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デートと万年カレンダー――ジュディーの誕生日  Dates and the Perpetual Calendar: Judy's Birthday [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』のジュディーとおじさんの年齢の開きに、たとえば画家マリ・バシュキルツェフとジュール・バスチアン=ルパージュ Jules Batien-Lepage, 1848-1884 の、あるいはオフィーリアとハムレットの歳の差がダブっているものかどうか怪しんでいる今日この頃です。のつづき。のつづきです。

  記事「おじさんの齢」で、(1) ジャーヴィス・ペンドルトンは11歳頃にロック・ウィローで夏を静養したが(Penguin Classics, p. 49=1年生の7月か8月)、それからおよそ25年くらい経っているらしいこと(p. 57=2年生の1月)、(2) ジャーヴィス・ペンドルトンはジュディーより14年前に生まれているらしいこと("he has fourteen years' start of me" [p. 126=4年卒業後の10月3日])を確認しました。

  さらに記事「ジュディーの年齢 Judy's Age」で、①作品冒頭の三人称の導入枠物語「ブルーな水曜日」で、孤児で最年長のジュディーは17年の人生を送っていること、②同じく「ブルーな水曜日」でリペット院長のことばとして、通常は16歳まで孤児院は世話をするが、ジュディーの場合は、14歳で(孤児院内の?)学校をおえてからさらに村の高校に進学させ、その結果、たいていの子より2年長く面倒をみたこと、③大学3年生の11月9日の手紙で、前の週に21歳になったことが書かれていること、を確認しました。

  その記事のおわりのところでは、誕生日の範囲をせばめるべく考えてきます、ぴゅ~っ、ということでしたが、昨日電車の中でパラパラ見ていたら、作品中おそらく一箇所だけ日付と曜日が特定できる箇所に昔チェックを入れていたのがわかりました。それで、遠回りのようですし、果たして収束するのかも定かではないのですが、忘れないうちに書き留め、推測を広げておきます。

  ペンギン・クラシックス版だと118ページ、4年生の3月5日の手紙です。この手紙の冒頭で、明日が3月最初の水曜日ということで、孤児院ジョン・グリアー・ホームを思い起こすわけです。それで、出だしも「おじさん」宛てではなくて「理事(評議員)さま」宛てです――

                                                                March Fifth

Dear Mr. Trustee,

     To-morrow is the first Wednesday in the month―a weary day for the John Grier Home.  How relieved they'll be when five o'clock comes and you pat them on the head and take yourselves off!  Did you (individually) ever pat me on the head Daddy?  I don't believe so―my memory seems to be concerned only with fat Trustees.
     Give the Home my love, please―my truly love.  I have quite a feeling of tenderness for it as I look back through a haze of four years.  When I first came to college I felt quite resentful because I'd been robbed of the normal kind of childhood that the other girls had had; but now, I don't feel that way in the least.  I regard it as a very unusual adventure.  It gives me a sort of vantage point from which to stand aside and look at life.  Emerging full grown, I get a perspective on the world, that other people who have been brought up in the thick of things, entirely lack.  (Penguin Classics, pp. 118-119)
(3月5日/理事さま
  明日は月の第一水曜日――ジョン・グリアー・ホームでは憂鬱な日です。5時になって理事さんたちがみんなの頭をなでて立ち去ったときに皆はどれほどほっとすることでしょう! 理事さん(ご自身)は、私の頭をなでてくださったことがありましたか、おじさま? 私にはそうは思えませんけれど――記憶にあるのはみな太った理事さんたちばかりのようなのです。
  ホームへ私の愛をお伝えいただければと存じます――本気の愛です。4年間の霞をとおして振り返ると、ホームに対するほんとうに優しい気持ちを感じます。大学へきたてのころ私はほんとに腹をたてていました。なぜってほかの女の子たちにあった正常な子供時代が自分には奪われていたのですから。でもいまは、少しもそんなふうには考えていません。とてもふつうじゃない冒険とみなしています。脇に立って人生を眺めるという利点を私に与えてくれています。十分に成長してから世に出てきたおかげで、豊かなモノに囲まれて育てられた他のひとたちにはまったく欠けている、世界を見とおす視座があります。)

  卒業を数ヶ月後に控えて、4年間の時の流れを読者に思い起こさせると同時に、作品冒頭の「ブルーな水曜日」のエピソードを思い出させてしみじみさせる一節なのですけれど、ここで、作家は月日と曜日を組み合わせて出してしまったわけです。「しまった」というのは、他にそういう箇所がないようだからです。

   ということで、3月5日の「明日」は水曜日。よって3月6日は水曜日です。

   唐突ですが、自分がときどき使う「日付」関係のサイトは次のようなものです。――


  (1) 
The Perfect Perpetual Calendar 〔「あの日は何曜日? 10000年カレンダー」 の英語版。たとえば作品を読んでいて日付と曜日があわせて出てきたとき・・・・・・〕
  (2)  
The Infoplease Perpetual Calendar 〔"The first year recorded by this calendar is 1583, the first full year of the Gregorian calendar. 1753 was the first full year in which the U.S. (then a British colony) began using the Gregorian calendar." (Note)〕
  (3) 
どらこむ お誕生日カレンダー
  (4) 知誕 〔雑学庫[知泉]雑学と誕生日 の中〕

   ふと、思いついたように、ジーン・ウェブスターが卒業した1901年を調べてみます(この年のカレンダーは1878年、1889年、1895年、1907年、1918年、1929年、1935年、1946年、1957年などと同一です)――(1) <http://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/calendar/F.htm>。

SundayMondayTuesdayWednesdayThursdayFridaySaturday
__________12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31

   ビンゴ♪   1901年の3月5日は火曜日、翌6日は月の第一水曜日でした。

  そこで1年前の3年生の11月を確認します。

1900年11月の暦

SunMonTueWedThu  Fri   Sat 
____________1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30

 

    ジュディーが、「私先週21になりました」と書いた11月9日は、作者ジーン・ウェブスターがカレンダーに忠実であったならば、日曜日でした。そうすると、単純には11月2日から8日まで。そして昨日や一昨日を「先週」とはふつうは呼ばないでしょうから(わかりませんが、日本人の感覚ではそうでしょう)、11月2日~6日までのあいだにしぼられるのではないでしょうか。

  それにしても、孤児であったジュディーのほんとうの誕生日というのは霧のなかにあったのかもしれませんが。

  


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1919――『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (4) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]

東健而による Daddy-Long-Legs の邦訳が、1929(昭和4)年の改造社版世界大衆文学全集第34巻『世界滑稽名作集』以前に出ていたかどうか、ずっと気になっておったのですが、国会図書館やWorldCat の情報に見つからず、ふつうに検索してもWEBでは詳しい証拠や情報が出てこないので、どうしたものやら、と思って、つまるところ忘れておりました。

  が、1919年のサイレント映画 Daddy-Long-Legs を見た――YouTube とかだと12回――ついでに、それの邦題『孤児の生涯』で出てくる日本語のデータ「孤児の生涯とは」を読んで、どうやら、ほんとうに存在していたように思われてきました。――

ピックフォード嬢がアートクラフト社からファースト・ナショナル社へ移ってからの第一回作品で、監督は最近独立作品を発表して居るマーシャル・ニーラン氏で、劇中氏は珍らしくもジムミー〔=ジミー〕の役を演じて居る。対手はマーロン・ハミルトン氏で、人情味豊かな喜劇である。原作はジーン・ウェブスター女史で、既に「蚊とんぼスミス」として邦譯されて居る。 〔KadokawaMarketing/キネマ旬報社 weblio辞書 「孤児の生涯とは」内の「解説」 <http://www.weblio.jp/content/%E5%AD%A4%E5%85%90%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF>〕

   いつの文章か典拠がないので不明なのですが、日本語のトーンがとても古く、かつ同時代的なのです。


Daddy-Long-Legs 1/12 (1919) posted by "cinemillenium2" on February 2, 2009

    それで、カリフォルニア時間ブログで、フォスターとかでよくやったように古本屋コンソーシアムの検索をかけてみました。日本語のはあんまり使ったことがなかったのでしたが。そしたら出てきました。―― 「日本の古本屋:書誌検索結果一覧」<http://www.kosho.or.jp/public/book/basicresult.do;jsessionid=C9531C3F2FB4010B863C898FE5F65688> 。

   ウヱブスター著 東健而訳 秋草弥三郎装 『滑稽小説蚊とんぼスミス』 大9、函

  やっぱり古本の世界はすごいです。国立国会図書館にもない本もあるし。残念ながらあとは「見返欠・函少傷」といったコンディションの記述だけで、初版が前年の大正8年すなわち1919年であったのか、出版社は玄文社なのか(出版社くらい書いてよ、と実はいいたいいです)、判型はどうか、総ページは何ページで序文や解説はどうなっているのかなどの詳しい情報は書かれていません。36,750円もするのでモーリちゃんの父には手が出ませんが、神保町の古本屋なので、ヒマができたら寄って見てみようと思います。

  あと、秋草弥三郎というのは挿絵画家で、児童書とか婦人雑誌にも挿絵を書くようになった人だと思いますが、大正8年というと芸大を出てすぐぐらいの歳だったのではないかと思われ。どういうかたちでかかわったか気になります(装丁だけかもしれないのですが)。10年後の改造社版ではウェブスター原著の挿絵が使われていました。


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ジュディーの年齢 (2) Judy's Age [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』のジュディーとおじさんの年齢の開きに、たとえば画家マリ・バシュキルツェフとジュール・バスチアン=ルパージュ Jules Batien-Lepage, 1848-1884 の、あるいはオフィーリアとハムレットの歳の差がダブっているものかどうか怪しんでいる今日この頃です。のつづき。のつづきです。のまたつづき。

  記事「デートと万年カレンダー――ジュディーの誕生日  Dates and the Perpetual Calendar: Judy's Birthday」で、ジュディーの誕生日が11月初旬であることを確認した上で、ふたたびジュディーの年齢について考えてみます。

8月29日の記事「ジュディーの年齢 Judy's Age」で引用した、「ブルーな水曜日」におけるリペット院長のコトバを考えてみます――

"Usually, as you know, the children are not kept after they are sixteen, but an exception was made in your case.  You had finished our school at fourteen, and having done so well in your studies―not always, I must say, in your conduct―it was determined to let you go on in the village high school.  Now you are finishing that, and of course the asylum cannot be responsible any longer for your support.  As it is, you have had two more years more than most." 
     Mrs. Lippett overlooked the fact that Jerusha had worked hard for her board during those two years [. . .].
  (p. 8: 強調付加)
(「ふつうはね、あなたも知ってるように、子供たちは16になったあとはここには置けないのですが、あなたの場合には特例だったのですよ。あなたはここの学校を14歳でおえて、なかなかがんばったからね、お勉強を――お行儀については必ずしもそうだったとは言えませんけれど――それで村のハイスクールにあげてやることに決定しました。で、いまあなたはそこをおえようとしています。もちろん孤児院はこれ以上あなたを援助する責任はありません。実際、あなたはたいていの子より2年間長くいたのだしね。」
  リペット夫人は、ジェルーシャがこの2年間、自分の食費のかわりに働いてきた事実を忘れていた・・・・・・。)

    冒頭の「ブルーな水曜日」の季節は冬だという感じがします。ジェルーシャが窓から眺める景色は「霜で凍った芝生 frozen lawn」 (p. 5) が伸びていますし、「裸の木々 bare trees」 (p. 6) が生えていますし、ジュディーが想像しようとするのは理事たちが「陽気な自分の家の炉辺へ to their own cheerful firesides」 (p. 6) 帰ってゆくさまです。

    リペット院長が言うように、いま村の高校をおえようとしているのですから、春先のまだ寒い時期なのではないか、と推測されます。

  4年生の3月5日の手紙において、翌日が3月最初の水曜日ということで、孤児院ジョン・グリアー・ホームを思い起こし、4年間を振り返るわけで、この冒頭の第一水曜日も3月であった、というのが、物語の構成的にはサイクルを描いて美しいと思われます。

   リペット院長がその後にあれこれ説明するなかで、「夏いっぱいまではここにとどまります You are to remain here through the summer」 (p. 9) というコトバがあります。ここから確認されるのは、大学入学はこの話のあった数ヶ月後の秋だということ(あたりまえですが、念のため)。

   そうすると、大学に入学した9月にジュディーはいくつだったのか?

   17歳。でも、それだと数があわないのです。

   リペットの最初の引用からわかるのは、16歳で追い出されずにプラス2年間を享受した、のだから18歳くらい。いま17歳で、夏前に高校を卒業し、大学に入学して11月に18歳になる、のでしょうか。

   でもそれだと3年生の11月の誕生日に21歳になることができません〔3年生の11月9日の手紙で、前の週に21になったと書かれています――"I was twenty-one last week" (p. 93) 〕。

   3年生からさかのぼって書けば、

   3年の11月に21歳→3年の10月は20歳→2年の11月に20歳→2年の10月は19歳→1年の11月に19歳→1年の10月は18歳。

   そうすると村の高校の最後の年の11月に18歳になってしまっていることになります。つまり「ブルーな水曜日」の時期(推定冬から春先)には18歳ですから、17年間の人生で云々みたいな作品冒頭の記述があわなくなる(再度引用します)――

Poor, eager, adventurous little Jerusha, in all her seventeen years, had never stepped inside an ordinary house; she could not picture the daily routine of those other human beings who carried on their lives undiscommoded by orphans. (p. 6: 強調付加)
(かわいそうな、ひたむきな、冒険心に富んだ小さなジェルーシャは、17年間の人生で、一度もふつうの家に足を踏み入れたことがなかった。孤児たちに悩まされない生活を送っている外の人々の日常生活を思い描くことなどできなかった。)

  満で18になっている人間について、17年の人生とは絶対言わないですよね。

  それでも、このときに18になっているほうが、大学との関係でも、リペットの説明とも、合致するのではないでしょうか。第一に11月生まれが事実だとすれば、大学に入る時点で18歳というのが妥当と思われます(一般に9月1日がアメリカの学校の入学年齢の境になるはずですが・・・・・・もちろん8月末から始まる学校もありますから差異はあるでしょうけれど)。第二に、リペットが、16歳で切れるはずのところをすでに 2年間余分に "you have had two more years" いると言っているのは、18歳数ヶ月――11月から数ヶ月――の時点でのコトバとしてのほうが17歳数ヶ月のコトバとしてよりは妥当性があるわけです。それと、14歳で学校を出て、それから村の高校に入って、1年生の11月に15歳、3年生の11月に18歳、そして、いま18歳だと計算あいますし。 う、あっていませんでした。やっぱり3年の11月に17歳ですか・・・・・・。

  17年の人生という部分はジュディーのエッセー「ブルーな水曜日」からの引用であるというフィクショナルな設定としてあって、そのあとトミー・ディロンが「リペット先生が呼んでるよ~♪」と歌う部分とのあいだに切れ目があるのでしょうか(これはなかなか無理のある仮説)。

  あと可能性として早い時点で考えたのは、「ブルーな水曜日」の出来事の時期が17歳の終わりごろ、たとえば10月末で、もう少しで18歳、という頃だったのではないか、という推定です。しかし、その推測は、第一にリペットのセリフ(いま高校をおえようとしている、など)と、季節の描写とのいささかのズレた感じ(でもニューヨークの田舎はすでに10月には霜が降りて木々も葉を落としてしまっているのでしょうか・・・・・・ニューヨークの秋)によって、ちょっと不自然な気がしています。あ゛ー、でもこれがアタリなのかもしれません。

////////////////////////////////

    上の赤字とともに追記。6-3-3ではなくて5-3-4制を考えます。Elementary School 小学校5年、Middle School 中学校3年で、14歳(秋に満年齢15歳になる年)で修了。村のHigh School は4年制で、ジュディーは14歳10ヶ月くらいで高校に入り、1年生の11月に15歳、2年生は15-16歳、3年生は16-17歳、4年生は17-18歳だった、というのが解決案です。


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スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』に出てくる、ジュディーの読書対象となった主として英語の文学作品は(英語じゃないのはチェリーニとかメーテルリンクとかバシュキルツェフとか、ごく少数のよう――つーか、それらは英訳かもしれません)、ものすごくすなおに考えると「みんな、アメリカの少年少女ならかならずよむ機会のある本ばかりなのでしょう」(恩地 1975, p. 317)とも思われるのですけれど、このブログでいうと、最初のころの「いいじゃないの幸せならば」シリーズで書いたように、「英語の古典」といいながら実は同時代の大衆小説からの引用であった(らしい)という、いや、大衆小説でなくとも「古典」ではないのは明らかで、そういう「遊び」はあるわけです、少なくとも。そのなかで『若草物語』『嵐が丘』『ジェイン・エア』はいわゆる「少女小説」の王道に位置するのみならず、『あしながおじさん』自体と共振するところ(作家小説+ビルドゥングスロマン(教養小説)とか、孤児小説+施設小説とか・・・・・・あー適当)あるわけでしょうが、思うに、19世紀末に特異であり、かつ特殊なものがあるんじゃないか、という気がします(ようするに、英文科的教科書的ブックリストではなくて、作家の趣味・嗜好もあるだろうという)。「いいじゃないの幸せならば」もそうなんですけれど。

  ちょっと類比的に思い出すのは、フィッツジェラルドの処女長篇『楽園のこちら側』に列挙される19世紀末から20世紀初頭の文学作品群です。えーと、いま適当な記憶で比較して書くことはひかえます。が、少なくとも『あしながおじさん』という、少女が作家として成長していくお話のなかで、例外的にくりかえし言及されるのは、ブロンテ姉妹(何度かあります)でもシェークスピア(何度もあります)でもなくて、スティーヴンソンではないかと思われ。

  それで、スティーヴンソンに関わる箇所をシリーズで書こうと思って、あれこれ調べておったのですけれど、しょっぱな(というか、最初名前が出るのは1年生の12月19日の手紙で、「R・L・Sがロバート・ルイス・スティーヴンソンを言うのだ R. L. S. stood for Robert Louis Stevenson」(Penguin Classics, p. 24) と知らなかったという一節ですけれど)の引用と思われたものからギャフンとなったのでした。

  それは、また、2年生の8月10日の手紙です(どうもこの手紙のまわりをウロウロしているような)。柳の木に登って、devil down-heads や天国や宗教の話をしたあとの一節――

