuckleberryFinn(US1st)18-19.jpg
    Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885), pp. 18-19

      左側18ページの上のマージンです。 THE ADVENTURES OF HUCKLEBERRY FINN. と印刷されています。これは、最後のページまで同じです。

    AdventuresofHuckleberryFinn,US1st,p.366.jpg
    Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885), p. 366

      そうすると、イギリス版とアメリカ版のタイトルの違いといわれるものは、まさにタイトルページだけなのかしら。

      Google Books では見られないイギリス版の表紙を捜し求めました。それは、上のデラウェア大学図書館所蔵の青い表紙の本の背表紙の下の字が、どうも Chatto & Windus と書いてあるようには見えなかったということもあります。――

    3265-01.jpg
    Mark Twain, The Adventures of Huckleberry Finn (London: Chatto & Windus, 1884)

      赤でした。そして表紙のデザインは異なっていて、ちゃんと(w) "The" が入っていました。

        ということで、少しだけ謎をはらませながらつづく~♪

    ///////////////////////////////////////

    "Mark Twain, Publisher" ["Webster Company Publishing History"] <http://www.twainquotes.com/websterco.html> 〔www.twainquotes.com 内。チャールズ・L・ウェブスター社が1885年から1894年の10年間に出版した本のリスト〕

    "A Rare Interview with Charles Webster" ["Charles Webster - short biography and interview"] <http://www.twainquotes.com/interviews/WebsterInterview.html> 〔同上〕

    飯塚英一 「マーク・トウェイン最後の旅行記『赤道に沿って』の出版をめぐる経緯」 宇都宮大学『外国文学』 54 (March 2005): 1-13.  pdf. 宇都宮大学学術情報レポジトリ <http://uuair.lib.utsunomiya-u.ac.jp/dspace/bitstream/10241/357/1/KJ00004174273.pdf> 〔出版や経営や出資や投機についていろいろと書かれています。チャールズ・ウェブスターについては「厄介者」というふうに、まあマーク・トウェインの側に気持ちを投影して、書かれています。〕


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    本の部分の英語名称メモ Names of Parts of a Book [φ(..)メモメモ]

    直前の記事「ジーン・ウェブスターの父親による『ハックルベリー・フィンの冒険』の出版 The Publication of _Adventures of Huckleberry Finn_ by Charles L. Webster」で、表紙のことを「カヴァー」と書いて、待てよ、日本語でカバーというと表紙ではなくてジャケットだな、と書き改めました。かねて、古書の記述を読んだりして興味をおぼえるところありましたので、なかば自分のメモとして書き留めておこうと思います。

      日本の本、ならびに日本語の名称については、大阪府立中之島図書館の「「本」の部分の名称」というページ <http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osaka/book_bui.html#orikaeshi> がたいへんわかりやすく有益だと何年も前から思っておりました。まことに勝手ながら、そこと自主的コラボして英語の名称を記します。

    bookbui1.gifbookbui2.gif
    images via 大阪府立中之島図書館「「本」の部分の名称」<http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osaka/book_bui.html#orikaeshi>

      なんとなく、手近にあった古い洋書を撮影してみました。――

    Patty-cover.jpg

      まず、この赤い全面は cover です。日本語で「カバー」と呼ぶ、本を覆う紙は dust jacket あるいは wrapper です(dust cover ということはありますけど、基本 cover は表紙です)。cover を分けると、おもて表紙は front cover、うら表紙は back cover、そして背(表紙)は・・・・・・spine というのがふつうみたいw。spine というのは背骨です。これは、本の本体(front matter――= title page(s) (タイトルページ)と Table of Contents (目次)と list of illustrations (図版一覧)と Preface (序)や Foreword (前書き)と Dedication (献辞)と Acknowledgement (謝辞)と Frontispiece(口絵)などからなる――を除いた本文)を "body" と呼ぶこととかかわるような気がします。backbone とも呼ばれます。

      先走って front matter を並べてしまってわかりにくくなったので、そのへんも自家製画像で説明します。――

    Patty-frontispiece&title.jpg

      左が frontispiece (口絵)です。もちろん口絵のない本もあります。
      右が狭義の title page です。広義の title page(s) は、このページの裏側の、コピーライトなどの情報を記したページも含めた場合です。本の書名(When Patty Went to College)、著者名( [By] Jean Webster) 、+この本の場合挿絵画家名(With Illustrations / by C. D. Williams)、出版社の都市名(New York)、出版社名(The Century Co.)、出版年(1903)が書かれています。

