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赤毛のサリー The Red-Haired Sally [Daddy-Long-Legs]

♪ マハリークマハーリタヤンバラヤンヤンヤン  

ジョン・スミス(ジャーヴィス・ペンドルトン)の意向がどれだけ背後で働いたのかわかりませんけれど、ジュディーが1年目に同じフロアでつきあった学生は、4年生ひとりと、ジュディーと同じ1年生でスミスの姪のジュリア・ペンドルトンとサリー・マクブライド(このふたりが相部屋)でした。――

My room is up in a tower that used to be the contagious ward before they built the new infirmary.  There are three other girls on the same floor of the tower―a Senior who wears spectacles and is always asking us please to be a little more quiet, and two Freshmen named Sallie McBride and Julia Rutledge Pendleton.  Sallie has red hair and a turned-up nose and is quite friendly; Julia comes from one of the first families in New York and hasn't noticed me yet.  They room together and the Senior and I have singles.   (Century 25-26 / Penguin Classics 14)
(わたしの部屋はかつて新しい診療棟が建てられる前に伝染病棟だった塔の高いところにあります。塔の同じフロアにあと3人女の子がいます。メガネをかけてていつもわたしたちにどうかもう少し静かにしてちょうだいって言っている4年生と、あとは1年生がふたりで、名前はサリー・マクブライドとジュリア・ラトレッジ・ペンドルトンといいます。サリーは赤毛で鼻がすこし上を向いていますがとてもフレンドリーです。ジュリアはニューヨークの一流の名家のお嬢さんで、まだわたしのことなど目に入っていないようです。ふたりが相部屋で、4年生とわたしは個室です。)

  サリーが赤毛であること、そして、姓が McBride であることは、彼女がアイリッシュだということをかなり明瞭に示しています。

  エドガー・アラン・ポー (1809-49) の両親だってアイルランド人だったわけで、いちがいには言えませんが、アイルランド系移民の大きな波は、19世紀中葉の「ポテト飢饉」のときに2波でやってきました。アイリッシュの移民の貧困と、そこからの成功の夢と、宗教的にはカトリックであることによる主流プロテスタントとの異質性などは、作家のフィッツジェラルドなどの背景にある問題です。

  が、そういうむつかしい話はおいといて、『あしながおじさん』のなかで、サリー・マクブライドの家系が語られるところを探しても見つからないようです。

  でも、続篇の『続あしながおじさん Dear Enemy』のけっこう初めのほうの、サリー自身の手紙に血統が書かれています。――

Dear Gordon:
     Are you still insulted because I wouldn't take your advice?  Don't you know that a reddish-haired person of Irish forbears, with a dash of Scotch, can't be driven, but must be gently led?  (Penguin Classics 142)
(ゴードン――
あなたの助言を聞かなかったことでまだ機嫌悪いの? アイルランドにちょっぴりスコットランドの血のはいった先祖を持つ赤い髪の人間は、むりに駆り立てることはできず、やさしく導かねばならんということを知らないの?)

 


よく遊びよく学べ All Work and No Play [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』1年生10月の金曜日の手紙の一節で、ジュディーは、大学は勉強もたいへんだけど、遊びもたいへんともらし、孤児院の生活が与えてくれなかったもの(教室で露呈する無知については10月10日の手紙の冒頭で書いていたのですが、おそらくもっと家庭生活に密着したもの)を嘆いています。――

You know, Daddy, it isn't the work that is going to be hard in college.  It's the play.  Half the time I don't know what the girls are talking about; their jokes seem to relate to a past that every one but me has shared.  I'm a foreigner in the world and I don't understand the language.  It's a miserable feeling.  I've had it all my life.  (Penguin Classics 19)
(ねえ、ダディー。大学でハードなのは学業〔学び〕 (work) ではないです。遊び (play) がハードです。女の子たちのおしゃべりのうち半分しかわたしにはわかりません。ジョークが、わたしを除くみんなが共有する過去に関係するみたいです。わたしはこの世界の異邦人でことばが理解できません。みじめな気持ちです。これまでの生涯、ずっとそのみじめな気持ちを味わってきました。)

  ジュディーが work と play を対比的に使っているのは、「よく学びよく遊べ」というような格言が下敷きになっているのだろうと思われます。「よく学びよく遊べ」は "Work hard, play hard." かというと(そうだとピッタリでありがたいのだが)、辞書的に、コトワザの日英代替として挙がっているのは "All work and no play (makes Jack a dull boy)." です。Jack は男の子の代表的な名前(女の Jill に対して)。字義通りには、「勉強ばかりして遊ばないと退屈でつまらない子になる」です。