During our week of rain I sat up in the attic and had an orgie of reading―Stevenson, mostly.  He himself is more entertaining than any of the characters in his books; I dare say he made himself into the kind of hero that would look well in print.  Don't you think it was perfect of him to spend all the ten thousand dollars his father left, for a yacht, and go sailing off to the South Seas?  He lived up to his adventurous creed.  If my father had left me ten thousand dollars, I'd do it, too.  The thought of Vailima makes me wild.  I want to see the tropics.  I want to see the whole world.  I am going to some day―I am, realy, Daddy, when I get to be a great author, or artist, or actress, or playwright―or whatever sort of a great person I turn out to be.  I have a terrible wanderthurst; the very sight of a map makes me want to put on my hat and take an umbrella and start.  "I shall see before I die the palms and temples of the South."  (p. 77)
(雨の一週間、私は屋根裏部屋に端座して読書に耽溺しました――スティーヴンソンが主ですが。彼の作品のどの登場人物よりも彼自身のほうがずっと面白いですね。きっと彼は、本で印刷されたらよくみえるような主人公に自身を仕立てあげたんです。父親の残した一万ドルをぜんぶ一艘のヨットにつぎこみ、南洋に船出したなんてパーフェクトだと思いませんか。自分の冒険をやるのだという信条に忠実だったのですもの。もしも私の父親が一万ドル残してくれたとしたら、自分もそうするでしょう。ヴェイリマのことを考えると狂おしい気持ちになります。私、熱帯地方が見たいです。私、世界全部が見たいです。いつか、きっといきます――本気なんですよ、ダディー、いつの日か、わたしが大作家になるか、それとも画家か、それとも女優か、それとも劇作家か――とにかくなんでも偉大な人物になれたならば。わたしはスゴイ放浪欲があるのです。地図を見るだけで、すぐにも帽子をかぶって傘を持って出立したくなります。「南洋の棕櫚と寺院を見ずして我死なじ。」)

  いろいろとあるので、最後のところだけ言及して今日は終わります(と書いてから訳すのにえらく時間がかかったりしてw)。引用符に入っているコトバは、てっきりスティーヴンソンの引用だと思っていました。この箇所、ペンギン・クラシックスのエレイン・ショーウォルターは注をつけてくれていません。いいじゃないの幸せならばに注を付けている新しい岩波少年文庫の谷口由美子も、「死ぬ前に必ず、南国のヤシの木と寺院を見ます」と訳しているのみです。で、調べたら遅れてきたロマン派の桂冠詩人アルフレッド・テニソン Alfred Tennyson, 1809-92の "You Ask Me Why, Tho' Ill at Ease" という詩(1833年ごろ執筆で、1842年の)の一節(第7連の3行&4行)なのでした。へへーん。さらに1850年代にEdward Lear が"I shall see before I die the palms and temples of the South" の題で絵を描いているらしく。頭が混乱。


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スティーヴンソンの最初の言及 The First Mention of R. L. S. [Daddy-Long-Legs]

直前の記事で書いたように、『あしながおじさん』でスティーヴンソンが言及されるのは、1年生の初めのころ、12月19日の手紙でした。その手紙では、特にスティーヴンソンについて語っているのではなく、普通の女の子たちが自然に吸収して知っているものをいかに自分が知らないか、というリストのなかに出てくるのでした。――

     I have a new unbreakable rule: never, never to study at night no matter how many written reviews 〔復習課題〕are coming in the morning.  Instead, I read just plain books―I have to, you know, because there are eighteen blank years behind me.  You wouldn't believe, Daddy, what an abyss of ignorance my mind is; I am just realizing the depths myself.  The things that most girls with a properly assorted family and a home and friends and a library know by absorption, I have never heard of.  For example:
     I never read "Mother Goose" or "David Copperfield" or "Ivanhoe" or "Cinderella" or "Blue Beard" or "Robinson Crusoe" or "Jane Eyre" or "Alice in Wonderland" or a word of Rudyard Kipling.  I didn't know that Henry the Eighth was married more than once or that Shelley was a poet.  I didn't know that people used to be monkeys and that the Garden of Eden was a beautiful myth.  I didn't know that R. L. S. stood for Robert Louis Stevenson or that George Eliot was a lady.  I had never seen a picture of the "Mona Lisa" and (it's true but you won't believe it) I had never heard of Sherlock Holmes.
     Now, I know all of these things and a lot of others besides, but you can see how much I need to catch up.  And oh, but it's fun!  I look forward all day to evening, and then I put an "engaged" on the door and get into my nice red bath robe and furry slippers and pile all the cushions behind me on the couch and light the brass student lamp at my elbow, and read and read and read.  One book isn't enough.  I have four going at once.  Just now, they're Tennyson's poems and "Vanity Fair" and Kipling's "Plain Tales" and―don't laugh―"Little Women."  I am the only girl in college who wasn't brought up on "Little Women."
(私は新しいルールをつくって絶対に破らない覚悟をしました。翌朝いくら筆記試験があっても、前の晩ぜったいに決して、決して〔なんとなく5月8日推敲〕勉強しないことです。そのかわりに、やさしい本を読みます。だって18年というブランクを埋めるためには、どうしても必要なんです。私の精神にどんなに深い無知の深淵ができているか、ダディーには話しても本当になさらないでしょう。その深さがようやく自分でもわかりだしました。親子兄弟がちゃんとそろって家庭と友人と蔵書にめぐまれた、たいていの女の子たちなら自然に吸収同化して知っているようなことで、私が聞いたことのないことがたくさんあります。たとえば――
  私は『マザーグース』や『デイヴィッド・コッパーフィールド』や『アイヴァンホー』や「シンデレラ」や「青髭」や『ロビンソン・クルーソー』や『ジェイン・エア』や『不思議の国のアリス』を読んだこともなければ、ラドヤード・キプリングは一語も読んだことがありません。私はヘンリー8世が何度も結婚したことや、シェリーが詩人だったということも知りませんでした。人間がもともと猿だったことも、エデンの園というのは美しい神話だということも知りませんでした。R. L. S. がロバート・ルイス・スティーヴンソンの略字だということも、ジョージ・エリオットが女の人だということも知りませんでした。『モナリザ』の絵を見たこともなければ、(信じないでしょうけれど)シャーロック・ホームズなんて聞いたこともありませんでした。
  いまは、こういうことはみんな知っていますし、そのほかいろいろなことを知っています。けれども、追いつくのにどれだけたいへんかおわかりだと思います。あー、でもそれはとても楽しいんです! 私は一日じゅう早く夕方にならないかと待ちわびて、それからドアに「仕事中」の札をかけ、すてきな赤い化粧着にきがえて室内履きをはき、寝椅子にありったけのクッションを重ねてよっかかり、ひじのところに真鍮の勉強用ランプをつけ、読んで読んで読みまくるのです。1冊の本では足りません。同時に4冊を読んでいます。いま、テニソンの詩集と『虚栄の市』とキプリングの『高原平話』と、あと――笑わないでください――『若草物語』を読んでいます。『若草物語』を読まないで育ったのは大学内で私ひとりのようです。)

   ここでの基準は、だから、英文科学生ではなくて、あくまでもフツウの女の子がフツウに吸収したもの――ということは、古典(とくに童話や、子供の頃に読まれるものと考えられていた児童文学的「古典」は)もあるかもしらんし、常識的な知識もあるかもしらんけれど、むしろ、流行とは言わずとも時代的なものと考えるのが自然なように考えられるのではないでしょうか。

  少なくとも、R. L. S. については、読んでいる/読んでいない、ではなくて、イニシャルが何を表わすか、という二義的な知識の話にとどまっています。

  それにしても、なにげに、いま並行して読んでいるのは、テニソンの詩集と(サッカレーの)『虚栄の市』とキプリングの『プレイン・テイルズ』と(オールコットの)『若草物語』〔これはもちろんイギリス小説『虚栄の市』と響きあうアメリカ小説〕です、と書いて、1年後のスティーヴンソン言及の際のテニソンからの詩の引用のヒントを与えておくところとかはオシャレな感じがします。


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女子寮の話から火馬、火の車馬、火事馬、消防馬、消防馬車馬へ Fire Horses [Daddy-Long-Legs]

ジュディー・アボットが入った大学のモデルになっているのはレイディー・ジェイン・グレイよりもヴァッサー・カレッジだということになっていて、たぶんそうなのでしょう。どっちにしても女子だけの、原則全寮制の学校でした。ヴァッサー女子大学は、作家ジーン・ウェブスターが入学した当時は、寮が二つあって、ストロング・ハウス Strong House とレイモンド・ハウス Raymond House でした。ヴァッサー大学のWEBページ <http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/strong.html> やWikipediaの "Strong House" <http://en.wikipedia.org/wiki/Strong_House> を見ると、ストロング・ハウスはロックフェラーの長女の Bessie Rockefeller Strong (この人は1886年から88年に、 "special student" としてヴァッサーに在籍したようです)に由来する名前で、1893年建築、当時は100人の個室だと書かれています(現在は162人)。第2代の学長の名前に由来するレイモンド・ハウス <http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/raymond.html>は1897年建築で、現在の収容人員は200人。どちらもFrancis Allen によって設計されました(そして、その次のも、その次のも同じような景観の建物になったようです)。

   どっちがジュディーの住んだファーガスン・ホール Fergussen Hall のモデルか、という不毛かもしれない問いを発したいのではありません。あれこれ読んでみてわかるのは、19世紀末から20世紀初頭のヴァッサーが女子大学として、カリキュラム改革をあれこれ試み(これについてはいまは扱いません)、急速に発展しつつあったということ。1901年には3番目の寮、レイスロップ・ハウス Lathrop House <http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/lathrop.html> (現在の収容人数180)が、翌1902年には4番目の寮、デイヴィソン・ハウス Davison House <http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/davison.html> (ロックフェラーの母親の名に因む。現在の収容人数191)が建設されます。

  で、事情はいろいろあるのでしょうが、ジーン・ウェブスター在籍当時のヴァッサーは規則がたいへん厳しくて、あるいは規則正しくて、旺文社文庫の中村佐喜子の解説によれば、「休暇なども、たとえばクリスマス休暇は一二月一九日午後一二時五分から、一月五日午後一時四〇分までというふうに、時間まで定められて」いたということです (p. 230)。

  1年生9月24日の手紙、つまり最初の手紙、の最後で、ジュディーは「あと2分で10時の鐘です。一日がすべて鐘によって区切られています。食べるのも、眠るのも、勉強するのも鐘が合図です。とても活気付けられます (It's very enlivening)。ずっと消防馬 (fire horse) みたいな気分です。」と書いています。

     The ten o'clock bell is going to ring in two minutes.  Our day is divided into sections by bells.  We eat and sleep and study by bells.  It's very enlivening; I feel like a fire horse all of the time.  There it goes!  Lights out.  Good night.
     Observe with what precision I obey rules―due to my training in the John Grier Home.  (p. 14)

    「活気付く」というのは、もちろん、皮肉をこめて言っているわけです。あと、あと2分で消灯と書いて、その2分が経ち、「おやすみなさい」と書いてから、さらに段落をあらためて、「ジョン・グリアー・ホームでの訓練のおかげで規則は正確に守ります」と消灯時間のあとに書くところが、ジュディーのユーモアです。

  で、fire horse。


1896 Horse Drawn Fire Engine (0: 20), posted by "netherchild99" on June 11, 2008: "An old footage of horse drawn fire engines in 1896.
Produced by: Thomas Edison
Year: 1896
Location: Newark, New Jersey
Video Restoration by: C. E. Price
"


"One Last Call" (4: 22), posted by "oktahahorses" on October 26, 2006: "Not about one horse, but a whole group of horses. By the mid 1920's, the fire horse had pretty much disappeared across the country, having been replaced with mechanical engines that ran on gasoline. This song is a composite of several stories I ran across while studying the subject of fire horses. I believe Jim, the horse mentioned in the song, worked for the Toledo Fire Department, while the pictures are from departments from the east coast to the west."

    消防ポンプ自体は機械化されたのちも、それを火事場に運ぶ車は、3頭立て、2頭立て、あるいは5頭立ての馬車であり、1920年代に完全に自動車にとってかわられるまでは消防ポンプ fire engine を引く馬が fire horse として活躍していたのでした。horse-drawn fire-engine が消防馬車だとすると、その馬車を引く馬は消防馬車馬というのかなあ、と思いましたが、消防馬ということばもあるようです(少なくとも翻訳では)。

//////////////////////////////////////////

"Horses in the Fire Service" <http://www.firehorses.info/firehorselinks.html> 〔Fire Horses 内。"The era of horse drawn fire apparatus extended from the Civil War through the 1920's. This site is dedicated to Preserving the History of Horses in the Fire Service"〕

"The Lost Monument to the DC Fire Horse - DCist" <http://dcist.com/2009/07/dcist_historians_the_fire_academy.php> 〔ワシントンDC の記事だけれど、ニューヨークの消防馬写真を掲載し、歴史的に語る〕

「国産玩車の曙 消防馬車編」 <http://nekozakana.blog.so-net.ne.jp/2007-02-21> 〔ねこざかなさんのブログ『生きながらミニカーに葬られ』 2007.2.21〕

"Category: Steam-powered fire engines - Wikimedia Commons" <http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Steam-powered_fire_engines> 〔消防用蒸気ポンプ関係の写真。馬の写真もあり〕

「大阪の街 22」 <http://homepage1.nifty.com/masaaki/osaka/osaka22.htm> 〔「イヤーンうち、今夜寝てあげるし~」の下の写真は明治44年の東消防署の消防自動車と消防馬車の合体〕

 


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スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson [Daddy-Long-Legs]

1年生のクリスマス休暇早々の手紙でR. L. S. がRobert Louis Stevenson だと知らなかった、と書いていたジュディー・アボットは、2年生の5月の手紙で、スティーヴンソンの全集を買ったことをなにげに知らせています。――

                                Saturday morning

Perhaps you think, last night being Friday, with no classes today, that I passed a nice quiet, readable evening with the set of Stevenson that I bought with my prize money?  [Penguin Classics, p. 71]

   新しいペンギン版の注釈者のエレイン・ショウォーターは、42番の注で "set of Stevenson: The works of Scottish author Robert Louis Stevenson (1850-1894)" と書いていますが、8番の注で "Robert Louis Stevenson: Scottish-born author (1850-1894)" と記したのを忘れたかのように、情報量が増えません。というか、これはスティーヴンソンという作家の注でしかないように思われ、そして前に出てきていたことを忘れていたのでしょう。まあ、よくあることです。

  あれこれ調べてみると、ロバート・ルイス・スティーヴンソン (1850-94) の死後、『あしながおじさん』の出る1912年までのあいだに、イギリスで少なくとも3種類、アメリカで少なくとも2種類の全集が出ていたようです――the Edinburgh Edition [Sidney Colvin 編] 28巻 (Chatto & Windus, 1894-98), the Pentland Edition [Edmund Gosse 編] 20巻 (London: Cassell, 1906-07), the Swanston Edition [Andrew Lang 編] 25巻 (London: Chatto & Windus, 1911-12); the Thistle Edition 24+3巻(New York: Scribners, 1995-99, 1911-12), the Household Edition 10巻 (New York: Lamb, 1906), the Manhattan Edition 10巻 (New York: Begelow, 1906), the Beacon Edition 10巻 (Boston: Charles A. Lind, 1906), the Vailima Edition 15巻 (New York: Peter Fenelon Collier, 1912[?]), the Aberdeen Edition 10巻 (Boston: Edinburgh Society, 1908), the New Century Library Edition 6巻 (New York: Thomas Nelson, 1912)。

  イギリスで出版された全集がきちんと編者の名を示しているのに対して、アメリカのものは素性がよくわかりませんし、10巻本は同質のリプリント版ではないかと思われます。が、いずれにしてもたいへん読まれていたこともわかります。

  毎度虚構と現実をまぜこぜにして空想&妄想すれば、19世紀末にジーン/ジュディーが買った全集は、イギリス版最初の全集であるであるエディンバラ版 (1894-98) か、ニューヨークのスクリブナーズ社から1895年から99年にかけて予約制で出版されたどちらかでしょう。そして、アメリカなので、やっぱり後者の "Thistle" 版かなあと。

  まだちゃんと確認できていないのですけれど、どうやら書簡集の内容が違うような気配があります。ジュディーはスティーヴンソンの手紙も引用しているので、そのへんで確認できるかもしれません(不毛かも)。

  とりあえず、必死こいて書き留めたエディンバラ版の中身をメモっておきます。 "novel" や "short story" というコトバが使われずに "romance" や "tale" 、あるいは "fantasy" というような分類がされているところが目を引きました。――

"The Edinburgh Edition,"  28 vols., demy 8vo.  Published in dark crimson cloth, t.e.g., other edges uncut at 12s. 6d. per vol., the last vol. being free to subscribers.  Each vol. has a paper label on the back.
VOL. I. 
Miscellanies, Vol. I. 
NOTES ON EDINBURGH. MEMORIES AND PORTRAITS. 
xiv + 368pp.
 VOL. II.  Travels and Excursions, Vol. I.  AN INLAND VOYAGE. TRAVELS WITH A DONKEY IN THE CEVENNES.

xviii + 324pp.

  VOL. III. Travels and Excursions, Vol. II.  THE AMATEUR EMIGRANT. PACIFIC CAPITALS. THE SILVERADO SQUATTERS.

xii + 340pp.

  VOL IV. Tales and Fantasies, Vol. I.  NEW ARABIAN NIGHTS. THE PAVILION ON THE LINKS, AND OTHER TALES.

xvi + 416pp.

  VOL V. Miscellanies, Vol. II.  

FAMILIAR STUDIES OF MEN AND BOOKS.

xii + 360pp.

  VOL VI. Romances, Vol. I.  TREASURE ISLAND.

xvi + 292pp.

  VOL. VII. Tales and Fantasies, Vol. II.  MORE NEW ARABIAN NIGHTS (THE DYNAMITER). THE STORY OF A LIE.

xii + 376pp.

  VOL. VIII. Tales and Fantasies, Vol. III.  DR. JEKYLL AND MR. HYDE. THE MERRY MEN, AND OTHER TALES.

xii + 408pp.

  VOL. IX. Romances, Vol. II.  PRINCE OTTO.

xiv + 264pp.

  VOL. X. Romances, Vol. III. THE BLACK ARROW.

xvi + 352pp.

  VOL. XI Miscellanies, Vol. III.  VIRGINIBUS PUERISQUE. LATER ESSAYS.

xii + 356pp.

  VOL. XII. Romances, Vol. IV.  ADVENTURES OF DAVID BALFOUR. PART I. KIDNAPPED.

xvi + 3l6pp.

  VOL. XIII. Romances, Vol. V.  ADVENTURES OF DAVID BALFOUR. PART II. CATRIONA.

xvi + 392pp.

  VOL. XIV. Poetry.  A CHILD'S GARDEN. UNDERWOODS. BALLADS. SONGS OF TRAVEL.

xii + 328pp.

  VOL. XV. Romances, Vol. VI.  THE MASTER OF BALLANTRAE.

xii + 324pp.

  VOL. XVI. South Sea Yarns, Vol. I.  THE WRECKER, VOL. I.

xiv + 280pp.

  VOL. XVII. South Sea Yams, Vol. 11.  THE WRECKER, VOL. II.

xii + 268pp.

  VOL. XVIII. Biography.  MEMOIR OF FLEEMING JENKIN. A FAMILY OF ENGINEERS.

xvi + 392pp.

  VOL. XIX. South Sea Yams, Vol. III.  ISLAND NIGHTS ENTERTAINMENTS. THE EBB-TIDE.

xii + 380pp.