      つづいて、タイトルページの裏のコピーライトのページ(下の見開きの左側)――

    Patty-copyright.jpg

      見にくいですけど、左側は次のように印刷されています。――

         Copyright, 1903, by
          THE CENTURY Co.
     Copyright, 1901, 1902, by TRUTH Co.
                _________

          Published March, 1903

       コピーライトが二種類あるのは、ジーン・ウェブスターのこの短編集が、過去に刊行した作品を含んでいるからです。そして、スペースがあって、下に、

           THE DEVINNE PRESS

       これは、出版社ではなくて、印刷所の情報です。要するに、日本の本の「奥付」に相当する情報が、ここで与えられています。初版初刷でない場合に、第何刷か(Number of printings)が書かれるのもここです。現在のアメリカの本だと、ISBN や Library of Congress number も書かれるはずです。

      右側のページは献辞 (Dedication) です(もちろんない場合もあります)。

      先に先に進むと、つぎのつぎのページは目次 (Contents)――

    Patty-contents.jpg

      目次は最初の短篇 "Peters the Susceptible" に第1ページの番号をふっています。しかし、この目次の次の紙(leaf) は図版のリスト (List of Illustrations) が書かれていて、それは目次には載っていません。

    Patty-listofillustrations.jpg

      この右側のページをめくると本文が始まります。

      さて、ここでちょっと前に戻って、中之島図書館の図の10~12番の箇所をみてみます。明確な説明が必要でしょうから、文章も引用します。――

    10.見返し(みかえし)

     狭義には、表表紙(おもてびょうし)の裏側をいいます。一般的には表表紙・裏表紙の内側に貼り付けて、本の中身と表紙をつなぎ合わせている「見返し紙」のことです。表紙と本の中身を張りつける「力紙」(ちからがみ)と、「遊び紙(遊び)」があります。

    11.扉(とびら)

     見返しの次にあり、書名、著者名、発行所名などを記してある部分。2ページにわったて[わたって]いるものを「見開き扉」といいます。上質紙を用いて本文と区別しているものもあります。

    12.標題紙(ひょうだいし)

     本文の前にあってタイトルなどが書いてある紙。洋書では、表[ママ]題紙に書誌データの重要な部分を記してありますが、日本では多くが「奥付」に記載しています。
     ちなみに、標題紙に書かれている標題を「標題紙標題」といいます。

      まず、「見返し」に相当する英語はなんというかというと、ピタッと1語のことばはどうやら存在せず、おもて表紙の見返しは "the reverse of the front cover" あるいは "the inside of the front cover"、うら表紙の見返しは "the reverse [inside] of the back cover" という説明的な呼び方しか、少なくとも一般的には、ないみたいです。 endpaper (あるいは endsheet あるいは endleaf)でよいと思います。見返しのうちで表紙のうちがわに張った紙(日本では「力紙」とか「効き紙」とよぶ)は pastedown ということばがあります。「遊び紙」(表紙の裏側というか内側に貼られないほうの紙)は flyleaf です。pastedown があるのはペーパーバック paperback or softcover ではなくてハードカヴァー hardcover (この「カヴァー」が「表紙」です)の本の場合です。

      ついでながら leaf というのは、「葉っぱ」ですけれど、ページの裏表をもつ紙の一葉です。現代の、とくにペーパーバックの本は、なんども開いたり閉じたりしていると糊だけでくっつけてあるためにバラバラになってしまうことがままありますが、昔の本は印刷した全紙を四つに折ったり八つに折ったりして糸で綴じて、それをひとつの集まりとして重ねていってつくりましたから、leaf が1枚の紙ということはほぼ考えられません――裁断してあれば1枚の紙は 2 leaves, 4 pagesになるし、古い本で、ペーパーナイフで開いていくような本だと紙は折られた状態で綴じられているわけです。で、そういう、見かけ上何枚ものleaf をつくっている紙のグループを signature と呼びます。でもほとんどふつうのひとは耳にしません、この意味では。日本でいう「折丁」です。わかりにくい日本語だったので、もういちど言い直すと、1枚の印刷紙を折りたたんだのが signature です。それを重ねて1冊の本ができます。gathering とも quire ともいう、と辞書を見ると書いてありますけれど、同義語はともかく、なんでsignature というかというと、折丁の一番上のページの欄外に番号とか記号を「しるし」として書いて製本の便宜にしたことからだと思うのです。そのABCとか123みたいな折記号のことも signature といいます。(前の記事でいうと、イギリス初版のほうの『ハックルベリー・フィンの冒険』の本文第1ページの右下に B とある、それが折記号としてのsignature です(made の下)。