  少なくともふつうのコトワザ (proverbs) の辞典には "Work hard, play hard." は見つからないのですが、WEB で検索すると "Work hard and play hard." とともに多数ヒットします。あと、その前に "You live only once." というのが添えられているのも多いです。"You Live Only Once. Work Hard, Play Hard." でググると、日本語ページで約27500ウェブ全体で約27600 で、日本起源なのかしら? との疑念がもたげましたが、英語のWikipedia には "Work hard, play hard." が項目として立っていました <http://en.wikipedia.org/wiki/Work_hard,_play_hard>。

Work hard, play hard is a corporate cultural philosophy that hard work and long hours should be balanced with intense leisure activities (including, for instance sports, parties, and outings). Its manifestations are commonly seen in sales/marketing departments and are often tied to performance targets. Many top consulting firms have adopted the philosophy and regularly advertise it as corporate policy to prospective employees.[1]  

  "corporate cultural philosophy" というのはよくわからんですが、企業の掲げる哲学として、よく働き、かつ、じゅうぶん余暇を楽しんで遊ぶべし、という、いわゆる「ライフ・ワーク・バランス」のありかたを説く人生訓がこの "Work hard, play hard" に集約されているということのようです。

  どこに由来するのか、いつごろからある表現なのか、未詳です。

  で、work は「学ぶ」よりも「働く」の意味で使われていることになるでしょうが、この表現は、しかし、職場でだけでなく、「学ぶ」の意味で、学生間でも使われることは、プリンストン大学の学内新聞の記事で確認できます(結局 work の意味の幅がもともと広いわけですが)。――

    "'Work hard, play hard': The ubiquitous motto is much more than a Princeton platitude - The Daily Princetonian" <http://www.dailyprincetonian.com/2006/05/19/15708/> 〔プリンストン大学新聞の1年生向けの記事 2006.5.19〕


ジェルーシャと近づく (1)――ジェルーシャ・アボットと知り合いになるはじめての機会  The First Chance I've Ever Had to Get Acquainted with Jerusha Abbott [Daddy-Long-Legs]

いったん『あしながおじさん』の4年生の卒業間際まで行きながら、自分でも思い出せないくらい巧妙に(?)1年生に戻ってきてしまって、逆に、やれやれ、終わりはどこに、という気がしないでもない年度末です。

  1年生10月1日付の一連の手紙の最初の手紙(要するに本来の10月1日の手紙)の終わりのところ。――

     My room is on the northwest corner with two windows and a view.  After you've lived in a ward for eighteen years with twenty room-mates, it is restful to be alone.  This is the first chance I've ever had to get acquainted with Jerusha Abbott.  I think I'm going to like her.
      Do you think you are?
(わたしの部屋は北西の角にあって、ふたつの窓とよい眺めのある部屋です。20人もの〔とりあえず英語的には "twenty"  はしばしばアバウトに「たくさんの」「多数の」の意味〕ルームメートと18年間を同じ施設〔ward の洒落については、2月17日の「古い伝染病棟と新しい診療所 The Old Contagious Ward and the New Infirmary」を参照〕)の中で暮らしたあとでは、ひとりきりになるのは休まる感じです。これは、これまででわたしがジェルーシャ・アボットと知り合いになる〔ちかづく〕 (to get acquainted) はじめての機会です。彼女を好きになれるのではないかと思っています。
  あなたもそう思いますか?)

  一般論的にいうと、ひとりぐらしを始めることで、家族と離れ「個」としての自分と初めて向き合う、ということは大学1年生や、就職1年生などに多くあることかもしれません(えーと、ジュディーの場合、英語的というか、こないだの「彼と彼女、彼(女) He or She, S(he)」の流れでいうと、名前経由とはいえ、とりあえず「自分」を「彼女」と呼ぶような、自分ともうひとりの自分がいる意識)。だけど、もちろんジュディーが特殊なのは、家族をもたず、親きょうだいを知らずに、孤児院で生きてきたことです。それはひとりぐらしではなかったけれど、孤児院生活によって、親や家族ということを仮に抜きにしても(って、実はそれ――自分が帰属する (belong to) 場所――が一番大きい問題なのですが)、普通の女の子が享受するものを自分は与えられなかったというコンプレックスを彼女は強く持っています(もちろんそのコンプレックスは、大学が始まってすぐに高まったはずのものです)。ひとに語れない過去として、ほとんどトラウマみたいなものとして、物語の最後(の間際)までジュディーの想念を支配するのが孤児院出自です。