  VOL. XX. Travels and Excursions, Vol. III.  IN THE SOUTH SEAS.

xvi + 384pp.

  VOL. XXI. Miscellanies, Vol. IV.  JUVENILIA, ETC. LAY MORALS. PRAYERS.

xii + 388pp.

  VOL. XXII. Tales and Fantasies, Vol IV.  JOHN NICHOLSON. THE WRONG BOX. FABLES.

xii + 396pp.

  VOL. XXIII. Drama.  DEACON BRODIE. BEAU AUSTIN. ADMIRAL GUINEA. MACAIRE.

xii + 304pp.

  VOL. XXIV. Correspondence.  VAILIMA LETTERS.

xx + 348pp.

  VOL. XXV. History.  A FOOTNOTE TO HISTORY. LETTERS FROM SAMOA.

viii + 344pp.

  VOL. XXVI. Romances, Vol. VII.  WEIR OF HERMISTON AND OTHER FRAGMENTS.

xii + 308pp.

  VOL. XXVII. Romances, Vol. VIII.  ST. IVES, BEING THE ADVENTURES OF A FRENCH PRISONER IN ENGLAND.

xvi + 454pp.

  VOL. XXVIII. Appendix.  MISCELLANEA. MORAL EMBLEMS, ETC.

xvi + 52 (not including the Toy-Books おまけの本付き)

ひまができたらE-text をリンクするかもしれません。

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参考urls&books―  William Francis Prideaux, A Bibliography of the Works of Robert Louis Stevenson (London: F. Hollings; New York: Charles Scribner's Sons, 1903) <http://www.archive.org/details/bibliographyofwo00pridrich> 〔Internet Archive〕 John Herbert Slater, Robert Louis Stevenson: A Bibliography of His Complete Works (London: G. Bell, 1914) <http://www.archive.org/details/robertlouissteve00slatuoft> 〔Internet Archive〕 "Robert Louis Stevenson - bibliography menu" <http://dinamico2.unibg.it/rls/bibliogmenu.htm> The English Catalogue of Books 

 


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スティーヴンソン、ヴァイリマ Stevenson, Vailima [Daddy-Long-Legs]

再度、2年生8月10日の手紙の一部を引用します。

During our week of rain I sat up in the attic and had an orgie of reading―Stevenson, mostly.  He himself is more entertaining than any of the characters in his books; I dare say he made himself into the kind of hero that would look well in print.  Don't you think it was perfect of him to spend all the ten thousand dollars his father left, for a yacht, and go sailing off to the South Seas?  He lived up to his adventurous creed.  If my father had left me ten thousand dollars, I'd do it, too.  The thought of Vailima makes me wild.  I want to see the tropics.  I want to see the whole world.  I am going to some day―I am, realy, Daddy, when I get to be a great author, or artist, or actress, or playwright―or whatever sort of a great person I turn out to be.  I have a terrible wanderthirst; the very sight of a map makes me want to put on my hat and take an umbrella and start.  "I shall see before I die the palms and temples of the South."  (p. 77)
(雨の一週間、私は屋根裏部屋に端座して読書に耽溺しました――スティーヴンソンが主ですが。彼の作品のどの登場人物よりも彼自身のほうがずっと面白いですね。きっと彼は、本で印刷されたらよくみえるような主人公に自身を仕立てあげたんです。父親の残した一万ドルをぜんぶ一艘のヨットにつぎこみ、南洋に船出したなんてパーフェクトだと思いませんか。自分の冒険をやるのだという信条に忠実だったのですもの。もしも私の父親が一万ドル残してくれたとしたら、自分もそうするでしょう。ヴァイリマのことを考えると狂おしい気持ちになります。私、熱帯地方が見たいです。私、世界全部が見たいです。いつか、きっといきます――本気なんですよ、ダディー、いつの日か、わたしが大作家になるか、それとも画家か、それとも女優か、それとも劇作家か――とにかくなんでも偉大な人物になれたならば。わたしはスゴイ放浪欲があるのです。地図を見るだけで、すぐにも帽子をかぶって傘を持って出立したくなります。「南洋の棕櫚と寺院を見ずして我死なじ。」)

    最後の引用はテニソンの詩"You Ask Me Why, Tho' Ill at Ease" (1833年ごろ執筆、1842年発表)からのものです。このあいだの記事「スティーヴンソンからテニソンへ」を補いますと、その後調べたところ、テニソンの友人であったエドワード・リアは、私淑するテニソンの詩を題材にしたシリーズの絵を構想していたようで、この題( "You Ask Me . . ." ではなくて "I Shall See . . ." )の絵が1850年代に書かれたということのようです。

  前の記事で書いたように、スティーヴンソンの全集を買って読んでいることが書かれるのは2年生5月の手紙ですから、それから数えても3ヶ月、読み耽っていたさまがうかがえます。

  1887年父親が亡くなり、それ以前に体調を崩して英国内のいろいろな土地での生活を試していたスティーヴンソンは、医者の勧めにしたがって大胆な転地療養を考えます。1880年に結婚していた年上の妻ファニー・オズボーン Fanny Osbourne の故郷であるアメリカへ渡ったのです。ニューヨークに滞在後、奥さんの郷里である西海岸サンフランシスコに移り、1888年6月、ヨット Casco 号をチャーターして南洋へ航行します(伝記参照 <http://www.archive.org/stream/novelstalesofrob26steviala#page/46/mode/2up>)。ハワイ群島やタヒチやニュージーランドを訪れて帰米。さらに1889年、義理の息子ロイド・オズボーン Lloyd Osbourne, 1868-1947 も伴って再度航海。1890年4月にシドニーからJanet Nichol 号で3度目の航海に出て、サモア島に400エーカーの土地を購入。Vailima の村に家を建て、1894年脳溢血で急死するまでその地に住みます。

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ヴァイリマのスティーヴンソンたち (1890年頃) image via Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Louis_Stevenson>

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Vailima, before the extension, image via "Oceania - The Final Voyages of Robert Louis Stevenson" <http://www.janesoceania.com/oceania_rls/index.htm>

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Stevenson in the Death Chamber (1895?), image via "Oceania - The Final Voyages of Robert Louis Stevenson"

 

  


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彷徨の渇望 Wanderthirst [Daddy-Long-Legs]

まちがえて wanderthurst と二度にわたって書いてしまった、wanderthirstについて。

三度、2年生8月10日の手紙の一部を引用します。

During our week of rain I sat up in the attic and had an orgie of reading―Stevenson, mostly.  He himself is more entertaining than any of the characters in his books; I dare say he made himself into the kind of hero that would look well in print.  Don't you think it was perfect of him to spend all the ten thousand dollars his father left, for a yacht, and go sailing off to the South Seas?  He lived up to his adventurous creed.  If my father had left me ten thousand dollars, I'd do it, too.  The thought of Vailima makes me wild.  I want to see the tropics.  I want to see the whole world.  I am going to some day―I am, realy, Daddy, when I get to be a great author, or artist, or actress, or playwright―or whatever sort of a great person I turn out to be.  I have a terrible wanderthirst; the very sight of a map makes me want to put on my hat and take an umbrella and start.  "I shall see before I die the palms and temples of the South."  (p. 77)
(雨の一週間、私は屋根裏部屋に端座して読書に耽溺しました――スティーヴンソンが主ですが。彼の作品のどの登場人物よりも彼自身のほうがずっと面白いですね。きっと彼は、本で印刷されたらよくみえるような主人公に自身を仕立てあげたんです。父親の残した一万ドルをぜんぶ一艘のヨットにつぎこみ、南洋に船出したなんてパーフェクトだと思いませんか。自分の冒険をやるのだという信条に忠実だったのですもの。もしも私の父親が一万ドル残してくれたとしたら、自分もそうするでしょう。ヴァイリマのことを考えると狂おしい気持ちになります。私、熱帯地方が見たいです。私、世界全部が見たいです。いつか、きっといきます――本気なんですよ、ダディー、いつの日か、わたしが大作家になるか、それとも画家か、それとも女優か、それとも劇作家か――とにかくなんでも偉大な人物になれたならば。わたしはスゴイ放浪欲があるのです。地図を見るだけで、すぐにも帽子をかぶって傘を持って出立したくなります。「南洋の棕櫚と寺院を見ずして我死なじ。」)

    最後の引用はテニソンの詩からのものだということはもう、しつこく言わずともいいと思いますw。

  wanderthirst は英和辞典に出ておらないばかりでなく、オックスフォード英語大辞典(OED) にも載っていないコトバです。wander + thirst だから、意味は了解できるし、そういう意味では、必ずしも辞書を引かなくてもよいコトバかもしれません。でも辞書・事典はコトバの意味だけでなく、歴史や背景や肌合やらを教えてくれるのだし、辞書に載っていないというのが気になる人種もいます。自分もまあいちおうそういう人間の部類です(うそかも)。

  とりあえずOED に見出し語として挙がっているのは、wanderlust という語です。 "An eager desire or fondness for wandering or travelling." 〔彷徨や旅行への熱い欲求ないし嗜好〕という簡潔な定義があって、1902年に始まる用例が引かれています。

  あと、見出し語にはなっていませんが、動詞 wander の7番の複合語に、"Comb., as wander-bird = Wandervogel; wander-plug, a plug which can be fitted into any of a number of sockets in a dry battery; wander-spirit = wanderlust; wander-witted = wandery (cf. wandrynge-wytted s.v. wandering ppl. a. 2b)." と記述がある中に、wander-spirit = wanderlust として、 "wander-spirit" というコトバが同義語として挙がっています。

  WEB で wanderthirst を検索していちばん多く引っかかるのは、"Beyond the East the sun rise, beyond the West the sea, /And East and West the wanderthirst that will not let me be" というふうに始まる、Gerald Gould という人の詩で、2007年に書かれたらしいページによると、それまでインターネットに見つからなかったので書き留めるみたいに書かれていますけれど、いまはやたら載っています。この詩を添えた絵もあったり(Dorothy Venter)。もしかするとシート・ミュージックとして昔にあったのかなあとか

  でも、この詩はwanderthirst ではなくて wanderlust だとするサイトもあったりもします――"The Home Book of Verse, Volume 3 by Burton Egbert Stevenson"。あとセカイモンに出ている絵でもタイトルは "Wanderlust" になっていたりします。

    よくわからんのですが、ともかくこのイギリスのGerald Gould さん (1885-1936) は・・・・・・あー、Wikipediaを読むと、 "Wander-thirst" という詩はしばしば引用される、と書かれております。あ、ウィキペディアに発表年が書かれておらず、他のサイトの情報で1930年代と誤解していたのですが、1906年のようです――"Wander-thirst (Gould, set by A. Baynon, H. Davies, G. Peel, L. Ronald)" (The Lied and Art Song Texts Page)。20歳ごろの若書きの詩集だったのですね。タイトルは "Wander-thirst" だけれど、詩の本文では "wanderlust" なのですね。1906年刊行の Lyrics 所収。このページは、歌謡になったものの情報も書かれているようです。

Wander‑thirst
                                                Gerald Gould

Beyond the East the sunrise, beyond the West the sea,
And East and West the wanderlust that will not let me be;
It works in me like madness, dear, to bid me say good-by!
For the seas call and the stars call, and oh, the call of the sky!

I know not where the white road runs, nor what the blue hills are,
But man can have the sun for friend, and for his guide a star;
And there's no end of voyaging when once the voice is heard,
For the river calls and the road calls, and oh, the call of a bird!

Yonder the long horizon lies, and there by night and day
The old ships draw to home again, the young ships sail away;
And come I may, but go I must, and if men ask you why,
You may put the blame on the stars and the sun and the white road and the sky!

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フィニッシング・スクール Finishing School [Daddy-Long-Legs]

1年生10月中旬金曜日の手紙

                                                             Friday

What do you think, Daddy?  The English instructor said that my last paper shows an unusual amount of originality.  She did, truly.  Those were her words.  It doesn't seem possible, does it, considering the eighteen years of training that I've had?  The aim of the John Grier Home (as you doubtless know and heartily approve of) is to turn the ninety-seven orphans into ninety-seven twins.

WS000193.JPG

The unusual artistic ability which I exhibit was developed at an early age through drawing chalk pictures of Mrs. Lippett on the woodshed door.

I hope that I don't hurt your feelings when I criticize the home of my youth?  But you have the upper hand, you know, for if I become too impertinent, you can always stop payment of your cheques.  That isn't a very polite thing to say--but you can't expect me to have any manners; a foundling asylum isn't a young ladies' finishing school.

You know, Daddy, it isn't the work that is going to be hard in college.  It's the play.  Half the time I don't know what the girls are talking about; their jokes seem to relate to a past that every one but me has shared.  I'm a foreigner in the world and I don't understand the language.  It's a miserable feeling.  I've had it all my life.  At the high school the girls would stand in groups and just look at me.  I was queer and different and everybody knew it.  I could FEEL 'John Grier Home' written on my face.  And then a few charitable ones would make a point of coming up and saying something polite.  I HATED EVERY ONE OF THEM--the charitable ones most of all.
(どう思います、ダディー。国文〔英文ですけど〕の先生が言うにはこのまえの私の作文はなみなみならぬ独創性を示しているのだそうです。ほんとうにそう言ったのです。このコトバどおりに。私が受けた18年間の訓練を考えると、ありえないことみたいに思われるのではないでしょうか。ジョン・グリアー・ホームのねらいは(あなたさまが先刻ご承知で心底承認なさっていることかもしれませんが)97人の孤児を97の双生児に変えることです。
  ここに私が示すなみなみならぬ芸術的手腕は、私が幼いころにチョークで薪小屋にリペット先生の肖像を描くことで養われたものです。
  若かりし頃の我が家のことを批判的に言ってあなたさまの感情を害すことがありませんように。もっともあなたさまはもちろん優位に立っています。私があんまり生意気ならばいつでも送金をやめることができますもの。ぶしつけなことを書きました――でも私が礼儀作法(マナー)というものをもっていると期待することはできないのです。孤児院はヤングレディーのフィニッシング・スクールではないのですから。)

  作者のジーン・ウェブスター自身は、ヴァッサー女子大に入る前に、3年間、フィニッシング・スクールとして有名だったレイディー・ジェイン・グレイに通ったのでした〔「レイディー・ジェイン・グレイ・スクール Lady Jane Grey School」参照〕から、プッと吹いてしまわないまでも、フフと笑ってしまうところなのでした。
  


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シェリーズ Sherry's Restaurant [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』の2年生の4月にジュディーが初めてニューヨーク市に出かけて泊まった Marth Washington Hotel について前に書きましたが(<http://occultamerica2.blog.so-net.ne.jp/2009-07-31-1>)、土曜日の朝、女の子3人で買物をしてから、お昼にジャーヴィー坊ちゃまと会ったのが Sherry's というレストランです。Sherry's は、その後に『ハムレット』を観劇する劇場のそばにあったはずなので、自然といえば自然ですけれど、当時有名な高級レストランでした。

     And after we'd finished our shopping, we met Master Jervie at Sherry's.  I suppose you've been in Sherry's?  Picture that, then picture the dining-room of the John Grier Home with its oilcloth-covered tables, and white crockery that you can't break, and wooden-handled knives and forks; and fancy the way I felt!
     I ate my fish with the wrong fork, but the waiter very kindly gave me another so that nobody noticed.
     And after luncheon, we went to the theater―it was dazzling, marvelous, unbelievable―I dream about it every night.  (Penguin Classics 版 65)
(それから買物がおわったあと私たちはシェリーズでジャーヴィー坊ちゃまと会いました。たぶんあなたはシェリーズをご存知でしょ? あそこを思い描いて、それからジョン・グリアー・ホームの食堂を思い描いてみてください――オイルクロスをかけたテーブルと叩いても壊れない白無地のセトモノと木の柄のついたナイフとフォークの食堂。それから、私がどう感じたか、思ってみてください! 
  私はサカナを食べるときにまちがったフォークを使いましたが、ウェイターがとても親切に代わりをくれましたので誰にも気づかれずにすみました。
  この昼餐のあとで劇場に行きました。目くるめくような、驚異的な、信じられないものでした――私は毎晩夢に見ます。

    ランチで何品食べたのかわかりませんけれど、コースじゃなくてアラカルトで注文したんでしょうか。魚用のフォークは肉用より小さかったりデザインが異なるだけでなく、花柄とかの装飾が施されて区別されていますが、ジュディーは金属のメタルでのフォーク&ナイフを使ったテーブルマナーに慣れておらなかったという話です。

  Sherry’s=Sherry’s Restaurant は Fifth Avenue and 44th Street にあったレストランです。Vermont 生まれの Louis Sherry (1856-1926) が1881年、Sixth Avenue and 38th Street に開いたのがもと。1891年にはFifth Avenue and 44th Street にprivate mansion を買って新しいレストランに改装したのだそうです。1903年の “Horseback Dinner”、1905年のルイ16世のヴェルサイユ宮風の舞踏会など歴史に残るパーティーが行なわれた場所で、南北戦争後のアメリカの高度経済成長「金めっき時代 the Gilded Age」の繁栄を反映した店のひとつでした。Louis Sherry 自身はは1919年にレストラン業をやめて菓子やジャム類の製造に専念したようです〔以上 Anya Laurence, “New York's Sherry's Restaurant: Manhattan's French-Inspired Society Cafe of the Gay Nineties,” Suite101.com, May 8, 2008 <http://americanhistory.suite101.com/article.cfm/new_yorks_sherrys_restaurant>による情報に金ピカの背景を適当に挿入〕。

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C. K. G. Billings's Horseback Dinner at Sherry's (1903) image via CKG Billings Estate: "In 1903, his lodge complete, Billings ordered an indoor, full-service, horseback dinner catered by the then famous Sherry’s Restaurant. By popular demand Billings relocated the dinner to Sherry’s midtown ballroom where 36 guests sat atop living, breathing, whinnying horses while waiters dressed as grooms catered to their every whim." <http://myinwood.net/ckg-billings-estate/>

     自身の馬好きとグルメの二つの嗜好を合体させるアイデアで、はじめ、シェリーズからケイタリングでパーティーを開き(ケイタリングというとギャツビーのパーティーを思い出します)、それが評判を呼んだので、今度はニューヨークの店のほうで36人が集って馬乗りディナーを開催したと。ウェイターは馬丁のなりに扮装して給仕したのでした。

  ブログ記事 "A black-tie dinner on horseback" Ephemeral New York, September 5, 2009 <http://ephemeralnewyork.wordpress.com/2009/09/05/a-black-tie-dinner-on-horseback/> にはもう少しくわしく飲食の様子が記述されています。おそらく、Edward Hungerford による評伝 The Story of Louis Sherry and the Business He Built (William Edwin Rudge, 1929) という本がこの手の記述の大本なのだと思われます。

  1919年に菓子のほうへ事業を転換するのですけれど、どうやらその後もシェリーズの名前の店舗存続したみたいです(ちょっと謎)。つまるところ1919年というのは禁酒法がらみなわけですね。

sherrys-dinner-at-the-met,rd.jpg
image via Operavision <http://aprilemillo.wordpress.com/page/36/>