      つぎに、日本だと「扉」と呼ばれる部分、つまり口絵の前の「タイトル」のページは、英語(の本)だと half title [half-title] と呼ばれます。『パティー』の原書の場合だと、イラストの最初のパティーの口絵 (frontispiece) の1枚前の leaf にこの half title がしるされています。――

    Patty-half-title.jpg

      基本、タイトルだけです。それも、略したタイトルである場合やタイトルページのタイトルとは異なる場合も多いのです。それで、しばしば洋書の場合に、正式なタイトルはどれか、ということで混乱が起きることがあります。カヴァーの標題と、ハーフタイトルのページの標題と、タイトルページの標題が全部ちがうということがありますから。しかし、著者名と一緒に記されたタイトルページの標題(図書館の説明文にある「標題紙標題」)が正式なタイトルなのだということになっています(自信99パーセント)。ちなみに『ハックルベリー・フィンの冒険』の場合、イギリス版初版のハーフタイトルは "Huckleberry Finn" だけであり、アメリカ版初版のハーフタイトルは "Adventures of Huckleberry Finn" となっていました。

      ここまでをまとめますと、まず cover (front cover) があり、pastedown, flyleaf があり、half title があり、frontispiece があり、title page があり、copyright page があり、(場合によって Dedication があり、)(場合によってここに Preface があることもあり、)(場合によってここに Acknowledgment(s) があることもあり、)  table of contents があり、(場合によって list of illustrations があり、)(場合によってここに Preface や Foreword があり、)(場合によってここに Acknowledgment(s) があり) ――以上が "front matter"――本体 "the body of the book" に進みます。front matter というのはたぶん日本でいう「前付」に相当するのだと思います。

      本体についてはあんまりくわしく説明することはないです。進行でいうと、最初に Introduction があったり、本文が終わって最後に End notes や Bibliography や Glossary や Index がついていたりする、ということです。そして、見開きページで眺めると、上の図で「柱」と呼ばれる部分は、英語だとページ上部のものが header(s) 、下部のものが footer(s) で、あわせて running heads と呼ぶこともあります。だいたいは左側の header は本のタイトルを反復し、右側の header は章のタイトルを反復します。そして、 header とは別に、page number(s) がページのtop や bottom やあるいはデザインによったら side に印されます(下が多い)。

      あとは・・・・・・中之島図書館の図にある「つめかけ」というのは大きな辞典・事典類で施される、図書館図の3の「小口」(英語で fore-edge)の紙を球状(?)にえぐってページをめくりやすくしたものですけれど、英語だと thumb index です。紙で仕切ったものもあって、それは tab と呼びます。

      あとは・・・・・・

      以上、メモ終わります。

    /////////////////////////////////

    「「本」の部分の名称」 <http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/osaka/book_bui.html#orikaeshi> 〔大阪府立中之島図書館〕

    「本の豆知識-製本用語解説-」 <http://www.nippoh-bb.co.jp/topics/index3.html> 〔日宝綜合製本株式会社〕


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    マーク・トウェインの八角形をいれた家 Octagonal Shapes in the Mark Twain House [思いつき whimsical fancy]

    まことに個人的なことですけれど、このブログの実質的に最初の記事は「八角形の家 (1) Octagon Houses」(2009-07-02) というのでした。なんで一番はじめに書いたかというと、前のブログの「カリフォルニア時間」で疑似科学について書いたときに骨相学がらみで出てきたファウラー兄弟の兄のほうのオーソン・ファウラー Orson Fowler, 1809-87 が八角形の建築を推奨したことと、『あしながおじさん』の2年生10月17日の手紙で、ジュディーが級友たちと八角形の家の部屋割りについて議論しているくだりがあったからだったと思います。

    What shape are the rooms in an octagon house?  Some of the girls insist that they're square; but I think they'd have to be shaped like a piece of pie.  Don't you? (Penguin Classics 53)
    (八角形の家のなかの部屋はどういう形か? 女の子たちのなかには四角形だと主張する者もいるけれど、自分はカットしたパイの一切れのような形にならねばならないと思います。そう思いません?)