  ジェルーシャ・アボットという女の子が、自らジュディーというニックネーム (pet name) を公にし、その後の手紙でもジュディーをたいがいは書くようになるのは、このつぎの10月10日付の手紙の「2信」目の水曜日の手紙からです。

  そして、9月24日の、最初の手紙では、まだ大学は始まっていないけれど(リペット先生には学業の報告を求められていたわけです)と言って、つぎのように "to get acquainted" という同じフレーズを出していたのでした。――

College is the biggest, most bewildering place―I get lost whenver I leave my room.  I will write you  a descrption later when I'm feeling less muddled; also I will tell you about my lessons.  Classes don't begin until Monday morning, and this is Saturday night.  But I wanted to write a letter first just go get acquianted.  (Penguinc Classics 14)
(大学はまじ大きくて、とってもマゴマゴしちゃうところです――部屋を出たとたんに迷子になります。あとでもうちょっと頭がはっきりしたときに説明を書くつもりです。それから学課についてもそのときに。授業は月曜の午前まで始まりません。いまは土曜の夜です。でも、ただお近づきに〔知り合いに〕なるため手紙をさしあげたいと思いました。)

  とりあえず、この時点で確認されるのは、ジョン・スミス(といういかにも亀井いや仮名の人物)への接近 (to get acquainted) が、ジェルーシャ・アボット(この名前の由来についてはこの時点では確認できないけれど、親からもらった名前ではないということはうかがわれ、そして、すぐに明かされるように、リペットが適当につなぎ合わせて作った名前なのでした)への接近 (to get acquainted) とパラレルというか重ね合わせられている可能性です。要するにどっちもアイデンティティー不明のキャラがふたりそろったミステリーという感じ(ちょっと言い過ぎか)。

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image: Jean Webster, Daddy Long-Legs: A Comedy in Four Acts [French's Standard Library Edition] (New York: Samuel French, 1922[?]) <http://www.archive.org/details/cu31924021717933>

  つづく~♪

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つづき――

ジェルーシャと近づく (2) To Get Acquainted with Jerusha Abbott (2)

ジェルーシャと近づく (3) To Get Acquainted with Jerusha Abbott (3)


ジェルーシャと近づく (2) To Get Acquainted with Jerusha Abbott (2) [Daddy-Long-Legs]

ジェルーシャ・アボットが、自分の名前がつけられた経緯を語ると同時に、新たな名前ジュディーを提示するのは、1年生10月中旬の水曜日の手紙(10月10日付の手紙の第2信)です。つまり9月24日、10月1日につづく3通目です。――

     I've changed my name.
     I'm still "Jerusha" in the catalogue, but I'm "Judy" every place else.  It's sort of too bad, isn't it, to have to give yourself the only pet name you ever had?  I didn't quite make up the Judy though.  That's what Freddie Perkins used to call me before he could talk plain.
     I wish Mrs. Lippett would use a little more ingenuity about choosing babies' names.  She gets the last names out of the telephone book―you'll find Abbott on the first page―and she picks the Christian names up anywhere; she got Jerusha from a tombstone.  I've always hated it; but I rather like Judy.  It's such a silly name.  It belongs to the kind of girl I'm not―a sweet little blue-eyed thing, petted and spoiled by all the family, who romps her way through life without any cares.  Wouldn't it be nice to be like that?  Whatever faults I may have, no one can ever accuse me of having been spoiled by my family!  But it's sort of fun to pretend I've been.  In the future please always address me as Judy.  (Penguin Classics 17-18)
(わたし名前を変えました。
  カタログ〔便覧――「女子大のカタログ Vassar College Catalogue」参照〕ではまだ「ジェルーシャ」ですけれど、ほかはどこでも「ジュディー」です。はじめてもつことになったニックネームを自分でつけなければならないなんてちょっとほんと情けないです。でも、ジュディーというのはまるっきりわたしがこしらえたわけでもないのです。フレディー・パーキンズ〔この男の子は「ブルーな水曜日」の最後で、院長のもとを辞す理由としてフレディー・パーキンズのズボンのつぎをあてねばと、名前があがっていた孤児です〕がまだはっきりしゃべれなかったころにわたしをこう呼んでいたのです。
  リペット先生がもう少し頭をはたらかして赤ん坊の名前を選んでくれたらいいのに、と思います。姓は電話帳からとるのです――アボットって最初のページにあるでしょ――そしてクリスチャンネームはどこからでもひろってきます。ジェルーシャは墓石からとってきたのです。わたしはそれがずっと嫌でした。でもジュディーならまあ好きです。おばかさんみたいな、かわいい名前。わたしみたいではない女の子の名前です――家族みんなからかわいがられ甘やかされ、一生なんの苦労も知らないでとんだりはねたりして暮らしていける、かわいい青い目の少女の名前。そんなふうになれたら楽しいでしょう? わたしにどんな欠点があるとしても、わたしが家族に甘やかされたなんて誰も非難することはできないわ〔家族がおらず甘やかされもしなかったのだから〕! でもそういうつもりになるのはとってもおもしろい。これからはいつもジュディーとお呼びください。)