 


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ジュディーとパティーのスカート丈 Skirt Length [Daddy-Long-Legs]

前の記事で掲載したヴァッサー女子大の1904年のField Day の写真を見てほぼ確信したのですけれど、1911年の C. M Relyea による Just Patty の挿絵は、少なくとも1890年代の女子大ないし女子寄宿学校におけるセーラー服ないしミディーブラウスの着用の様子について、少なくとも着丈について歴史の事実を反映しており、いっぽう1年後の1912年に刊行された『あしながおじさん』の作者自身の挿絵は、逆に、作家が学生だった1890年代の着丈を反映しておらんのではないか。

  2年生5月の Field Day の50ヤード競走のイラスト(ミディーブラウスというのではないのですが・・・・・・それにボトムはブルーマーぽいですが)――

WS000196.JPG
(Century 初版 150ページ)

    1年生10月25日付の手紙に描かれるバスケットボールのイラスト(やっぱりセーラーブラウスというのではないのですが――ちょっと微妙な省略的な線w――)――

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(Century 初版 40ページ)

    これは手紙本文中の「つまらなかったらくずかご(waste-basket) にほうってね」というのと響きあっているところなきにしもあらずなのでしょうけれど、実際バスケのチームに選抜され、左肩に青あざと赤あざをつくって奮闘している様子をこの前のページに書いています。

  で、どちらもボトムは bloomers というやつなのでしょうけれど、ひざ下丈です。基本的に、『あしながおじさん』に描かれるスカート類はだいたいひざ丈かひざ下丈ではないでしょうか。

  これまで載せた画像(とくにセーラーとは思われませんが)を再掲すると――

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  で、おそらくこのスカート丈は、ジーン・ウェブスター自身がレイディー・ジェーン・グレイ・スクールやヴァッサー・カレッジに通った1890年代よりも短く描かれているのでしょう。

   1911年の Just Patty の挿絵を描いたC. M Relyea が、10年後の1921年に Century 社から出版された Augusta Huiell Seaman (1879-1950) の小説 The Slipper Point Mystery に付したイラストは、10年ないし20年の間に短くなったセーラー服を示唆しているように思われます。――

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The Slipper Point Mystery (1921)

  もちろん、第一次世界大戦後のモガ的・フラッパー的ショートスカートというのは大きな変革としてあったわけですけれど、1912年の『あしながおじさん』における著者自身のイラストは、前年の、おそらく1890年代から20世紀初頭を「歴史」的に意識してC. M Relyea が描いたと推測されるスカート丈から、格段の変化を遂げていたように思われ。それは作家自身が自分の過去の歴史(1890年代)ではなくて、作品が出版される1910年代を意識したからだと思われ。

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Just Patty (1911)
 

 


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スティーヴンソンの4度目の言及 The Fourth Mention of R. L. S. [Daddy-Long-Legs]

スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson」 
スティーヴンソンの最初の言及 The First Mention of R. L. S.
ジュディーと冒険 The Adventurous Judy
スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson
スティーヴンソン、ヴァイリマ Stevenson, Vailima
のつづき 

『あしながおじさん』でロバート・ルイス・スティーヴンソンが最初に言及されるのが1年生のクリスマス休暇が始まるころの手紙で R. L. S. が Robert Louis Stevenson のことだというのを知らなかったという話 (Penguin Classics, p. 24)、2度目に言及されるのが、2年生5月の月曜日の朝の手紙で、(その前の3月下旬の手紙で買いえ入るように短篇小説のコンクール the short-story contest の25ドルの)賞金 prize money で買ったスティーヴンソン全集を読んでいるという内容 (p. 71)、3度目に言及されるのが、2年生8月10日のロック・ウィローからの手紙で、読書に耽っているけど、主にスティーヴンソン (had an orgie of reading―Stevenson, mostly) と書いて、Vailima を思うだけで狂おしい気持ちになる (The thought of Vailima makes me wild) とか、漂泊の思いが強いとか、(テニソンを引いて)「死ぬ前に南洋のヤシと寺院を見る」と書いている手紙でした (p. 77)。
  そして、4度目の言及は、やはりその8月(のおそらく中旬)にロック・ウィローで書かれた手紙の中にあります。ペンドルトンからセンプル夫人に手紙が来て、ロック・ウィローを訪ねてくるというニュースを伝える文章の最後のところで、アマサイ(男の使用人)が下で馬のグローヴと待っていて、これからひとりで荷馬車に乗るのだけれど、馬は年取ったグローヴなので心配はありません、と書いたあと、手紙の結びでスティーヴンソンの手紙の言葉が引かれています。――

     With my hand on my heart―farewell.
                                                              JUDY.
     P.S.  Isn't that a nice ending?  I got it out of Stevenson's letters.  (p. 81)
(我が胸に我が手をあてて――さらば。
                                  ジュディー
 追伸 すてきな結びでしょう? スティーヴンソンの書簡集から借りてきたのです。)

  これは、一所懸命調べてみると、1886年1月2日にスティーヴンソンが友人の Edmund Gosse に書いた手紙の、最後ではなくて途中に、 "with my hand on my heart" と出てくるのを引いているのだということがわかりました。

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The Novels and Tales of Robert Louis Stevenson, Vol. 24: Letters II, p. 14

Letter:  TO EDMUND GOSSE
SKERRYVORE, BOURNEMOUTH, JAN. 2ND, 1886. 
     MY DEAR GOSSE, - Thank you for your letter, so interesting to my vanity.  There is a review in the St. James's, which, as it seems to hold somewhat of your opinions, and is besides written with a pen and not a poker, we think may possibly be yours.  The PRINCE has done fairly well in spite of the reviews, which have been bad: he was, as you doubtless saw, well slated in the SATURDAY; one paper received it as a child's story; another (picture my agony) described it as a 'Gilbert comedy.'  It was amusing to see the race between me and Justin M'Carthy:  the Milesian has won by a length.
    
That is the hard part of literature.  You aim high, and you take longer over your work, and it will not be so successful as if you had aimed low and rushed it.  What the public likes is work (of any kind) a little loosely executed; so long as it is a little wordy, a little slack, a little dim and knotless, the dear public likes it; it should (if possible) be a little dull into the bargain.  I know that good work sometimes hits; but, with my hand on my heart, I think it is by an accident.  And I know also that good work must succeed at last; but that is not the doing of the public; they are only shamed into silence or affectation.  I do not write for the public; I do write for money, a nobler deity; and most of all for myself, not perhaps any more noble, but both more intelligent and nearer home.
[. . .]
     Here came my dinner and cut this sermon short - EXCUSEZ.
                               
R. L. S.

 


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ハッピー・ソート(幸せの想い)――スティーヴンソンの5度目の言及 Happy Thought: The Fifth Mention of R. L. S. [Daddy-Long-Legs]

スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson」 
スティーヴンソンの最初の言及 The First Mention of R. L. S.
ジュディーと冒険 The Adventurous Judy
スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson
スティーヴンソン、ヴァイリマ Stevenson, Vailima
スティーヴンソン全集(アメリカのアザミ版) The Thistle Edition of Robert Louis Stevenson's Works
スティーヴンソンの手紙 Letters of Robert Louis Stevenson
のつづきです 

  やはり2年生の夏休みにロック・ウィローから書いた手紙の中で言及されるスティーヴンソンについて。滞在中に手紙を書いてきたジャーヴィス・ペンドルトンが8月25日にやってきて、一緒に山登りをしたりキャンプをしたりして過ごしたことの報告はこれの前の手紙に書かれていました。手紙の冒頭「とっくの昔に ages ago」この手紙を書き出していたのだけれど書き上げられていませんでした、とジュディーは書いていますが、手紙の後半を読むとまだジャーちゃんは農場にいるようです。たぶん9月の頭の手紙ではないでしょうか。

                                                          Saturday

     I started this letter ages ago, but I haven't had a second to finish it.
     Isn't this a nice thought from Stevenson?


           The world is so full of a number of things,
           I am sure we should all be as happy as kings.


     It's true, you know.  The world is full of happiness, and plenty to go round, if you are only willing to take the kind that comes your way.  The whole secret is in being pliable.  In the country, especially, there are such a lot of entertaining things.  I can walk over everybody's land, and look at everybody's view, and dabble in everybody's brook; and enjoy it just as much as though I owned the land--and with no taxes to pay!
(この手紙はとっくの昔に書き始められていたものなのですが締めくくるひまがまるでありませんでした。
  これはスティーヴンソンのですけれど、ナイスな想いじゃないでしょうか?
      世界は数多くのものでとっても満ちあふれている
      みんな王様のようにハッピーになるべきだと私は思う
  確かにそうです。世界は幸福に満ちあふれ、動き回るのに充分です、ただ自分のもとにあるものを受け入れさえすれば。すべての秘訣はしなやかさです。田舎ではとりわけ面白いことがたくさんあります。誰の土地だって歩きまわれるし、誰の景色でも共有できるし、誰の小川でもパチャパチャはねをあげられます。そして自分がその土地の所有者であるかのように享受できるのです――税金は支払わずに!)

  下のほうの、なんだかソローの『ウォールデン』を思わせるようなコメントは股の機械、いや又の機会にとっておいて(実は調べている余裕がない)、引用です。これは(ウェブスターがもっていたと勝手に想定しているスクリブナーズ版では、第16巻 XVI. [Ballads and Other Poems of Robert Louis Stevenson] A Child’s Garden of Verses & Underwoods & Ballads (1895)  359pp.  Rpt. 1911.  [1895初版] の25ページに詩集 A Child's Garden of Verses の24番の詩として載っています。タイトルは "Happy Thougt" 、「幸せな想い」あるいは「幸せの想い」という感じでしょうか。手紙を導入するジュディーの "Isn't this a nice thought" は、詩のタイトルともちろん響きあっています。――

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  もともと2行の短詩です。2行目の冒頭、 "I'm" が "I am" になっている(敢えて言えば誤引用)ところがちがいます。

  ところで、A Child's Garden of Verses が1885年に最初に出たときにはタイトルを Penny Whistles といったのだそうですが、数枚のカラー挿画以外はスティーヴンソン自身が描いたイラストが収められていたようです。

  それが、たとえば1895年に(Thistle Edition を刊行し出した)スクリブナーズ社から、全集とは別に単行本で出版された『子供の詩の庭』は、Charles Robinson のイラストで、この詩については版画の中に詩が刻まれています〔pdf.: <http://www.archive.org/details/stechil>〕。――

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illustration by Charles Robinson (1895)

 1902年にRand McNally から出た本では、E[thel] Mars (b.1876) と M[aud] H[unt] Squire (b. 1873) による、モノクロとカラーの挿絵が施されています〔e-text: <http://www.archive.org/stream/childsgardenofve00stev2#page/n5/mode/2up>〕。――

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illustration by E. Mars and M. H. Squire (1902)

   あるいは1916年にシカゴのM. A. Donohue 社から出た版(これは Gutenberg から挿絵入りでe-text 化されています: <http://ia331326.us.archive.org/1/items/achildsgardenofv19722gut/19722-h/19722-h.htm>)は Myrtle Sheldon という女性が挿絵を描いています。――

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illustration by Myrtle Sheldon (1916)

   ということで、マザーグースほどではないにしても、さまざまな挿絵画家がイラストを競う詩集のひとつとなったのでした。それにしても作者自身がイラスト描いていたのにねー、という感じはしなくはないですが。

   それと、こういう挿絵を見ていると、硬い訳はふさわしくなく、「この世はたくさんのものでいっぱいだね/きっとみんな王様のように幸せになれるよ」みたいなふうに子供に帰りたくなりますw

   しかしまた、このハッピーな感覚は、「田舎」をジャーヴィスとともにあるきまわって、新たな目で見た結果かもしれず、そのへんが怪しいところです。

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『宝島』――スティーヴンソンの6度目の言及 (1) Treasure Island: A Sixth Mention of R. L. S. (1) [Daddy-Long-Legs]

2年生の夏にジュディーがロック・ウィロー農場で読み耽っている R. L. Stevenson は、2年の3月末の手紙で書かれている大学雑誌『マンスリー』の短篇小説の懸賞金25ドル“Jerusha Abbott has won the short-story contest (a twenty-five dollar prize) that the Monthly holds every year” [63]で購入したセット(“the set of Stevenson that I bought with my prize money” [71])を農場に持ち込んだのだと考えられます。ジュディーは1899年に出版されたSidney Colvin 編の書簡集に含まれる手紙のフレーズを引いていることから、ジュディー/ジーンが購入したスティーヴンソン全集は、Colvin 編の書簡集を2324巻として1899年に配本した、ニューヨークのScribner’s 社の the Thistle Edition であると推測されるわけです。この全集は全巻に共通して印刷されている総タイトルはないが、1895年に予約制で刊行を開始し、1899年までに24巻を刊行しました(その後1911年に新しい伝記2巻を2526巻として、1912年に新しい書簡集を27巻として刊行し、全27巻)。ジーン・ウェブスターがヴァッサー女子大に在籍したのは1897年から1901年でした。『子供の詩の庭』から Happy Thought” を引用してすぐあとの手紙では有名な『宝島』(Treasure Island, 1881-82雑誌掲載, 1883出版) に言及しています。 

Ship ahoy, Capn Long-Legs!

     Avast!  Belay!  Yo, ho, ho, and a bottle of rum.  Guess what Im readling?  Our conversation these past two days has been nautical and piratical.  IsnTreasure Island” fun?  Did you ever read it, or wasnt it written when you were a boy?  Stevenson only got thirty pounds for the serial rights――I don’t believe it pays to be a great author.  Maybe I’ll teach school.
     Excuse
  me for filling my letters so full of Stevenson; my mind is very much engaged with him at present.  He comprises Lock Willow’s library.
     I’ve been writing this letter for two weeks, and I think it’s about long enough.  Never say, Daddy, that I don’t give details.  I wish you were here, too; we’d all have such a jolly time together.  I like my different friends to know each other.  I wanted to ask Mr. Pendleton if he knew you in New York―I should think he might; you must move in about the same exalted social circles, and you are both interested in reforms and things―but I couldn’t, for I don’t know your real name.
     It’s the silliest thing I ever heard of, not to know your name.  Mrs. Lippett warned me that you were eccentric.  I should think so!
                                                                                   Affectionately,
                                                                                                                JUDY.
     P.S.  On reading this over, I find that it isn’t all Stevenson.  There are one or two glancing references to Master Jervie.
(船やああい、ロング・レッグズ船長!
 止まれー! それでよーし! よー、ほー、ほー、ラム一本だ。何を私が読んでいると思います? この二日間というもの私たちの会話は海事・海賊関係のことばでいっぱいでした。『宝島』って本当におもしろくないですか? この本を読んだことがあるでしょうか、それとも子供の時分にはまだ書かれていなかったかしら? スティーヴンソンは雑誌連載してたった30ポンドしか得られなかったのです――偉大な作家になってもあまりもうからないみたいですね。学校の先生になろうかしら。
 手紙がスティーヴンソンだらけになってしまいごめんなさい。私の頭は目下スティーヴンソンでいっぱいです。ロック・ウィローの書庫を構成しているのはスティーヴンソンなんです。
 この手紙には二週間かかっていて、ちょっと長すぎるかなと思います。けれども、ダディー、細かいことを書いていないじゃないかと決して言わないでください。  あなたもここにいらしたらいいのに、と思います。そうすればみんな一緒に楽しい時を過ごせるでしょうに。私、自分のお友達同士が知り合いになってもらうのが好きです。  ペンドルトンさんに、ニューヨークであなたを知っているか聞いてみたかった――知っているかもしれないです。あなたはきっと同じような上級の社交界に出入りしているにちがいありませんから。そうして、あなたもジャーヴィスさんも社会改良などに興味をもっていますし――けれども、尋ねることができませんでした。だって本当の名前を知らないのですもの。
 名前を知らないなんて、こんな馬鹿みたいなことがあるでしょうか。リペット夫人があなたは変なおじさんだって私に注意しましたけれど、ほんとうにそうだわ!
                                      愛情深い ジュディー
 追伸 読み返してみると、全部がスティーヴンソンではないですね。ジャーヴィー坊ちゃまがちょこっと出ています。)

  冒頭の部分の英語の注釈を――Ship ahoy, Cap’n Long-Legs!: “Cap’n” (=Captain) は『宝島』に頻出しますが、 “ahoy” は一箇所 (ch. 30) しか出てこず、 “Ship ahoy” というフレーズも出てきません。 “Ship ahoy!” は、英和辞典にも載っている有名なフレーズで、「《他船への呼びかけ・通信で》おーいその船よー!」(リーダーズ)。本文冒頭の Avast!:  「《海》待て,やめ! [Du  houd vast  to hold fast] (リーダーズ)という語は、 ‘Avast there!’ cried Mr. Smollett.” (ch. 20); “ ‘Avast, there!’ cried Silver.” (ch. 28) 2回『宝島』に出てきます。そのつぎの Belay!は “ ‘Belay that talk, John Silver,’ he [George] said.” (ch. 29); “ ‘Belay there, John!’ said Merry.” (ch. 32) 2回。belay stop の意味だが、もともと海事用語で、索止め栓などに綱を巻きつけること、また、 Belay (there)! は《海・口》で「(おい)やめろ,それでよーし!」(リーダーズ)。

   しかし、それに続く“Yo, ho, ho, and a bottle of rum”  は『宝島』をもっと直截に連想させるフレーズです。

   『宝島』は語り手のジム・ホーキンズが、少年時代の冒険を大人になってから書いているという設定で、1700年代に書かれたことになっています。父親がやっていた宿屋に泊まることになった船乗りが急に歌いだし、その後何度も聞かされることになった昔の船乗りの唄のリフレインが “Yo, ho, ho, and a bottle of rum” なのでした。

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(p. 6)

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(p. 174)


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ジューディーとジャーヴィー――ジュディーと冒険(3) Judy and Jervie: The Adventurous Judy (3) [Daddy-Long-Legs]