    でも (2) は書かない(書けないともいう)ままだったのですけれど、このあいだハートフォードのマーク・トウェインの家(現在 the Mark Twain House and Museum と呼ばれる)を見ていてちょっとドキドキしました。1874 年から1891年までマーク・トウェインはこのコネティカットの田舎の家に住んで、代表作の数々を執筆しました。
      はじめ見たのはウィキペディアの画像でした――

    250px-House_of_Mark_Twain.jpg
    The Mark Twain House, image via "Mark Twain House," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Twain_House>

      右のアズマヤみたいなのは Ombra と、どうやらスペイン語で、呼ばれているみたいですが、側面はやっぱり八角形です。

    MarkTwainHouse.jpg
    image via "Mark Twain House," Guide to Stick Style Architecture, University of Massachusettes Dart <http://www.lib.umassd.edu/digicoll/stickarch/stickarch_index.html?building=TwainM>

       ウィキペディアは "Victorian Gothic" とだけ呼んでいますが、この記事は "Stick Style" の例として挙げているようです。よくわかりませんけれど、 Stick というのは、英語のウィキペディアだと "Stick-Eastlake" という記事で説明している様式です(Stick とも Victorian Stick とも Eastlake style ともいうと書かれている)。ウィキペディアの記事を読んでも不完全でよくわかりませんがCharles Eastlake, 1836-1906 というのはヴィクトリア朝の建築のほうのゴシック・リヴァイヴァルの立役者で、A History of the Gothic Revival を書いたイギリス人です。

      このマーク・トウェインの家を設計したのは、エドワード・ポッター Edward Tuckerman Potter, 1831-1904 という建築家で、ニューヨークのひと。3.5エーカー(14000平米)の土地に建てられた家は、しかし比較的小さくて、というか、それほど馬鹿でかくもなくて、1881年の増改築後の部屋数で19くらい(たぶんバスルームも入れて)。

      家の見取り図を Mark Twain's House (Hartford, CT: The Mark Twain Memorial, 1995) から転載している論文がWEB にありましたので、それを引きます。この和栗了というひとの「家のドアを開けないで」という文章は、家の様子をくわしく説明していて興味深いです(八角形の話はぜんぜんありませんけど)。

    clip_image002.gif
    image via 「マーク・トウェイン覚書」 <http://book.geocities.jp/ryowaguri2/twain/twainandhome.html>

      八角形があちこちにちりばめられているように思うのは気のせいでしょうか。ま、八角形の家というのではないですけれどね。コネティカットというと、ジュディーが毎年のように執筆と農業に従事しに出かけてゆくロック・ウィロー農場 Lock Willow Farm があるのがコネティカットのどこか不明の場所でした。  

    ///////////////////////////////////
    Alice Leccese Powers, "Mark Twain's Money Demons Still Haunt His Connecticut Home"  Hartford Archives | Literary Travel <http://www.travelbeat.net/literary/archives/hartford/> 〔2008.6.3.  運営が資金的に困難という記事。でも下のHPを見るとがんばっているようです〕

    The Mark Twain House & Museum <http://www.marktwainhouse.org/> 〔マーク・トウェインの家=博物館のホームページ〕

    The Mark Twain House (TwainHouse) on Twitter <http://twitter.com/TwainHouse> 〔トウィッターやってます。あ、ツイッターですか〕

    "A Guide to the Edward T. Potter Architectural Drawings" <http://web.uflib.ufl.edu/spec/manuscript/guides/potter.htm> 〔George A. Smathers Libraries, University of Florida〕


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    チャールズ・L・ウェブスター社の『ハックルベリー・フィンの冒険』のちらしから本の装丁とかのはなしなど Flyers for Adventures of Huckleberry Finn [Marginalia 余白に]