  英語が、というかジュディーの心情がなかなか微妙に揺れていて、よくわからないところがあります(既訳もまちまちです)が、適当に訳しました。

  前の記事「ジェルーシャと近づく (1)――ジェルーシャ・アボットと知り合いになるはじめての機会  The First Chance I've Ever Had to Get Acquainted with Jerusha Abbott」で書いたように、ジュディーは、たぶんつい10日ほど前には、「これは、これまででわたしがジェルーシャ・アボットと知り合いになる〔ちかづく〕 (to get acquainted) はじめての機会です。彼女を好きになれるのではないかと思っています」、そして「あなたもそう〔=彼女(ジェルーシャ・アボット)を好きになれると〕思いますか?」と語っていたのです。

  この短期間での変化はなんなのでしょうか? アイデンティティーの転換なのでしょうか?

  と、思案しながらつづく~♪

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1919年のサイレント
Daddy-Little-Legs (邦題『孤児の生涯』)におけるリペット院長の命名法


ジェルーシャと近づく (3) To Get Acquainted with Jerusha Abbott (3) [Daddy-Long-Legs]

ジェルーシャ・アボットと向かい合い、知り合う初めての機会だと書いてから2週間もたたずに、ジュディーは、名前を自ら変えます。

  これは、ジュディーという別人格を pretend することによって、逆に客観的にジェルーシャ・アボットを見つめることができるのだ、とリクツをこねることも可能かもしれません。が、とりあえず、表向きには、大学の新しい人間関係の中で、孤児院出自についての嫌悪と戸惑いが急激に高まって、過去の自分を消し去りたい(逆に言えば新しい自分をつくりたい)というずっと切羽詰った願望がもたげたゆえだと理解されます。

  実際、リペット院長の名づけに対する批判の手紙(水曜日)のすぐつぎの手紙(金曜日)――いずれも10月10日付のミケランジェロの話に始まる一連の手紙(通算3通目)――は、記事「よく遊びよく学べ All Work and No Play」で書いたように「学び」よりも「遊び」の時間のほうが自分の過去が他の女の子たちと共有しなかったものがあらわになって辛いということを書くだけでなく、孤児の図を描いて、孤児院批判をするわけです。

Friday.

     What do you think, Daddy?  The English instructor said that my last paper shows an unusual amount of originality.  She did, truly.  Those were her words.  It doesn't seem possible, does it, considering the eighteen years of training that I've had?  The aim of the John Grier Home (as you doubtless know and heartily approve of) is to turn the ninety-seven orphans into ninety-seven twins.
     The unusual artistic ability which I exhibit was developed at an early age through

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Daddy-Long-Legs (New York: Century, 1912), p. 35