2年生の8月10日付の手紙で、ヤナギの木の股から手紙を書いて、不朽の短篇小説のヒロインをうまくふるまわせることができない云々、ニューヨークにいるあなたに天国のような田舎のいくらかでも届けられたら云々、とダディー・ロング・レッグズに語っていたジュディーのもとへジャーヴィス・ペンドルトンがやってくるのは、たぶん8月の中旬、おそらく16日ごろ、いや16日だったのではないか、と推測されます(細かい傍証は省略)。8月10日の手紙は、スティーヴンソンへの言及〔「スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson」、ついでに「スティーヴンソンの4度目の言及 The Fourth Mention of R. L. S.」参照〕を含むもので、「wanderthirst 彷徨への渇望」を語った後、木曜日の黄昏時に戸口の踏み段に座って書いている手紙では、このごろ哲学的・思索的になってきていて、日常生活の瑣末な細部を記述することよりも、広く世界について語りたい気持ちになっているので、ニュースを書くのは難しいと前置きして、どうしてもニュースが知りたいならば、と家畜や近所の人々の動向を列挙しています。この抽象化や普遍化というのは風呂敷を広げるならば、アメリカ文学のひとつの特徴かもしれないのですけれど、日常的な細部を大事にすべしというリアリズム的な考えをジャーちゃんは持っていて、どうやらそれを折に触れてジュディーに伝えたがっているようでもあります(このへんはストレートには書かれていないのですが、ちょっととんで、最後のほうから引用すれば、4年生の4月4日の手紙では、孤児院を舞台にした新しい作品を書いていることを報告し、ロマン主義をやめてリアリストたることをジュディーは宣言します――“Guess where it's laid?  In the John Grier Home!  And it's good, Daddy, I actually believe it is―just about the tiny little things that happened every day.  I'm a realist now.  I've abandoned romanticism; I shall go back to it later though, when my own adventurous future begins.”(120)。ここでジュディー/ジーンは、冒険の未来とロマン主義に戻る可能性を担保しつつ、リアリズムから進むことを選択するという折衷的な姿勢、文学に冒険的な人生が反映されて初めて確かに成立するだろう「ロマン主義」を肯定するリアリストという立場を示しているとも言えるのでしょうけれど、とりあえず「日々起こるささやかなこまごまとしたこと the tiny little things that happened every day」 について書くことを尊ぶ立場を選択するわけです。ジャーヴィスが来る前の日曜日の手紙で、Mrs. Semple を “monotonous” と呼ぶ(これは2年生5月4日の手紙で “Our lives were absolutely monotonous and uneventful.  Nothing nice ever happened, except ice-cream on Sundays, and even that was regular.  In all the eighteen years I was there I only had one adventure--when the woodshed burned. ”とジョン・グリアー・ホームでの冒険のなさを指摘しつつ「単調」と呼んだのと通じています)すぐあとで、ここはジョン・グリアー・ホームとまったく同じよう[に狭い世界]だ(“It’s exactly the same as at the John Grier Home.")とジュディーは書きますが、スティーヴンソンの生き様に感動し、 “I want to see the whole world” (77) と漂白の思い wanderthirst とともに語っていたジュディーが、ジャーヴィスがやってくる前に感じていたのは、この土地の狭さだったわけです。81ページで言及される郵便配達のニュースのくだりは、 “the Great World” (81) と世界を大文字にし、すぐあとの “Their world is just this single hilltop”(81) と対照化しています。

  しかし、ジャーヴィスがやってきて、この単調で閉鎖的と思えた田舎は変容します。ふたりは「冒険」を体験します。“Such a lot of adventures we're having!  We've explored the country for miles, and I've learned to fish with funny little flies made of feathers.  Also to shoot with a rifle and a revolver.  Also to ride horseback--there's an astonishing amount of life in old Grove. ”(83) と8月25日の手紙でジュディーは書いています。まるで年取った馬のグローヴもジャーヴィスによって生気を与えられたかのようです。

  この前の『宝島』の記事を書きながら、読み直しながら、思い直していたのですけれど、ジャーちゃんこそが海賊言葉や船乗り言葉をジュディーと熱心に語り合う人間なのであり("We")、それは嗜好としては子供時代に愛読したらしい On the Trail (たぶんウェスタンと思われます)の線上にあるのであり、つまるところ、ふたりは似ています。えらく。名前もなにげに似てます(ジュディーは「ジューディ(ー)」に近く、ということはジャーヴィ(ー)に近いです)が、想像力を大事にするところも、ユーモアの精神 ("sense of humor") に富んでいるところも、そして、冒険心に充ちている(た)ところも――ジュディーは作品冒頭で、"adventurous little Jerusha" と語り手に形容されますが、ジャーヴィーは、ジュディーによって、"He seems to have been an adventurous little soul" と推測されていました。

  ジュディーとジャーヴィーは似ています。あるいは親子のように。だから、ジャーヴィスがジュディーの未来を暗示していると考える――文学的姿勢のみならず慈善運動とか社会主義とか――のはあんまり気分よくもないのですが(w)、先に大人になったジャーヴィスは、現実を見るまなざしを、単調を冒険に変えるふるまいとともに、ジュディーに伝えているのかなあ、と好意的に考えているところです。


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釣果の図 "Here Is a Picture of the One Fish I Caught" [Daddy-Long-Legs]

前の記事「ジューディーとジャーヴィー――ジュディーと冒険(3) Judy and Jervie: The Adventurous Judy (3)」は、実はこの題(「釣果の図」)で書き始めて、なんだか内容が題にそぐわないものになったので(まあそれもいいのですが)、分割しました。

  ということで、2年生のロック・ウィロー農場に8月中旬にやってきたジャーヴィー坊ちゃんとジュディーはふたりで乗馬をして周囲を散策したり、登山をしたり、徒歩旅行(long tramp) をしたり、射撃や釣りをしたり、キャンプをしたりします。そういう様子が、『宝島』に言及する前の、数日にわたる手紙には書かれています。

  直前の日曜日の手紙には、日曜に釣りに行くような人間は煮えたぎる地獄に落ちると信じているセンプル夫人の制止をさえぎり日曜日の礼拝をさぼって釣りに出かけ、昼には釣った魚を「キャンプファイア」で焼いて食べたことなどが報告されています。ジャーヴィスは小さい魚を4匹釣った (he caught four little ones) のでした。

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     Anyway, we had our fishing (he caught four little ones) and we cooked them on a camp-fire for lunch.  They kept falling off our spiked sticks into the fire, so they tasted a little ashy, but we ate them.  We got home at four and went driving at five and had dinner at seven, and at ten I was sent to bed―and here I am, writing to you.
     I am getting a little sleepy though.
                                                 Good night.
     Here is a picture of the one fish I caught.
(ともかく私たちは釣りをしました(あのかたは小さいのを4匹釣りました)。それを焚き火で焼いて昼食にしました。魚は刺した串から何度も火の中に落っこちたので、ちょっと灰くさい味がしましたが、でも私たちは食べました。4時に農場に戻り、5時には馬車で遠乗りに出かけ、7時に夕食をいただき、10時にもう寝たほうがいいと言われて――さて今こうして手紙を書いています。
  でも少し眠くなってきました。
                           おやすみなさい。
  これは私がとった一匹の魚の絵です。
  〔亀の図〕

   "the one fish (that) I caught" という、a fish でも one fish でも the fish でもなく the one fish とした英語は「釣った唯一の魚」という含み、他に「魚」は釣れなかった事実を示しているわけですが、shellfish とか jellyfish とか、compound でfish は「魚」ではなくて水産動物や魚介類を意味しうるけれど、「魚」と書いて亀が出てくるズッコケのギャップがユーモアなのだと思われます。


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トンズラの図 (豚走) Runaway Pigs [Daddy-Long-Legs]

ジュディーはなんだかんだいってあしながおじさんの指示と専制により、1年生から4年生までず~っと基本6月から9月の3ヶ月間ロック・ウィロー農場に行かされるわけですが、1年生の6月の土曜日の、これから執筆に燃えるぞ~という手紙の追伸で、豚が初めて言及されます。

PS. You should hear the frogs sing and the little pigs squeal and you should see the new moon! I saw it over my right shoulder.
(カエルの歌声と子豚の鳴き声をお聞かせしたい、そして新月をお見せしたいわ! 右の肩越しに見ました。)

  新月を右の肩越しに見るとラッキーというのは欧米の迷信です。ウィラ・キャザーの中篇小説 A Lost Lady のなかで、フォレスター夫人が ""Oh, I saw it over the wrong shoulder!" と言ったときに、wrong shoulder は left で正しいのは right です。

  豚と蛙が手紙を書いているあいだも鳴いているのかわかりませんが、いまは夜の8時半ごろで、起床は5時ということで早く就寝しようとしているようです。

  その次の、農場の仕事と周囲の様子が描かれる7月12日付の手紙では、ブタの頭数が示されています。――

The farm gets more and more entertaining. I rode on a hay wagon yesterday. We have three pigs and nine little piglets, and you should see them eat. They are pigs! We've oceans of little baby chickens and ducks and turkeys and guinea fowls. You must be mad to live in a city when you might live on a farm.
It is my daily business to hunt the eggs. I fell off a beam in the barn loft yesterday, while I was trying to crawl over to a nest that the black hen has stolen. And when I came in with a scratched knee, Mrs. Semple bound it up with witch-hazel, murmuring all the time, 'Dear! Dear! It seems only yesterday that Master Jervie fell off that very same beam and scratched this very same knee.'
The scenery around here is perfectly beautiful. There's a valley and a river and a lot of wooded hills, and way in the distance a tall blue mountain that simply melts in your mouth.
We churn twice a week; and we keep the cream in the spring house which is made of stone with the brook running underneath. Some of the farmers around here have a separator, but we don't care for these new-fashioned ideas. (Penguin Classics, pp. 45-46)
(農場はますます面白くなっています。昨日は干草のワゴンに乗りました。3匹の親ブタと9匹の子豚がいますが、食べっぷりをお見せしたいわ。ほんとに豚みたいなんです! 小さなヒヨコやアヒルやホロホロチョウが山のようにいます。農場暮らしができるのに都会暮らしをするのは気がヘンだと思います。
  タマゴを探すのが私の日課です。昨日、黒いメンドリが産みつけた場所を探して納屋の二階を這っていたときに、ハリを踏みはずして落っこちてしまいました。ヒザ小僧をすりむいて家に戻ったら、センプル夫人がハシバミをつけて包帯を巻いてくれました。そして、その間ずっと、「まあ! まあ! ほんの昨日のような気がすること。ジャーヴィー坊ちゃまもちょうど同じハリから落ちて、ちょうど同じヒザ小僧をすりむいたのよ」とつぶやいていました。
  周囲の景色は完璧に美しいです。谷あり川あり、そして木の茂った山もたくさんあります。はるか遠くには、口に入れたら溶けてしまいそうな高くて青い山があります。
  週二度攪乳します。クリームは、下を小川が流れる石造りの貯蔵小屋に保存します。近くの農家では脱脂機を持っているところもありますが、私たちはそういう新式の考えは好みません。)

  そして、1年後の2年生の8月10日のあとの木曜日の手紙で、ブタの頭数は変わっておらないのですが、9匹の子豚のうち一匹がいなくなった事件がニュースのひとつとして書かれています。(哲学的になって、世の中全般を論じたい気分なので、なかなか日常の瑣事に頭がむかわない、という旨の前置きをしたあとのニュース報告の冒頭です)。

Our nine young pigs waded across the brook and ran away last Tuesday, and only eight came back. We don't want to accuse any one unjustly, but we suspect that Widow Dowd has one more than she ought to have. (78)
(このあいだの火曜日に、うちの9匹の若いブタが小川を渡って逃げ出しました。そして8匹だけが戻りました。不当に人を訴えたくはありませんが、ダウド未亡人のところに自分の持ち数より一匹多くいるのではないかと疑っています。

  頭数は1年生のときと変わっていないのですが、子豚は little pigs / piglets から young pigs に成長したようです。しかし、たぶん成長したがゆえに逃亡をはかったとw。

  で、ブタが遁走する図(豚走図)ですが、いなくなった一匹は、もとから切れたかたちで描かれておるのでした。

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後足だけが描かれ、ヅラが見えません。

  ところでトンズラというのは豚面ではなくて、トンは豚走いや遁走、ズラは「ずらかる」のズラのようです。がっかし。

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ハミングピッグ Humming Pig <http://www.hummingpig.jp/> 〔養豚をより楽しく!より豊かに!鼻歌を歌いながら、楽しく養豚したい! 心と経営の豊かさを目指して、養豚家の皆様を応援するハミングピッグのトップページ。養豚関係サイトのリンク 現在のリンク数 364で同様サイト中 リンク数日本一

友貴千里のこぶたざってん <http://www.yukisenli.com/index.htm> 〔世界のブタグッズ・手作りアクセサリーの通信販売〕

ブタドン.コム <http://www.butadon.com/> 〔十勝の豚丼検索サイト〕

Willa Cather, A Lost Lady (1923) E-text at Project Gutenberg of Australia <http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200451.txt> 〔オーストラリアの独自のグーテンベルク〕


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どくろ図――髑髏と交差骨 Jolly Roger: Skull and Crossbones [Daddy-Long-Legs]

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   『あしながおじさん』初版のセンチュリー版だと、99ページ下の釣果の亀の図に続いて100ページの上に描かれて、次の手紙のスティーヴンソンと『宝島』の話の導入になっているのが、頭蓋骨 skull とその下に交差した脚の骨 crossbones の図、17世紀にいわゆるジョリー・ロジャーとして海賊旗のデザインとなり、19世紀前半には劇薬等のしるしとなり、19世紀後半には大学のフラタニティー fraternity やソロリティー sorority などの「秘密結社」、はたまた運動チームの記章としても盛んに使用されるようになったもの。いまや旗のほうは通販でも売っています――

Jolly-Roger-2191.jpg
"Jolly Roger flag" Playwoodtoys.com: Traditional wooden heritage toys Ipswich Suffork <http://shop.playwoodtoys.com/the-armoury-c-24.html>

    5英国ポンド。

  辞典・事典類を見ると、海賊旗 Jolly Roger については、黒字に白く骨を抜いたのが一般的とされていますが、語源とともに諸説あって、赤地の旗がもともとで、それにただの黒旗、さらに英国旗と3旗を装備していたのだとか、なんだとか、かんだとか、諸説フンプンよくわかりません(プンプン)。いちおう次のサイトが面白いおかしかったです――

☆"Pirate Flags" in Internationa Talk Like A Pirate Day <http://www.squidoo.com/International-Pirate-Day>

☆・・;・・・ううむ、不明になりました。かわりにWikipedia の "Jolly Roger" <http://en.wikipedia.org/wiki/Jolly_Roger>

   ウィキペディアのついでで "Skull and Bones"
Skull&Bones_logo.jpg
<http://en.wikipedia.org/wiki/Skull_and_Bones> はイェール大学のフラタニティーの記事です。挿絵に載っている322という番号というのはなんなのでしょう(謎)。スカル・アンド・ボーンズというのは、フィッツジェラルドの『楽園のこちらがわ This Side of Paradise』 (1919) にも出てくる、なかば公然の秘密結社で、政界・財界にネットワークを持っているみたいなことが昔から言われているフラタニティーのひとつです。

  ジュディー/ジーンが購入したスティーヴンソン全集だと勝手に自分が想定しているThistle Edition (スクリブナーズ版)も、イギリスのエディンバラ版も、『宝島』は冒頭の地図以外は挿絵はなく、さみしいかぎりなのでした。

  んが、たとえば『あしながおじさん』の出る前年1911年にスクリブナーズ社から出た、N. C. Wyeth 挿画の版(E-text <http://www.archive.org/stream/treasureisland00steviala#page/n5/mode/2up>)は、表紙絵にスカル&ボーンズの海賊旗を入れていたようです(ウィキペディアによると)。――

Treasure_Island-Scribner%27s-1911.jpg
image via "Treasure Island - Wikipedia" <http://en.wikipedia.org/wiki/Treasure_Island>

    まあ、ジュディーが描いたジョリー・ロジャーに似ているような(ってみんな似るのでしょうが)。

  もしかして、ヴァッサー大学のソロリティー(女子友愛団)とひそかにからんでいるのではないかと思って調べたのですけれど、少なくとも現在のQ&A では、(問)ヴァッサー大学にフラタニティーやソロリティーはありますか? に対して、(答)ヴァッサーにグリーク・システム (Greek system)はありません、ということでした。

  (グリーク・システムというのは、「ガンマ・ファイ・ベータ」とか「カッパ・アルファ・シータ」とか、ギリシア文字で示されるフラタニティーやソロリティーの全体を呼ぶことばです。ヴァッサーは、学生の階層的なありようを嫌ったので大学結社組織を持たなかったというようなことをどこかで読んだような気もするのですが、気のせいかもしれません(日本語ウィキペディアに「フラタニティとソロリティ」という項目がいつのまにかできていました。活字で読める古典的な本は、中公新書の綾部恒雄『アメリカの秘密結社』だと思います。)

  で、がっかりしました。おしまい。


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ロング・ジョンとジョン・スミスの脚 Legs and Long John and John Smith [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』のヒーロー、ジャーヴィス・ペンドルトンが騙るジョン・スミスという名前は、日本で言えば山田太郎や鈴木一郎みたいな、姓・名ともにのっぺらした名前で、あからさまな虚偽性に反発してジュディーは、1年生の最初の手紙で、ジョン・スミスはないやろー、もうちょっと個性のある名前をどうして選ばなかったの、とか書くわけです。―― "But how can one be respectful to a person who wishes to be called John Smith?  Why couldn't you have picked out a name with a little personality?  I might as well write letters to Dear Hitching-Post or Dear Clothes-Pole." (Penguin Classics 13)

  いっぽう John は 、ジュディーの頭のなかではJohn Grier Home と作為的に重なって、イヤな名前かもしれません。が、Jervis や Judy たちと J で響きあってもいます。

  ところでジャーちゃんとジョン・スミスが似ていることは、――スミスシマルハゲみたいな妄想を振り払いつつ――ジュディーによって何度も示唆されています。1年生の5月30日の手紙で、初めてキャンパスにやってきたジャーヴィスに触れて、"in short (in long, perhaps I ought to say; he's as tall as you)" (40) と書きますし、2年生8月にジュディーのいるロック・ウィロー農場にやってきたジャーヴィスについて、"that great, big, long-legged man (he's nearly as long-legged as you, Daddy)" (83)  と、やっぱりダディーと比べて、同じくらい足長だと書いています。カッコの中に入っているところが怪しいです。読み返してみて、ジュディーはまだ二人が同一人物とは気づいていないと結論しましたけれど、読者はどうか。読者への作者からのヒントであるかもしれません。単に「背高」ではなくて「足長」とまでいっているところがヤバイ感じもします。

  さて、『宝島』についての手紙の冒頭で、ジョン・スミスは "Cap'n Long-Legs!" と呼びかけられます (86; Century 初版で 100)。

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   この手紙の終わりのほうは、実名を知らされないでいることに対する愚痴がまた出てきます。このあいだ訳したので手紙の日本語訳をのっけます。――

船やああい、ロング・レッグズ船長!
 止まれー! それでよーし! よー、ほー、ほー、ラム一本だ。何を私が読んでいると思います? この二日間というもの私たちの会話は海事・海賊関係のことばでいっぱいでした。『宝島』って本当におもしろくないですか? この本を読んだことがあるでしょうか、それとも子供の時分にはまだ書かれていなかったかしら? スティーヴンソンは雑誌連載してたった30ポンドしか得られなかったのです――偉大な作家になってもあまりもうからないみたいですね。学校の先生になろうかしら。
 手紙がスティーヴンソンだらけになってしまいごめんなさい。私の頭は目下スティーヴンソンでいっぱいです。ロック・ウィローの書庫を構成しているのはスティーヴンソンなんです。
 この手紙には二週間かかっていて、ちょっと長すぎるかなと思います。けれども、ダディー、細かいことを書いていないじゃないかと決して言わないでください。  あなたもここにいらしたらいいのに、と思います。そうすればみんな一緒に楽しい時を過ごせるでしょうに。私、自分のお友達同士が知り合いになってもらうのが好きです。  ペンドルトンさんに、ニューヨークであなたを知っているか聞いてみたかった――知っているかもしれないです。あなたはきっと同じような上級の社交界に出入りしているにちがいありませんから。そうして、あなたもジャーヴィスさんも社会改良などに興味をもっていますし――けれども、尋ねることができませんでした。だって本当の名前を知らないのですもの。
 名前を知らないなんて、こんな馬鹿みたいなことがあるでしょうか。リペット夫人があなたは変なおじさんだって私に注意しましたけれど、ほんとうにそうだわ!
                            愛情深い ジュディー
 追伸 読み返してみると、全部がスティーヴンソンではないですね。ジャーヴィー坊ちゃまがちょこっと出ています。

  『宝島』に出てくる船長といえば誰でしょう。いえ、何人もいるのですけれど、いちばんの海賊船長。ヒント・・・・・・頭文字J . S. 