    ジーン・ウェブスターの父親による『ハックルベリー・フィンの冒険』の出版 The Publication of _Adventures of Huckleberry Finn_ by Charles L. Webster 」のつづきで、「本の部分の英語名称メモ Names of Parts of a Book」の姉妹篇です。  

      Wikimedia Commons の画像には、Broken Sphere というヒトによって Adventures of Huckleberry Finn 関係のチラシが4種あがっていて(<http://commons.wikimedia.org/wiki/User:BrokenSphere/Artwork/Books>)、それはいずれもヴァージニア大学の "Huck Flyers" ("West Coast Promotional Flyers")というページ(<http://etext.lib.virginia.edu/railton/huckfinn/hfoccidenthp.html>)のリンク先からとられているようです。記事本体は西海岸で販売を請け負った、サンフランシスコのサター・ストリートにあった the Occidental Publishing Company が作成したチラシや封筒についてのものですけれど、チラシの文章は最後のパラグラフ以外はチャールズ・ウェブスターがつくったチラシを踏襲していること("But the flyer's text, which is identical on both versions, was taken directly from the sales prospectus that Charles L. Webster & Co. created in 1884 (as you can see here and here). ")が説明されています。flyer フライアーというのはアメリカ英語で、「チラシ」、「ビラ」 (bill) のことです。

      American Publishing Company もそうでしたが、マーク・トウェイン自身がつくった Charles L. Webster and Company も予約販売制の出版社でした。それで、エージェントがチラシをもって購買者を募ってあるく、あるいはチラシを郵送する、さらに、その前に(あるいはそれと同時に)エージェントを募集するということが行なわれたのです。ここにあがっているのは、購読者向けのものと、購読者を探すエージェント向けのもの2種x2です。

    HuckFlier-hfinnad2.jpg

       タイトルに "The" がついている件はここでは無視しますw。

      下から10行目くらいに "SOLD ONLY BY SUBSCRIPTION" (予約購読のみ)と書かれて、そのあとに3種類の装丁が並んでいます。――

    Price in fine cloth binding, plain edges, - - - - $2.75
    Leather Library Style, sprinkled edges, - - - - - 3.25
    Harf Morocco, marbled edges, -  -  -  -  -  -  4.25

      最初が布装(クロス装丁)。「エッジ」が「プレーン」というのは、「小口」(「「本」の部分の名称」参照)(複数であることからわかるように「天」と「地」と「前小口」の三方のふち」が「無地」(無彩色・無模様)、紙の色のままということです。これが2.75ドル。

      ふたつめのは Leather (Library Style) と読んでいいと思うのですが、革装(ライブラリー仕様)。"Library Style" の起源について無知ですので、なんとなく方便としてアマゾンの "Bindings" の説明を含むページをリンクしておきます―― <http://www.amazon.com/gp/help/customer/display.html?ie=UTF8&nodeId=468558>。「エッジ」(小口)が「スプリンクルド」というのは、「パラ(掛け)」、霧染め模様にすることです。これが3.25ドル。

      みっつめの、Half Morocco は半モロッコ革装(略 hf. mor.)。モロッコ革というのはヤギの皮をタンニン剤でなめした良質の皮革です。半 (half) は half binidng で、クロスの half binding(半クロス装 half cloth) もあれば革の half binding (半革装 half leather)もあります。表紙の全部を覆っている「総クロス(装) full cloth」 や「総革(装) full leather」が「丸装」「完表紙」で、 half は半分です。4分の1装 quarter binding(=背装) とか4分の3装 three-quarter binding というのもあります。marbled edges はマーブル(大理石)模様が小口にしつらえられているもの(「小口マーブル)。4.25ドル。

      そうして、その下に、布装の色について書かれています――"NOTE―The cloth bindings are in blue and olive green.  Green will be sent unless otherwise ordered." (注――クロス装はブルーとオリーヴ・グリーン。特に指定がなければグリーンを送付。)

      これで、青と緑の2種類の表紙の謎が解けました。

      しかし。この青と緑のクロス装、そして革装のあいだでも、テクストに異同があるらしいのです。それは、図書館に行ってカリフォルニア大学の全集版とか新しいハックの版とか見れば、たぶん諸テクストの校合(きょうごう collation)を行なって書いてあることかもしれませんが、いまは装丁との関係で、アリゾナ州スコッツデイルの古本屋さん、Charles Parkhurst Rarebooks のウェブサイトのマーク・トウェインのページを参照しておきたいです―― <http://parkhurstrarebooks.com/twainpg.htm>。