drawing chalk pictures of Mrs. Lippett on the woodshed door.
     I hope that I don't hurt your feelings when I criticize the home of my youth? But you have the upper hand, you know, for if I become too impertinent, you can always stop payment of your cheques. That isn't a very polite thing to say―but you can't expect me to have any manners; a foundling asylum isn't a young ladies' finishing school.
     You know, Daddy, it isn't the work that is going to be hard in college. It's the play.  Half the time I don't know what the girls are talking about; their jokes seem to relate to a past that every one but me has shared.  I'm a foreigner in the world and I don't understand the language.  It's a miserable feeling. I've had it all my life.  At the high school the girls would stand in groups and just look at me. I was queer and different and everybody knew it.  I could feel "John Grier Home" written on my face.  And then a few charitable ones would make a point of coming up and saying something polite.  I hated every one of them―the charitable ones most of all.
     Nobody here knows that I was brought up in an asylum.  I told Sallie McBride that my mother and father were dead, and that a kind old gentleman was sending me to college which is entirely true so far as it goes.  I don't want you to think I am a coward, but I do want to be like the other girls, and that Dreadful Home looming over my childhood is the one great big difference.  If I can turn my back on that and shut out the remembrance, I think, I might be just as desirable as any other girl.  I don't believe there's any real, underneath difference, do you?
     Anyway, Sallie McBride likes me!
                                     Yours ever,
                                          JUDY ABBOTT        
                                         (NÉE JERUSHA.)
(どう思われますか。――国語の先生が、わたしのこのあいだの提出物を、非凡な独創性があふれていると言ってくれました。そう言ったのです、ほんとうに。その女の先生のことばなんです。18年間わたしが受けた訓練を思うと、ほとんどありえないことばではないでしょうか。ジョン・グリアー・ホームの目的は――あなたはもちろんご存知で、そのとおりと思われるでしょうが――97人の孤児を、そっくりの97つ子みたいにすることなのですから。
  わたしが開示する非凡な芸術的才能は、幼少期に物置の扉にチョークでミセス・リペットの肖像を描いたことから発達したものです。
  わたしが若いころの自分の家を批判することであなたが感情を傷つけませんように願っています。でも、あなたは支配権をおもちで、なぜって、もしもわたしがあんまり生意気になったら、いつでも小切手の支払いを止められるのです。こんなことをいうのはあんまり上品ではありませんね――でもわたしが行儀なるものをもっているなどと期待することはできないのです。捨て子をひろって育てる孤児院はヤング・レディーのフィニッシイング・スクールとは違いますから。
  ねえ、ダディー。大学でしんどいのは学びではないです。遊びがしんどいです。女の子たちのおしゃべりのうち半分しかわたしにはわかりません。ジョークが、わたしを除くみんなが共有する過去に関係するみたいです。わたしはこの世界の異邦人で、みんなのことばが理解できません。みじめな気持ちです。これまでの生涯、ずっとそのみじめな気持ちを味わってきました。高校では、女の子たちがいくつものグループになって立ったまま、ただわたしを見るのです。わたしはミョウチクリンで違っていてみんなそのことを知っていた。わたしは「ジョン・グリアー・ホーム」と顔に書かれているのが感じられました。それから、少数の慈善的な子たちがきまってやってきて何か上品なことを言うのです。わたし誰も彼も嫌でしかたがなかった――なかでも慈善家の連中が。
  ここではわたしが孤児院で育てられたことは誰も知りません。わたしはサリー・マクブライドに、母も父も死んで、そしてある親切な老紳士のおかげで大学へ来ているって、話しました。それはそれで真実ですから。あなたに卑怯者と思われたくありませんが、わたしは他の女の子たちのようになりたいと願っており、わたしの子供時代をおおっているあのオソロシイホームがみんなとの最大の違いなんです。それに背を向けて思い出さえ締め出すことができたなら、わたしは、他の女の子と同様に少しも申し分がないのです。なにか、本当の、内的な違いなどないのだと思います。ちがいますか。
  ともあれ、サリー・マクブライドはわたしを好いてくれています!
  あなたの ジュディー・アボット 
        (元ジェルーシャ) )

  
  このジュディーの心情は胸を打つものがあります。孤児ゆえの頑なさ(とジュディー自身がひとに思われることを承知の上で出している頑なさだからカッコつきの「孤児ゆえの頑なさ」ないし自意識的頑なさ)も含めて、読者の感情移入を誘うところがあります。

  だから、ちょっとドライに考えると、物語の構成上、ジェルーシャ・アボットという孤児はジェルーシャ自身にあっさりと好きになられては困るので、自己否定・過去否定的にジュディーという架空の人格がつくられる必要があったと言えるかもしれません。ジェルーシャがジェルーシャから遠ざかるためにです。「ジュディーの幸福論――3月5日の手紙(2) Judy on Happiness: The Letter of March Fifth (2)」で書いたように、ジュディーの孤児意識はこの物語のエンジンみたいなものですから、結末までジュディーのキャラクターを支配します。