   ジョン・シルヴァーです。はじめ「一本足の船乗り "the sea-faring man with one leg" ; "the one-legged sea-faring man"」 (5, 6, 8, 12, 21) と言及される謎の人物ですが、主人公のジムは、トリローニーが手紙に書いてきたロング・ジョン・シルヴァーという片足の人物がその人ではないか、と不安を覚える (I had taken a fear in my mind that he [Long John] might prove to be the very one-legged sailor whom I had watched for so long at the old 'Benbow.'" [60])・・・・・・。やがてロング・ジョンはキャプテン・シルヴァーと呼ばれるようになる。

   ロングとジョンとレッグがふたつのテクストで連鎖するのは偶然なのでしょうか。まぁ、偶然かもしれません。でもジュディーの頭の中かジーン・ウェブスターの頭の中で交錯が工作されていると考えてみるのもおもしろいかなあと。

  冒頭のジョリー・ロジャー図は、『宝島』を暗示すると同時に、すぐあとの宛名 "Cap'n Long-Legs" のシルシのようにも見えますし、だとすれば、スミスを海賊としていることにならないでしょうか。

   


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多弁にて失礼 Loquaciously Yours [Daddy-Long-Legs]

入学してまもなくの10月25日の手紙のむつかしげな結語は、ラテン語の勉強を反映しているのだと思っていました。

You only wanted to hear from me once a month, didn't you?  And I've been peppering you with letters every few days!  But I've been so excited about all these new adventures that I must talk to somebody; and you're the only one I know.  Please excuse my exuberance; I'll settle pretty soon.  If my letters bore you, you can always toss them into the waste-basket.  I promise not to write another till the middle of November.
            Yours most loquaciously,
                                  JUDY ABBOTT.
(あなたは月に一度の音信をお求めになったのですよね? なのに私は二、三日おきの手紙をあなたに浴びせかけています! でも私はこの新しい冒険にすっかり興奮していて誰かに話さずにはいわれないし、知っている人はあなただけなのですもの。どうか頻頻の手紙をお赦しください。すぐに落ち着くと思います。手紙が退屈でしたら、いつでも屑籠にほうってくだってけっこうです。11月のなかばまでこの次は書かないことをお約束します。
      きわめて多弁家なる
                  ジュディー・アボット

  loquaciously は eloquence (雄弁、能弁)と同じく、ラテン語の loquor (英語のspeak)を語根とする「学識語 learned word」ですが、eloquence よりもポピュラーではない、むつかしい言葉です。ジュディーは前後の手紙でラテン語の勉強についても言及しており(実は学年末の試験で幾何学とラテン語を落第して再試を受けることになるのですけれど)、ラテン語を勉強しているんですよーということをなにげに訴えているのかなあ、と思っておりました。

  WEB上のあまたある辞典に、プリンストン大学のデータベース WordNet を利用した Lexicus  (Lexic.us) というサイトがあります。なるたけ簡潔な定義を挙げたうえで、類語や関連リンクを並べた、ちょっとスマートな辞典です。Lexic.us で loquaciously を引くと、"Literary usage of loquaciously" という見出しがあって、5つ文学作品における用例が挙がっています。――

1. Daddy-Long-Legs by Jean Webster (1912)
"If my letters bore you, you can always toss them into the waste-basket I promise not to write another till the mid* die of November. Yours most loquaciously ..."

2. A Guide to the Best Fiction in English by William Winter, George Saintsbury, Ernest Albert Baker (1913)
"... seemingly, ensues upon her being a feather-brained fool, but which she loquaciously ascribes to Fate and a ruthless appetite for "pretty things. ..."

3. The Contemporary Review (1874)
"Most truly and loquaciously yours, "EB Had I been challenged so stoutly—nay, charged home, at the point of the pen—in our present day, I should certainly ..."

4. British History in the Nineteenth Century (1782-1901) by George Macaulay Trevelyan (1922)
"... waddling slowly and loquaciously along all the roads to London for a hundred miles round, between August and October, feeding on the stubble of the ..."

5. The Living Age by Making of America Project, Eliakim Littell, Robert S. Littell (1922)
"We can watch the ceremony of ducking a scold in a pond, the peddler opening his pack and loquaciously appraising his wares, the usurer, the coal-hawker, ..."
〔"Loquaciously: Definition with Loquaciously Pictures and Photos" <http://www.lexic.us/definition-of/loquaciously>〕

  冒頭に挙がっているのは『あしながおじさん』でした。それより古いのは3番です(そしてこのふたつ以外は、手紙ではない、ふつうの文章での使用です)。この1874年と書かれている文章は、調べてみると、イギリスの女性詩人Elizabeth Barrett Browning エリザベス・ブラウニング (= E. B.) の書簡集で、編者のS. R. Townshend Mayer による注釈がはさまったもの〔 Letters of Elizabeth Barrett Browning  [Letters of Elizabeth Barrett Browning Addressed to Richard Hengist Horne, with Commnets on Contemporaries], Vol. II. (London: Richard Bentley, 1877) <http://www.archive.org/stream/lettersaddresses02browuoft#page/34/mode/1up>〕。

  いまはWEB上でいろんな人が "loquaciously yours" とか "Yours loquaciously" とか使っていて、"Loquaciously yours, Elle" という名前のブログもあったり(Elle さんの説明を見てなるほどと思ったのですけれど、 loquacious は簡単な英語だと wordy ですね)して、手紙のコトバとしてある程度有名になっているようですけれど、いつごろからポピュラーになったのかしら。『あしながおじさん』によるのかしら、などと考えてしまいます。

  そう思いながらジュディーをまねてスティーヴンソンの手紙を読んでいたら、出てきました、出てきました。

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Letter to W. E. Henley, April, 1882 (Thistle Edition XXIII 281)

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WordNet <http://wordnet.princeton.edu/>

Lexicus - Word Definitions for Puzzlers and Word Lovers [Lexic.us] <http://www.lexic.us/>

 


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D. R. L. S.: 親愛なるロバート・ルイス・スティーヴンソンちゃま Dear Robert Louis Stevenson [Daddy-Long-Legs]

直前の記事「多弁にて失礼 Loquaciously Yours」の "loquaciously" が、スティーヴンソン Robert Louis Stevenson, 1850-94 からの幻の引用であるといえるなら、これは、さらにほのかにスティーヴンソンは『あしながおじさん』のなかに響いているかもしれません、という記事でございます。

女子寮の話から火馬、火の車馬、火事馬、消防馬、消防馬車馬へ Fire Horses」と「ヴァッサー女子大 Vassar Female College」で書いたように、『あしながおじさん』の大学のモデルになっているヴァッサー女子大学に、ジーン・ウェブスターが1897年秋に入学したときには、ストロング・ハウス Strong House (1893)  とレイモンド・ハウス Raymond House (1897) という二つの寮がありましたが、さらに Lathrop House (1901) と Davison House (1902) が同じ意匠で建設され、4つの寮が二の字二の字の下駄のあと、という感じで、二つずつ向かい合って並ぶことになるのでした。

  設計者のフランシス・アレンというのは、調べてみると Francis R. Allen (1844-1931) でした〔archINFORM <http://eng.archinform.net/arch/73356.htm> 〕。マサチューセッツ工科大学を卒業後、パリに留学した建築家で、東部で設立した会社のAllen and Collins は、大学や高校の建物を数多く建造したようです。この記事によると、ヴァッサーでは12の建物をつくったようです。

  で、本郷の農学部と法文学部の建物のように、というタトエがどれだけ有効かわかりませんけれど、おんなじ形状の建物が並んでいるので、どれがどれだかわからなくなる、あるいは特に新入生は混乱する、ということがあったようで、ヴァッサー女子大のWEBページによると、建物の並びを覚えるための文句がヴァッサーにはあった(ある)のだそうです。次の文章は、Vassar Encyclopedia 内の「ヴァッサーの伝統」を記述したページの一節です。――

Some traditions have become legends—the Lantern Festival, the Senior Parlor, trips to Lake Mohonk and Slabsides, boat rides on the Hudson, the Hall plays, Class Day, and Sporting the Oak. Some of these are still listed in the current Student Handbook, even though nobody at Vassar does them. "Dear Robert Lewis Stevenson," said the 2004-05 handbook, is "the traditional way of remembering the quad dorms by first letters—Davison, Raymond, Lathrop, and Strong." Current Vassar students seem to have no difficulty remembering the names of the quad dorms, so this "tradition" has fallen into disuse. Likewise, has anyone on campus witnessed something called "Sporting the Oak"?
〔"Vassar Traditions - Vassar College Encyclopedia" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/traditions/index.html>〕

(伝統の中には伝説になったものもある――ランタン・フェスティヴァル、シニア・パーラー、モホンク湖とスラッブサイズ湖(?)への旅行、ハドソン河のボート、ホールでの芝居、クラス・デー、スポーティング・ジィ・オーク(面会謝絶表示)。この中には、今はヴァッサーの誰も行なっていなくともなお、現行の学生ハンドブックに記載されている。2004-2005年版ハンドブックには、「ディア (Dear)・ロバート (Robert)・ルイス (Lewis [sic])・スティーヴンソン (Stevenson) というのがデイヴィソン (Davison)、レイモンド (Raymond)、レイスロップ (Lathrop)、ストロング (Strong) という四つの寮を頭文字で覚える伝統的な方法」であると書かれている。今のヴァッサーの学生たちは、寮の名を覚えるのに困難を覚えないようなので、この「伝統」は用いられなくなっている。同様に、キャンパス内で「スポーティング・ジィ・オーク」と呼ばれるものが目撃されているかどうか。

  地図写真を添えたこのあいだの記事「ヴァッサー女子大 Vassar Female College」では、「右上から時計回りに、Lathrop House (1901)、Strong House (1893)、Raymond House (1897)、Davison House (1902)」と名前を記しましたが、西側の北・南、東側の北・南、という順序で D(ear) R(obert) L(ouis) S(tevenson) なのでした。

(1) Davison  (1902)          (3) Lathrop (1901)

(2) Raymond  (1897)        (4) Strong (1893)

  いわゆる mnemonic device とか mnemonic system とか呼ばれる記憶法の一種です。

  ということで、スティーヴンソンは意外なところでヴァッサーに密着しておったのでした。ジーン・ウェブスターが卒業後の1902年に Davison が加わるわけですが、それまでの R. L. S. でも Robert Louis Stevenson と呼ばれていたのかどうかはわかりません。さらに前に二つしか寮がなかったときに Robert Stevenson と唱えられておったかどうか・・・・・・それはなかろうと思いますw  けれども、1901年度卒業生だったウェブスターが10年後に『あしながおじさん』を書いたときには、この「伝統」は定まっていたかもしれません。しかもDear は手紙の書き出しの常套ではないですか。

   『あしながおじさん』の舞台となる女子大を、ロバート・ルイス・スティーヴンソンは幽霊のように姿なく漂っているかもしれないのです。 

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"Vassar Female College" (Harper's Weekly, March 30, 1861) image via Civil War <http://www.sonofthesouth.net/leefoundation/civil-war/1861/march/vassar-college.htm>  ヴァッサー女子大の創立年。上の図は建築のプランの絵で、実際に教育の場所としてthe Observatory ができるのは1864年、Main Building が完成するのは1865年だったようです。

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スティーヴンソンがらみの記事――

スティーヴンソンからテニソンへ From Stevenson to Tennyson」 
スティーヴンソンの最初の言及 The First Mention of R. L. S.
ジュディーと冒険 The Adventurous Judy
スティーヴンソン全集 Works of Robert Louis Stevenson
スティーヴンソン、ヴァイリマ Stevenson, Vailima
スティーヴンソン全集(アメリカのアザミ版) The Thistle Edition of Robert Louis Stevenson's Works
スティーヴンソンの手紙 Letters of Robert Louis Stevenson
ハッピー・ソート(幸せの想い)――スティーヴンソンの5度目の言及 Happy Thought: The Fifth Mention of R. L. S.
『宝島』――スティーヴンソンの6度目の言及 (1) Treasure Island: A Sixth Mention of R. L. S. (1)
『宝島』の海賊の唄 A Pirate Song from Treasure Island
ジューディーとジャーヴィー――ジュディーと冒険(3) Judy and Jervie: The Adventurous Judy (3)
どくろ図――髑髏と交差骨 Jolly Roger: Skull and Crossbones
ロング・ジョンとジョン・スミスの脚 Legs and Long John and John Smith
多弁にて失礼 Loquaciously Yours

 


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遠藤寿子と『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (5) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]

以前の記事「『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (3) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs」で書いたように、 東健而によるDaddy-Long-Legs の本邦初訳の 『蚊とんぼスミス』は、初版単行本刊行10年後の1929(昭和4)年、改造社の世界大衆文学全集の第34巻として東自身が編集・翻訳した『世界滑稽名作集』におさめらるかたちで再刊されました。この巻は第16回配本で、発行日は1929年6月3日となっていますが、翌年の1930年9月20日発行で同じ世界大衆文学全集の33回配本(第61・62巻)として遠藤寿子訳『ヂェイン・エア』上・下巻が出版されています。遠藤寿子による『あしながおぢさん』の翻訳が岩波文庫から出るのは1933(昭和8)年8月5日のことです。

  先の記事で引用した遠藤寿子の個人的回想は、(1) この本を知るきっかけは、書店でたまたま奇抜なタイトルに惹かれて手に取ったのだったこと、(2) 「ちょうどその頃、わたくしは、イギリスの長い小説を訳したあとで〔『ジェーン・エア』のことだと思われます――引用者〕、軽いものを訳してみたいと思っていた矢先にこの作品を知りましたので、これを翻訳してみようと思いた」ったこと、 (3) 高田とし子によるラジオ放送の講読と解釈や、東京女子の岡田美津による注釈書があったこと、(4) 「岩波書店から出版していただくことになったとき、原題をどういう日本語の題にしたらよいかということになりました。(原題 "Daddy-Long-Legs" というのは、アメリカではたいへん足の長いクモのこと。)結局、当時編集部の布川角左衛門さんが、いろいろお考えくださった末に『あしながおじさん』という題にきまった」ということ、など率直に語っています。また、文体についての苦労も次のように記しています。

この作品の軽妙な手紙の文章を日本語にするということは、けっしてやさしい仕事ではありません。しかも、お嬢さん育ちの娘の書く手紙と孤児院育ちの娘の書く手紙とでは、日本語までしておのずから、そこにちがった調子があるわけで、わたくしは、それに、ずいぶん苦心をいたしました。

  先の記事を書いたころ、遠藤寿子は東健而による既訳『蚊とんぼスミス』を知らなかったのだろうか、という、修辞疑問というのでもなく素朴な疑問がありました。

  モーリちゃんの父が個人的に『蚊とんぼスミス』を知ったのは旺文社文庫によります。旺文社文庫の『あしながおじさん』の訳者の中村佐喜子が「あとがき」の最後に、「ジーン・ウェブスターの著作を訳して早くからこの国にご紹介して下さった先輩がたのお名前を記して、敬意をあらわします」とリストアップした邦訳の並びは、どういう順序なのかよくわからんのですが、『蚊とんぼスミス』は『あしながおじさん』の訳のはじめではなくおしまいに挙がっていたのでした(231ページ)。

『あしながおじさん』 遠藤寿子 (昭8・昭25岩波文庫 昭25岩波少年文庫)
『あしながおじさん』 川端康成・野上彰 (昭30創元社)
『あしながおじさん』 厨川圭子 (昭30角川文庫)
『あしながおじさん』 松本恵子 (昭29新潮文庫)
『足ながおじさん』 中村能三 (昭30若草文庫)
『蚊とんぼスミス』 東健而 (昭8玄文社)  〔以上 Daddy-Long-Legs の訳です〕
『続あしながおじさん』 遠藤寿子 (昭30岩波少年文庫)
『続足ながおじさん』 中村能三 (昭30若草文庫)
『続あしながおじさん』 村岡花子・町田日出子 (昭34角川文庫)
『若き世界』 村上文樹 (昭17教文館)  〔以上 Dear Enemy の訳です〕
『女学生パッティ』 遠藤寿子 (昭30若草文庫)〔Just Patty の訳です〕

  いっぽう、「読書のおと(ジーン・ウェブスター作品のページ)」というWEBページの「おちゃめなパッティ」の紹介ページ <http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nt2webster.html#justpatty> を読んで、「あとがきによると訳者の遠藤壽子さんはそれまで「蚊とんぼスミス」という邦題だった名作を「あしながおじさん」に変更した方だそうです」と書かれていたので、遠藤寿子はパティーの訳のあとがきで東健而の訳に触れているのかしら、とも思ったのでした。

 その後、復刊ドットコムの『おちゃめなパッティ』を注文し、「あとがき」(じつは「解説」[pp. 315-22])が遠藤寿子によるものではないこと(若草文庫のほうに訳者によるあとがきなり解説なりがあったかは不明)がわかりました。復刊を応援したかたの、たいへん熱っぽい、いい解説だと思うのですけれど、以前の訳に触れているのはつぎの箇所です。――

遠藤壽子さんは、そのウェブスターの三作品を翻訳している。遠藤さん=ウェブスター、という印象は外れていない。しかも、それまでは「蚊とんぼスミス」という、ほとんどギャグのようだった邦題を、歴史に残る「あしながおじさん」と名づけた、まさに生みの親でもある。訳業は意外に少なく、ほかには『ジェイン・エア』や、『四人の姉妹』など数冊しかないことも、寡作さにおいてウェブスターと重なる。〔佐藤夕子「解説」『おちゃめなパッティ』(ブッキング、2004年)316-7〕

三作品において遠藤寿子を筆頭に掲げるのは、旺文社文庫と同じ気持ちなのかもしれません。なお、戦前の村上文樹による『若き世界』(昭和17年)というのは、Dear Enemy の訳だと、つい最近確認しました。