      ここには2010年2月末日現在、総革装(9000ドル也)、ブルー・クロス(8500ドル)、グリーン・クロス(4800ドル)、そしてよくわからないけど写真を見ると背革に装丁しなおしたのかもしれないグリーン・クロス(2000ドル)の4冊のアメリカ初版が売られています。ABAA に属している古書店らしく、テクストの異同について記述があります。

      ブルーのクロス装のものについて、これだけ1884年とする根拠は示されていませんが、特徴を列挙しています。―― "with the following early issue points; a) Illustration captioned "Him and another man: is erroneously listed as being on page 88. b). page 57, eleventh line from bottom reads "with the was"; c). There is no signature mark on page 161. d). Title leaf is tipped in, with copyright notice dated 1884 e.) Page 155 has final 5 lacking. f). Page 143, with "L" missing fron "COL." at top of illustration and "b" in "body" in line 7 is broken. g.) Page 28 is tipped-in."   "issue" というのは、「刷」の意味だと思います。

      そして、オリーヴ・グリーンのほうを、あとの「刷」としています――" A lovely copy with all the second state issue points, half-title, frontispiece, photo-gravure bust by Gerhardt, 366pp., 174 illustrations, bound in green pictorial cloth lettered and decorated in black and gilt, spine lettered in gilt and black, peach tinted endpapers. A superb copy, nearly fine with just a few spots of rubbing to joints and spine ends, no owner's names, plates or otherwise, internally very fresh, with the following issue points. p. [9]: "...Huck Decides to Leave..." is listed as part of the heading for Chapter VI (changed from "Decided". p. [13]: "Him and another Man" properly listed as at p. 87. p. 57, line 23: "with the saw" (corrected from "with the was"). frontispiece portrait: "Photo-Gravure" plate. title page: conjugate p. 143: "Col." at upper corner of plate includes the "l." p. 155: final "5" of page number in a different font (type slippage and replacement) p. 161: signature mark "11" missing. p. 283: corrected plate bound in."

      "state" というのは版 (edition) は同じだけれども、出版までのあいだに訂正などがなされたりするときの「異刷」というやつです。このグリーンのほうが "second state issue" であって、ブルーのほうにあった誤りが訂正されている(典型的には57 ページの saw / was )。革装のものも "was" と直っておらず、ブルー・クロスと似た状態みたい――"The issue points are as follows: A). Illustrations captioned "Him and another man" is listed as being on p. 88. B). Eleventh line from bottom of page 57 reads, "with the was". C) No signature mark on page 161. D). Title leaf is integral with copyright notice dated 1884. E). Page 155 with final 5 absent. F). Page 143 with "1" missing from "Col." at top of illustration and "b" in "body" in line 7 is broken. G). Page 283 is integral in and has the curved fly which is known only in prospectuses and a few leather bound copies according to BAL." 〔この英語、とくに最後の文、つながりがヘンな感じ〕。

      おもしろいです。まあ、1884年(つまりイギリス(&カナダ)版初版が出た年)に出るはずだったのが、アクシデントにより1885年2月に先延ばしになったという経緯とかかわるのかもしれませんが、直してない瑕疵があるテクストを最初から売っていいもんでしょうか。それはそれですか。

      ところで、このあいだ「ジーン・ウェブスターの父親による『ハックルベリー・フィンの冒険』の出版 The Publication of _Adventures of Huckleberry Finn_ by Charles L. Webster」でリンクしたアメリカ初版――Mark Twain, Adventures of Huckleberry Finn (New York: Charles L. Webster, 1885) 366pp. <http://www.archive.org/stream/adventureshuckle00twaiiala#page/n9/mode/2up>――は、青いクロス装のテクストだとわかりました。そして、誰の手によるものかわかりませんが、見返しに書き込みがあったのでした。――

    WS000457.JPG

        こういう細かいのって、イラつくところもあるのですが、本好き(書痴・書狂など)としてはワクワクするところもあります。


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