  とりあえずは4年生の卒業間際には、敢えて「理事さま」宛にして、ジョン・グリアー・ホームへの愛を語ります。――

     To-morrow is the first Wednesday in the month―a weary day for the John Grier Home.  How relieved they'll be when five o'clock comes and you pat them on the head and take yourselves off!  Did you (individually) ever pat me on the head Daddy?  I don't believe so―my memory seems to be concerned only with fat Trustees.
     Give the Home my love, please―my truly love.  I have quite a feeling of tenderness for it as I look back through a haze of four years.  When I first came to college I felt quite resentful because I'd been robbed of the normal kind of childhood that the other girls had had; but now, I don't feel that way in the least.  I regard it as a very unusual adventure.  It gives me a sort of vantage point from which to stand aside and look at life.  Emerging full grown, I get a perspective on the world, that other people who have been brought up in the thick of things, entirely lack.  (Penguin Classics, pp. 118-119: emphasis added)
(3月5日/理事さま
  明日は月の第一水曜日――ジョン・グリアー・ホームでは憂鬱な日です。5時になって理事さんたちがみんなの頭をなでて立ち去ったときに皆はどれほどほっとすることでしょう! 理事さん(ご自身)は、私の頭をなでてくださったことがありましたか、おじさま? わたしにはそうは思えませんけれど――記憶にあるのはみな太った理事さんたちばかりのようなのです。
  〈ホーム〉へ私の愛をお伝えいただければと存じます――本気の愛です。4年間の霞をとおしてふりかえると、ホームに対するほんとうに優しい気持ちを感じます。大学へきたてのころわたしはほんとに腹をたてていました。なぜってほかの女の子たちにあった正常な子供時代が自分には奪われていたのですから。でもいまは、少しもそんなふうには考えていません。とても非凡な冒険とみなしています。脇に立って人生を眺めるという利点をわたしに与えてくれています。十分に成長してから世に出てきたおかげで、豊かなモノに囲まれて育てられた他のひとたちにはまったく欠けている、世界を見とおす視座があります。) 〔「よろしくと伝えて――ジュディーの幸福論 (2) Give Kindest Regards to: Judy on Happiness (2)」参照〕

  ジョン・グリアー・ホームを愛するということは、ジョン・グリアー・ホーム出のジェルーシャ・アボットを愛するということと重なっています。こうして、ジュディーがジェルーシャ・アボットという人間を見つめなおして、オノレのアイデンティティーを模索する過程が、大学の4年間であった、ということもできそうです。そして、言うまでもなく、ジュディーの幸福論だけでなく、ジュディーの文学論もその過程に密接に織り合わされています。ジュディーが最終的に選んだ題材はジョン・グリアー・ホームでした(4年生4月4日の手紙)し、「日々起こるささやかなこまごまとしたこと the tiny little things that happened every day」 について書くことを尊ぶ立場を選択するわけです(「ジューディーとジャーヴィー――ジュディーと冒険(3) Judy and Jervie: The Adventurous Judy (3)」)。

  それでも、卒業後に、ジャーヴィス・ペンドルトンの求婚を断り、彼を苦しめる結果となる原因は、孤児の出自をジャーヴィスに打ち明けることができなかったからです(ジャーヴィス/ダディー・ロングレッグズはジュディーのアイデンティティーを知っているのに)。結末までジュディーを支配する意識と言ったのはそういう意味です。

  ところで、だから、月並みな言い方をすれば、「自分探し」の物語だと言ってもいいのですけれど、アイデンティティーがジュディー/ジェルーシャ・アボット以上に分裂し、謎めいており、読者の「探求」の対象になっているのがジョン・スミス/ダディー・ロング・レッグズ/ジャーヴィス・ペンドルトンという男です。

  ジャーヴィスは自らジョン・スミスという仮面をかぶって、ジュディーという孤児の生涯を方向づけようとします。しかし、ジュディーから与えられた「ダディー・ロング・レッグズ」の意味を実は知らないままです(読者は知っています)。ジュリアのおじという仮面でジュディーに接近し、そのことでダディー・ロングレッグズ・スミスとしてジュディーに相談を受けるというコッケイな役回りを演じざるを得なくなります。しかも、「ダディー」のほうは、ジュディーから、家族願望や父親願望が投影されるだけでなく、つるぴかはげ丸くんではないかと疑われたり、じいさんだとずっと思われたりしています(このアイデンティティーは、読者は少なくとも途中までは知りません)。

  だから、物語は、ジュディーのアイデンティティー探求と、(おおむねは読者による)ダディー・ロングレッグズのアイデンティティー探求をめぐって織りあわされています。そして、面白いのは、前者の「自分探し」の表の物語の裏側で、作者が、後者のミステリー仕立てのプロットを仕掛けていることではないでしょうか。  
  


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