  で、自分は、遠藤寿子の訳業を批判する気はサラサラ毛頭なく、また、「蚊とんぼスミス」がギャグのようだということもなかば同意するのですけれど、東健而による「滑稽文学」(東自身の著作とのつながりを考えれば、これは「ユーモア文学」というのに等しいと思われます)としてのウェブスター受容と翻訳があってこそ遠藤寿子の日本語の「苦心」がそれなりに成就したのではないか、という気はします。

  (なお、上記の旺文社文庫の中村佐喜子の訳はたいへん丁寧なものだと感心するのですが、「あとがき」によれば、昭和五、六年に彼女が「まだ学生で寮にいたころ」に「友人と辞書を引き引き読んだなつかしい小説」だとのことです。旺文社から話のあったときに引き受けたのも、その思い出のあるためでしたが、「いざ訳文にしようとするとこれが手紙体であるために予期以上の苦労を」した、と中村は記します。――「要点をあげると、――新鮮で、明快で、鋭敏な文体の中に巧まないユーモアを出すこと。しかも恩を受けている相手にたえず感謝や尊敬をこめた、上品な手紙であること――〔・・・・・・〕」〔「あとがき」230ページ〕)

  以下、作品冒頭と2年生の夏(8月10日・・・・・・これの諸訳は8月3日の記事「デビルダウンヘッド (1)  Devil Down-Head」で並べました)と卒業後と、三つの箇所の東健而と遠藤寿子の訳文を並べてみます。東の訳は手元にある1929年の改造社大衆文学全集版(原文の旧漢字を新字にあらため、ルビは原則割愛)、遠藤の訳は1961年の岩波少年文学全集版を使用します。

A1    
   蚊とんぼスミス
                    ウヱブスター
      なさけない水曜日

  毎月の第一水曜日はほんとに怖ろしい日でした。びくびくもので待ち構へなければならない日でした。一生懸命勇気を出して我慢しなければならない日でした。そして大急ぎで忘れて了ふ日でした。床は隅から隅まで汚点一つないやうに拭いて、椅子と言ふ椅子は一つ残らず塵一つないやうにして、そして寝床(ベッド)はどれもこれも小皺一つないやうにしなければなりませんでした。(8)

E1
    あしながおじさん
                  ウェブスター
     「ゆううつな水曜日」

  毎月の第一水曜日は、ほんとうにおそろしい日であった。――びくびくしながら待っていなければならない、勇気を出してこらえなければならない、そして、大いそぎで忘れてしまわなければならない日であった。どこの床も、すみからすみまで清潔にして、いすといういすは、ちりひとつないように、ベッドというベッドは、小じわひとつないようにしておかなければならない。(5)

A2
  八月十日
  蚊とんぼ様
拝啓、牧場の水溜りの側(わき)の柳の樹の二段目の股から申し上げるのよ。下には蛙が鳴き、頭の上では蝉が歌つてゐます。さうして小さな栗鼠が二匹樹の幹を矢のやうに駈け上つたり駈け下りたりしてゐます。あたしもう一時間も前から此処へ来てゐるのよ。大変工合の良い樹の股なのよ。長椅子の蒲団を二枚持つて来て被せてからは尚更良い工合です。あたし不朽の名作を書く積りでペンと原稿用紙を持つて此処へ登つたのよ〔・・・・・・〕。(127)

E2
    八月十日
  あしながおじ様
  牧場の水たまりのそばに立っている、ヤナギの木の二番目のまたから申しあげます。下にはカエルがなき、頭の上にはセミがうたっています。小さなリスが二匹、幹をかけあがったり、かけおりたりしています。あたしはもう一時間も前からここにきていますの。たいそうすわりぐあいのいい木のまたで、長いすのクッションを二枚しいてから、なおさら、ぐあいがようございます。あたしは、ペンと便箋をもって、不朽の名作を書こうと思って、ここへきたのですけど〔・・・・・・〕。(86)

A3 
  蚊とんぼ様、あたしは一体如何したら良いのでせう?
                               ジュディー
  十月六日
  大好きな蚊とんぼ様
  えゝ、行きます、行きます――今度の水曜日の午後四時半に必(きつ)と行きます。勿論、路は解ります。あたし紐育へは三度も行つたことがあるんですもの、そして赤ん坊ぢやないんですもの、解らないことがあるものですか。あたし本当にあなたに会ひに行くのだとは如何しても思へないのよ――あたし余り永い間あなたのことを思つてばかり居たもんだから、あなたが血と肉で出来た、手で触れる人のやうな気がしないのよ。(220-221)

E3
  あなたのお考えでは、あたしは、いったい、どうしたらいいのでしょう?
                               ジューディ
    十月六日
  おなつかしい、あしながおじさん
  ええ、きっとまいります! 来週水曜日、午後四時半にきっとまいります。もちろん、道はわかります。あたし、ニューヨークへは三度も行ったことがあるんですもの。それにあたし、赤ちゃんじゃありませんわ。あなたにお会いしに行くなんて、なんだかほんとのことに思えませんの。あたしはほんとに、ほんとに永い間、あなたのことを、ただ考えてばっかりいました。だから、あなたが血と肉でできて、手でさわることのできるほんとの人のように思えませんの。(146)

  くりかえしますが、遠藤寿子が東健而の訳をパクっているとかいうつもりもヘアほどもありません(そういうのでいえば、遠藤訳とその後の訳のあいだの近さのほうが東訳と遠藤訳の近さよりも近い場合もあります)。それでも、東の訳を知っていたのは確かでしょう。そして、やや滑稽に走るきらいのある東健而的なスタイルと、まっすぐな女の子の真摯なコトバとしてのスタイルと、そのあいだでバランスをどうとるか、が、「苦心」なのだ、と思うのです(けれど、もちろん、原文がマジメにオカシイ文章なのです)。

  最後に、もう一度東健而の「訳者より読者へ」を引いておきます。――

「蚊とんぼ」――"Daddy Long-Legs"[ママ]の著者ジャン[ママ]・ウヱブスター Alice Jean Webster は、マーク・トウヱインの姪[ママ]だ。お母さんがマーク・トウヱインの妹なのである[ママ]。この「蚊とんぼ」を見ても解るだらう。彼女の豊かなることおどろくべき想像力と、鋭い滑稽観念と、さうして明るい人生観とは、まつたくあの偉大なる伯父さん[ママ]譲りの天分だ。
  だがその文章の旨さと、簡潔さと、そして鋭さとに於いては、私は思ふに伯父さんよりも遥かに旨い。そして伯父さんより小さな姪の方が若いのだから当り前なことだが、彼女の文章は遥かにハイカラだ。ヴァッサー女子大学出身の秀才、永く伊太利に遊んで伊太利文学の造詣が深かつた彼女。ウンなある程――竟(つま)り彼女が持つてゐたアングロサキソン人種独特の滑稽観念は、情熱的なそして典雅な南欧文学に依つて磨きがかゝつだのだ。彼女は千九百十六年に死んだ。肺病だったらしい[ママ]。真(まこと)に惜しい。だが、読者よ、「蚊とんぼ」に見られよ。彼女の人生観が如何に戦闘的に、そして明るかつたかを。

    
  


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トマス・ハクスリーと恐竜 Thomas Huxley and Dinosaurs [Daddy-Long-Legs]

ジュディーが3年生に進級して3通目の11月9日の手紙。ジュリア・ペンドルトンから、ニューヨークのペンドルトン宅でクリスマス休暇を過ごさないかと誘われたことであしながおじさんに打診したあと、ダーウィンの進化論を擁護したことで知られるイギリスのトマス・ハクスリーに言及し、古代生物の絵を書き記しています。

I'm engaged at odd moments with the "Life and Letters of Thomas Huxley"--it makes nice, light reading to pick up between times.  Do you know what an archæopteryx is?  It's a bird.  And a stereognathus?  I'm not sure myself, but I think it's a missing link, like a bird with teeth or a lizard with wings.  No, it isn't either; I've just looked in the book.  It's a mesozoic mammal.  (Century 204; Penguin Classics 92-93)
(ちょっと時間があるときに『トマス・ハクスリーの生涯と手紙』を読んでいます――あいまを利用するのに適した、楽しくて軽い読書ができます。アーキオプテリクス〔アルカエオプテリクス〕ってどんなものかご存知ですか? これは鳥です。それからステレオナイサスは? 自分も不確かですけれど、これはミッシングリンクのひとつで、歯の生えた鳥とか羽の生えたトカゲみたいなものです。いえ、まちがいました。いま本をのぞいてみました。中生代の哺乳動物でした。)

   archaeopteryx は英和辞典にも載っています。いわゆる始祖鳥の一種です。続けて本邦初じゃないや、唯一現存するステレオナイサスの絵が(本では手書きの)説明つきで添付されます。

WS000233.JPG
(Century 25)

This is the only picture extant of a stereognathus.
He has a head
like a snake and ears,
like a dog and feet
like a cow and a tail
like a lizard and wings
like a swan and is
covered with nice soft fur
like a sweet little pussy cat.
(これが現存するステレオネイサスのただひとつの絵です。
ヘビのような頭と、犬のような耳と、牛のような足と、トカゲのような尾と、白鳥のような翼を持ち、全身はかわいい子猫のようにきれいなやらかい毛で覆われています。)

  ペンギン・クラシックス版の編者のエレーン・ショーウォーターは、書名 Life and Letters of Thomas Huxley のところに注を付けて、トマス・ハクスリー Thomas Henry Huxley, 1825-95 の息子の Leonard Huxley の編著になる1900年の伝記、と情報を与えています。

  ちょっとひまつぶしに調べてみると、Gutenberg でE-text 化されていました。――
Life and Letters of Thomas Henry Huxley, vol. 1
Life and Letters of Thomas Henry Huxley, vol. 2
Life and Letters of Thomas Henry Huxley, vol. 3

    3巻本かよ、という重い、いや思いでした。3巻目の著作リストには、ハクスリーが王立鉱山学校で勤めた30年のあいだに書かれた、たとえば1867年の

"On the Classification of Birds; and on the Taxonomic Value of the
Modifications of certain of the Cranial Bones observable in that Class"
"Proceedings of the Zoological Society" (1867) 415-472. "Scientific
Memoirs" 3.

とか、1868年の

"Remarks upon Archaeopteryx Lithographica" "Proceedings of the Royal
Society" 16 (1868) 243-248. "Scientific Memoirs" 3.

とか、1869年の

"On the Classification of the Dinosauria, with Observations on the
Dinosauria of the Trias" (1869) "Quarterly Journal of the Geological
Society" 26 (1870) 32-50. "Scientific Memoirs" 3.

など、鳥類や化石爬虫類や化石魚の分類、ハクスリーが竜弓類 (Sauropsida) と呼んだ古生物類などの形態学的な論考が並んでいて頭が圧倒されます。

  それからズルをして各巻ごとにじゅんぐりに検索をかけたら、第2巻にビンゴの手紙がありました。(最後の段落にArchaeopteryx と Stereognathus が出てくるのです。その前のところは、神の問題など触れていて、いつか忘れずに考えるように、というのと、手紙だということで、長いですがあわせて引かせてください)。――

To Professor Poulton [Hope Professor of Zoology at Oxford.].

4 Marlborough Place, February 19, 1886.

Dear Mr. Poulton,

I return herewith the number of the "Expositor" with many thanks.  Canon Driver's article contains as clear and candid a statement as I could wish of the position of the Pentateuchal cosmogony from his point of view. If he more thoroughly understood the actual nature of paleontological succession--I mean the species by species replacement of old forms by new,--and if he more fully appreciated the great gulf fixed between the ideas of "creation" and of "evolution," I think he would see (1) that the Pentateuch and science are more hopelessly at variance than even he imagines, and (2) that the Pentateuchal cosmogony does not come so near the facts of the case as some other ancient cosmogonies, notably those of the old Greek philosophers.

Practically, Canon Driver, as a theologian and Hebrew scholar, gives up the physical truth of the Pentateuchal cosmogony altogether.  All the more wonderful to me, therefore, is the way in which he holds on to it as embodying theological truth.  So far as this question is concerned, on all points which can be tested, the Pentateuchal writer states that which is not true.  What, therefore, is his authority on the matter--creation by a Deity--which cannot be tested?  What sort of "inspiration" is that which leads to the promulgation of a fable as divine truth, which forces those who believe in that inspiration to hold on, like grim death, to the literal truth of the fable, which demoralises them in seeking for all sorts of sophistical shifts to bolster up the fable, and which finally is discredited and repudiated when the fable is finally proved to be a fable? If Satan had wished to devise the best means of discrediting "Revelation" he could not have done better.

Have you not forgotten to mention the leg of Archaeopteryx as a characteristically bird-like structure?  It is so, and it is to be recollected that at present we know nothing of the greater part of the skeletons of the older Mesozoic mammals--only teeth and jaws.  What the shoulder-girdle of Stereognathus might be like is uncertain.

Ever yours very faithfully,

T.H. Huxley. 〔<http://ia301534.us.archive.org/3/items/lifeandlettersof05226gut/llth210.txt>〕

    手紙本文の最後の一節(太字の部分)で、こんなふうに書いています。――

アルカエオプテリクスの脚が鳥に似た構造を特徴としているということを言い忘れませんでしたか? これはそうなんです。そして、思い起こさねばならないのは、現在のところ我々は中生代の古い時代〔"older Mesozoic" は正式になんというのか知りませんが、中生代 Mesozoic (古生代 Paleozoic のあと2~3億年前から7千年前くらい)は古い順に三畳紀 Triassic、ジュラ紀 Jurassic、白亜紀 Cretaceous に分けられる、その古いほうの時代ということだと思われます〕の哺乳動物の骨格の大部分について何も知らないということ――ただ歯と顎だけだということです。ステレオネイサスの前肢帯がどのようなものであったかは不明です。

  ふたつの恐竜が出てくるだけでなく、 ジュディーが "It's a mesozoic mammal" と書いている、そのフレーズも出てくるので、ジュディー=ジーンが参照した箇所の少なくともひとつは、ここだといえます。各部分の類似が "like" で列挙されている、その典拠は不詳です。が、子猫のように柔らかい毛に覆われ、とかいうのは妄想ではないかと申そう。

  なお、stereognathus の gnathus は「アゴ jaw」の意味ですから、それが "stereo" ということは、アゴが固いっていうことかしら。始祖鳥のほうの、archaeopteryx の archaeo は「古い」「古代の」「原始的な」、pter は「羽翼」の意味です。


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合衆国と日本が戦争するとか大統領が暗殺されるとかロックフェラー氏がジョン・グリアー孤児院に100万ドル遺贈した場合 In Case War Breaks Out Between the United States and Japan, or the President Is Assassinated , or Mr. Rockefeller Leaves a Million Dollars to the John Grier Hom [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』2年生の8月のロックウィロー農場からの手紙。10月10日の「ジューディーとジャーヴィー――ジュディーと冒険(3) Judy and Jervie: The Adventurous Judy (3)」につづくところがあります。

  郵便配達夫が世界のニュースを運んでくれるので、合衆国と日本が戦争するとか大統領が暗殺されるとかロックフェラー氏がジョン・グリアー孤児院に100万ドル遺贈したとしても、わざわざ書き送ってくれる必要はない、とジュディーは書きます。

  一点目については、19世紀末から20世紀初頭の日清・日露戦争による日本の台頭と、ついには1921年の排日移民法に至る黄禍論 yellow peril を考えます。ただしJean Webster 個人は1905年には世界旅行の途中で日本にも滞在していますし、1911年のJust Patty に描かれる執事の Osaki の描き方は差別的ではありません。二点目については、ウェブスターが Vassar College に在学中 (1897-1901) に第25代アメリカ合衆国大統領 (1897. 3. 4- 1901. 9. 14) であったウィリアム・マッキンリー William McKinley, 1843-September 14, 1901 は卒業後まもなくの9月6日に無政府主義者によって銃撃され、14日に亡くなったのでした。三点目については、石油王ジョン・ロックフェラー John Davison Rockefeller, Sr., 1839-1937) は Vassar 女子大に寄付をしています――1893年に建てられた Strong House 寮はロックフェラーの娘の Bessie Rockefeller Strong の名をとったものした( “Strong House – Residential Life – Vassar College”  <http://residentiallife.vassar.edu/residence-halls/halls/strong.html > 、あと9月8日の記事「女子寮の話から火馬、火の車馬、火事馬、消防馬、消防馬車馬へ Fire Horses」も参照)。が、1910年の引退後にロックフェラーは全面的に慈善活動に力を注いだのでしたし、『あしながおじさん』の出た1912年にはもう70を過ぎていました(けれども、ジーン・ウェブスターが40歳で亡くなる1916年からさらに20年も長生きし、100歳近くまで存命だったのでした)。“Rockefellers Timeline” in American Experience <http://www.pbs.org/wgbh/amex/rockefellers/timeline/>

  マッキンリーはアメリカの帝国主義的政策を押し進めて、米西戦争や米比戦争を行ない、グアムやプエルトリコやフィリピンを植民地化したりハワイ併合などを行なった人です。アジアやハワイのほうまで出てきたのは、その後の日本との軋轢につながるものだったと思われます。いっぽう内政的には、ジャーナリスト(のちの「新聞王」)のWilliam Randolph Hearst が、産業資本家の「傀儡」として大統領を批判する状況があったのでした(でもいわゆる yellow journalism 的なノリ)。

  マッキンリーを暗殺したのは、ポーランド系移民で貧しい家庭に育ち、無政府主義者となったLeon Frank Czolgosz, 1873– October 29, 1901 でした。ポーランド語としての名前の発音は /ˈtʂɔlɡaʂ/ チョルガッシュに近いもののようです。ニューヨーク州バッファローで催されたパン・アメリカン博覧会場で、ハンカチでくるんだ右手にリボルバーを隠し持ち、大統領と握手をする列に並んで、2発至近距離から腹部に撃ったのでした。一発が体内に留まっていたのを摘出されなかったために、順調に回復するかと思われたのが突然悪化して、事件の8日後の9月14日に亡くなったのでした(英語を訳してえらく細かい日本語のウィキペディア記事「マッキンリー大統領暗殺事件」にやけに詳しい経緯が書かれています←"William McKinley assassination")。

CzolgoszAssassinatingPresidentMcKinley.jpg
The shooting of President McKinley on the stage of the Temple of Music. Illustration by T. Dart Walker for the cover of the September 21, 1901 issue of Leslie's Weekly.
   この絵の左側の婦人たちを落とした部分画がウィキペディアなどに載っています。でも上の絵も上下を切っていて、右下の画家 T. Dart Walker の署名が落ちています。

lesliesimage.jpg
image via "Lights Out in the City of Light": Anarchy and Assassination at the Pan-American Exposition 〔クリックで拡大〕

  この後、アメリカ合衆国大統領が暗殺されたのは、ジョン・F・ケネディー John F. Kennedy, 1917-1963 ひとりです。 

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"Lights Out in the City of Light": Anarchy and Assassination at the Pan-American Exposition-I-  Images of President William McKinely at the Pan-American Exposition <http://ublib.buffalo.edu/libraries/exhibits/panam/law/mckinley.html> 〔豊富な画像をいれた解説。ニューヨーク州立大学 University of Buffalo Libraries を中心とするオンライン展示 Illuminations: Revisiting the Buffalo Pan-American Exposition of 1901 <http://ublib.buffalo.edu/libraries/exhibits/panam/index.html>の中〕

 


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ガス・プラント Gas Plant [Daddy-Long-Legs]

『あしながおじさん』でジュディーが1年生の終わり近くの5月30日の手紙。ジュリア・ペンドルトンのおじさんのジャーヴィスがその日大学にやってきてジュディーが案内をすることになったのですが、そのことをすぐには書かないで、 "Did you ever see this campus?" と書き出してから、5月のキャンパスが緑と草花と楽しげな女の子たちであふれている様子を書き、そこから今の幸せな気持ちを書き、孤児院での生活を反省したりして、ちょっと話が脱線したあと、未来においてキャンパスを案内する様子を(おそらくはジャーヴィスを案内したときのコトバといくらかは重ねつつ)つぎのように書いています。〔それから、とっておきの話というおもむきで、男の人(=ジャーヴィス・ペンドルトン=あしながおじさん)が、あしながおじさん自身と読者に、はじめて紹介されることになります。〕

     I started to tell you about the campus.  I wish you'd come for a little visit and let me walk you about and say:
     'That is the library.  This is the gas plant, Daddy dear.  The Gothic building on your left is the gymnasium, and the Tudor Romanesque beside it is the new infirmary.'
     Oh, I'm fine at showing people about. I've done it all my life at the asylum, and I've been doing it all day here.   I have honestly.
     And a Man, too!  (Penguin Classics, p. 40) (キャンパスについてお話ししようと書き始めたのでした。ちょっと寄っていただいてわたしに案内させてくだされば、と願っています――「あれが図書館です。これがガス・プラントです。左手のゴシック様式の建物は体育館で、その横のチューダー・ロマネスク様式のは新しい病院です」なんて言いたいです。あら、わたし人を案内するのが上手なんですよ。孤児院の生活でずっとやってましたし、今日はずっとここで案内をしていました。ほんとうにやっていました。それも、男の人をです!」

  以下、ヴァッサー女子大に重ねて考えてみたいのですが、ちょっと特殊な建物はガス・プラントだと思われ、それについてだけ書きます(ほんとはぜんぶ調べている余裕も意欲もないw)。WEB上のヴァッサー・エンサイクロペディアには、"Heating Plant" という項目があります。なんか暖房がメインのように見えますが、どうやら屋内照明用のガス燈にも用いられていたようです。適当にまとめると以下のような情報が載っています。

  1864年に完成した "Heating Plant" はMain Building の裏手にある。アメリカでつくられた最初のセントラル・ヒーティング施設である。"Boiler and Gas House" (これはつまり Heating Plant の言い換えだと思われ)は3528平方フィート、ボイラーは三機あり、長さ14マイルのパイプがキャンパス内に蒸気を送り、20マイルのパイプがガスを送った。大学が大きくなるにつれて稼動も高められ、1865年には一日あたり7571立方フィート、1873年には15053立方フィートのガスを生成。1876年にはボイラーが、緊急用の1基も含めて5基となり、年に1600トンの石炭を燃やした。デイヴィッソン寮が完成した1902年、1860年代に既に先を見越して計画されていた地下トンネルを利用して、蒸気熱を建物間に通した。1912年ガスは電気になり、新たな施設が計画される。1955年、90年におよぶ自家エネルギー供給ののち、地域の電力会社から交流電気を買うことに転換。1973年、建物は Powerhouse Theater に変身。〔"Heating Plant - Vassar College Encylclopedia - Vassar College" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/heating-plant.html>

PowerhouseCoal.jpg
Coal in the Heating Plant, Vassar College, image via "Heating Plant - Vassar College Encylclopedia - Vassar College" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/heating-plant.html>

PowerGenerator,VassarCollege.jpg
"Unit No. 3"―Power House, Source of Vassar Electric Light, image via "Electricity - Vassar College Encylclopedia - Vassar College" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/heating-plant.html> 〔クリックでバカに拡大〕

関連記事――「ヴァッサー女子大 Vassar Female College

 

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Powerhouse Theater "Vassar College||Online Tour" <http://admissions.vassar.edu/tour/noflash/arts_powerhouse.html> 〔ヴァッサーの大学案内ページ内。地図・写真つき〕

James Monroe Taylor and Elizabeth Hazelton Haight, Vassar (New York: Oxford University Press, American Branch: 35 West 32nd Street, 1915) <http://www.archive.org/stream/vassartaylor00tayliala#page/178/mode/2up/search/heating>  〔"It must be remembered [. . .] that not only did it sustain seven large residence halls, and thus a large force of domestic helpers, but its own great heating and lighting plant, its own waterworks and sewage system, its carpenter shop, its own laundry, and its separate infirmary, as well as its gardens and its farm.  Electric light was introduced throughout the College in 1911-13. ("Period of Expansion, 1886-1914," p. 178)〕

John Howard Raymond (1814-78), Vassar College: A College for Women, in Poughkeepsie, N. Y.: A Sketch of Its Foundation, Aims, and Resources, and of the Development of Its Scheme of Instruction to the Present Time (New York: S. W. Green, 1873) <http://www.archive.org/stream/vassercollege00raymrich#page/14/mode/2up/search/gas> 〔"The 'Engineer's Department,' for the management of the apparatus for making and distributing gas and steam (for heating and cooking purposes), and for pumping and distributing water." (p. 14)〕


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ガス・ハウス Gas House [Daddy-Long-Legs]

4年生になって2通目の、11月17日の手紙に、ガス供給施設に原稿を燃やしに行くシーンが出てきます。

                                           17th November

Dear Daddy-Long-Legs,

     Such a blight has fallen over my literary career.  I don't know whether to tell you or not, but I would like some sympathy--silent sympathy, please; don't re-open the wound by referring to it in your next letter.
     I've been writing a book, all last winter in the evenings, and all the summer when I wasn't teaching Latin to my two stupid children.  I just finished it before college opened and sent it to a publisher.  He kept it two months, and I was certain he was going to take it; but yesterday morning an express parcel came (thirty cents due) and there it was back again with a letter from the publisher, a very nice, fatherly letter--but frank!  He said he saw from the address that I was still at college, and if I would accept some advice, he would suggest that I put all of my energy into my lessons and wait until I graduated before beginning to write.  He enclosed his reader's opinion.  Here it is:
     'Plot highly improbable.  Characterization exaggerated.  Conversation unnatural.  A good deal of humour but not always in the best of taste.  Tell her to keep on trying, and in time she may produce a real book.'
     Not on the whole flattering, is it, Daddy?  And I thought I was making a notable addition to American literature.  I did truly.  I was planning to surprise you by writing a great novel before I graduated.  I collected the material for it while I was at Julia's last Christmas.  But I dare say the editor is right.  Probably two weeks was not enough in which to observe the manners and customs of a great city.
     I took it walking with me yesterday afternoon, and when I came to the gas house, I went in and asked the engineer if I might borrow his furnace.  He politely opened the door, and with my own hands I chucked it in.  I felt as though I had cremated my only child!
(私の文学的経歴の前途に暗雲が垂れ込めました。話すのがよいのかどうかわからないのですけれど、同情してほしくって――黙って同情してほしいのです、次の手紙でこのことに触れて傷口を広げることはしないでください。
  本一冊書いていました。去年の冬のあいだは毎晩ずっと、夏のあいだはおバカな子供たちにラテン語を教えない時間に、ずっと。ちょうど大学が始まる前に書き終えて、ある出版社に送りました。二ヶ月返事がなかったので、採用されるのだと確信しました。が、昨日の朝、速達の小包(30セント着払い)が届いて、出版社からの手紙が添えられて、わたしの原稿が戻されました。とても几帳面な、父親らしい手紙で――でも率直! 住所からわたしがまだ大学生だとわかったこと、そして、もしも助言を受け入れる気持ちがあるなら、いいたいのは課業に専念して卒業してから書き始めたらよいということだ、と書いてありました。それから、査読者の意見が同封されていました。こうです――
  「プロットは蓋然性がはなはだ低い。人物描写は誇張が過ぎる。会話は不自然。ユーモアはふんだんだが必ずしも趣味が最上ではない。努力を続ければ、やがて本物の本を生み出せるようになるかもしれないと伝えてほしい。」
  全体としては全然お世辞にもなってないですよねw。それなのにわたしは自分がアメリカ文学に顕著な貢献をするのだと思っていたのです、ほんとに。卒業前に偉大な小説を書いてあなたを驚かせる計画だったのです。去年のクリスマスにジュリアのところにいるあいだに題材を集めたのです。でも、編集者は正しいと言わねばなりません。たぶん二週間というのは、大都市の風俗習慣を観察するには十分ではなかった。
  昨日の午後、それをもって散歩に出かけました。ガス・ハウスを通りかかったとき、中に入って、係の人にボイラーの火を貸してもらえるかお願いしました。親切にも炉の扉を開けてくれ、私は我が手で投げ込みました。まるで自分の子供を火葬にしたような気持ちだった!)

  この箇所では、"gas house" と呼ばれています。またヴァッサー女子大にひきつけて調べると、1865年、Main Building の完成と同時期の記述として、"At a distance of 400 feet from the Main Building was the Boiler and Gas House which furnished all buildings on campus with both heat and light, Vassar College being the first institution in the world to be heated by a central plant in a separate building[s]."(Vassar Life) 〔メイン・ビルディングから400フィートの距離にボイラー・アンド・ガス・ハウスがあって、キャンパス内のすべての建物に熱と光を供給した。ヴァッサー大学は、離れた建物内のセントラル・プラントによって暖房を行なう、世界で初めての施設だった。〕と書かれていますし、大学が開学してまもなく書かれた1867年の本で "Boiler and Gas House" "Gas and Boiler House" という呼称で書かれています(下の図のD)。――

 WS000264.JPG
Benson J. Lossing (1813-91) , Vassar College and Its Founder (New York: C. A. Alvord Printer, 1867) <http://www.archive.org/stream/vassarcollegeits00lossuoft#page/98/mode/2up>

   Aは "College" と書かれていますけれど、これが "Main Building" です。このころはまだ4つの学生寮の建物は影も形もないのでした。それでも「全寮制」として大学は1865年9月26日に開学しています。最初の年の学生数353、学費(居住費込み)は350ドル。教職員30人(うち女性22人)。

PowerhouseCoal.jpg
Coal in the Heating Plant, Vassar College, image via "Heating Plant - Vassar College Encylclopedia - Vassar College" <http://vcencyclopedia.vassar.edu/buildings-grounds/buildings/heating-plant.html>

  英語辞典的には、 "gas plant" は、植物で「ヨウシュハクセン」(=fraxinella) というのをおいておくと、「ガス工場」(gasworks) とあります。gasworks とは、ガス製造所、ガス工場です。"gas house" は、アメリカの俗語で「酒場、バー、ビアホール」みたいな意味をおいておくと、やっぱり gasworks です。ヴァッサーのキャンパスに初めからあった施設は、石炭を燃焼させて照明用のガスをつくると同時に、暖房用の蒸気を送る役割ももっていたので、gas and boiler house か boiler and gas house という名称が正式だったのだろうと思われます。

  つづく 


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本葬・・・・・・本の火葬 Cremation of Books as Bodies [Daddy-Long-Legs]

本を焼くことはいっぽうで焚書といって、中国では言論・思想・学問を圧迫・弾圧する手段として行なわれた(「焚書坑儒」とか)し、19世紀のナサニエル・ホーソーンの "Earth's Holocaust" (「地球の燔祭〔はんさい・・・・・・もともとユダヤ教で供犠の動物を祭壇で焼いて神に捧げる祭〕」 )(1844) とか、ホーソーンの時代には現在「ホロコースト」が持っている意味ではなかったのがナチスドイツのホロコーストや "bibliocaust" を経て、20世紀後半のレイ・ブラッドベリの Fahrenheit 451 (『華氏451度』) (1953) とか、文学作品でも描かれています。

1933-may-10-berlin-book-burning.JPG
Book Burning in Berlin, May 10, 1933 image via "Nazi book burnings," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Nazi_book_burnings>

  でも、purify の pur=pyr が fire であるように、火による浄化という観念も(東洋のほうが強いかもしれないけれど)あって、ナチスなんかは文化の浄化を目的として敢えて焚書という象徴的行為を行なったんだとも思います。

  土葬 burial が一般的であったヨーロッパで、火葬 cremation が次第に広まっていくのは19世紀になって、いっぽうで人口の増加(相対的に埋葬地の減少)と、一方でコロリ、いやコレラなどの流行による衛生問題への対策がかかわっているようです。

  高山宏の「死の資本主義」(『目の中の劇場』 (青土社 1985) 277-320) を読み直していたのですけれど、イギリスでは、ヘンリー・トムソンによる火葬推進運動の団体「クリメイション・ソサエティ・オヴ・イングランド(英国火葬協会)」が発足するのが1874年1月13日(「死体は「処分ディスポーズ」され得る一個のもの[傍点]なのだという、発想の革命的転換の日付け」)のことで、記録による火葬の普及は、1885年に全英で3体、86年に10体、87年に13体・・・・・・という遅々たるスピードだったそうです (pp. 316, 314)。ウィキペディアの記事にも書かれているように、話は最後の審判による復活という宗教的な教理と関わっていて、だから一部の保守的なキリスト教徒にとっては火葬は禁忌であったらしい。たぶん、だから、今日のいわゆる PC で "after-death care" という言い換えがなされるようです(『ジーニアス英和大辞典』)。

  と、こここまでの話は前置きで、『あしながおじさん』です。前の記事「ガス・ハウス Gas House」に書いたように、ジュディーは、自分の生んだ作品をキャンパス内のボイラーで火葬します。

I took it walking with me yesterday afternoon, and when I came to the gas house, I went in and asked the engineer if I might borrow his furnace.  He politely opened the door, and with my own hands I chucked it in.  I felt as though I had cremated my only child!
(昨日の午後、それをもってと一緒に散歩に出かけ歩きました。ガス・ハウスを通りかかったとき、中に入って、係の人にボイラーの火を貸してもらえるかお願いしました。親切にも炉の扉を開けてくれ、私は我が手で投げ込みました。まるで自分の子供を荼毘に付したような気持ちだった!)

   ちょっと訳語を「火葬」から「荼毘」に変えてみました。 it は原稿を指していますが、モノだから it なのだというより、子供だから it なのだ、という説明もありえると思います。

   思えば、2年生8月10日の柳の木のまたでの手紙でもそうですが、ジュディーは immortal (不死=不滅=不朽)な作品を残すことを願って創作に励んできたのでした。"I haven't had time yet to begin my immortal novel" (1年生7月12日のロック・ウィロー農場からの手紙: Penguin Classics, 47)、 "I came up with a pen and tablet hoping to write an immortal short story" (1年生8月10日のロック・ウィロー農場からの手紙: 76)、"Lecture notes all day, immortal novel all evening makes too much writing" (4年生5月17日の手紙: 121)。

   よくわからないのですけれど、こうして、本の死と不死と、作品を子供として産むことが関係付けられてイメジ化されているようなのでした。

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"Cremation," Wikipedia <http://en.wikipedia.org/wiki/Cremation

「火葬」 Wikipedia <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%91%AC>

"Cremation vs. Burial - A Difficult Discussion About What To Do When a Loved One Passes Away" <http://www.cremation.net/Cremation-vs.-Burial-information.php> 〔Cremation.net 内〕

「葬儀の種類」 <http://www.sogi.co.jp/sub/jituyou/chisiki/syurui.htm> 〔東京都新宿区の表現文化社の SOGI 内〕

 


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osawa さんの足長父さん@物語倶楽部 Daddy-Long-Legs Trans. by osawa@StoryClub [Daddy-Long-Legs]

    I've just thought of a plan, Diana.  Let you and me have a story club all our own ....
    良いこと思いついた、ダイアナ。二人で自分たちだけの物語倶楽部を作ろうよ・・・・・・。
    L. M. Montgomery, Anne of Green Gables

『赤毛のアン』の伝説的「研究」サイトとして、また青空文庫のような電子図書館からも評価される邦訳 Eテクストを多数作成したサイトとして物語倶楽部があります。日本語ウィキペディアの記述では、最初の「定義」みたいなところで「物語倶楽部(ものがたりクラブ)は、著作権が消滅し、パブリックドメインに帰した文学作品を入力・公開していたインターネット上の電子図書館である」と記述し、概要として、以下のように説明しています。

1999年1月16日に、ルーシー・モード・モンゴメリの作品『グリーン・ゲイブルズのアン』の情報を公開するサイトとして出発した[1]。その後、しだいに他の翻訳作品も公開するようになった。そのため、著者および翻訳者の没後50年を経て著作権の消滅した、外国語作品の翻訳がコンテンツの大部分を占める。コンテンツの中で、「私訳のテキスト」は配付・再利用は自由である。取扱いはプロジェクト杉田玄白の方式に従う。「著作権が切れたテキスト」は自由に配布してよい。ただし、「その他の資料」は配布は不可である[1]。2004年12月頃に、サイトが閉鎖された。

物語倶楽部のコンテンツはインターネット・アーカイブなどに保存されている[2]。また、インターネット・アーカイブから発掘したコンテンツを独自に公開するサイトもいくつか存在している。電子図書館青空文庫でも、物語倶楽部のコンテンツを登録する作業が進行中である。

  この物語倶楽部の設立者&執筆者の osawa さんの、『あしながおじさん』についての翻訳ノートみたいなものを目にしたのは、たぶんエレーン・ショーウォーター編注のペンギン・クラシックス版の出た2004年だったのだと思います。翻訳の本体のほうがまとまっていることも知らず、更新日記のなかで、他の仕事と混ざって記述されている『あしながおじさん』の注釈を拾い読みしたのでした。そのころからパソコンも代を重ねて4,5台(今春日本に帰ってから2台買いました)、いや4,5代、外付けハードディスクも3台という、しっちゃかめっちゃかの個人的パソコン状況ですが、このあいだ、古いファイルにosawa さんの2001年後半の更新日記が見つかり、あらためて読んで感心するとともに、検索をして、保存されたコンテンツを確認した次第です。――

 Internet Archive Wayback Machine, Searched for http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/menu.html <http://web.archive.org/web/*/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/menu.html>

  とりあえず、一番最後の Dec 25, 2004 におおむねファイルは挙がっていると思うのですが、場合によると、過去にあったものが落とされたりということもありうるようです。あれこれ、感銘を受けた人や、関係した人や、知人らしい人の文章を読み、さらに物語倶楽部内を散策してみると、osawa さんは女ではなく男の人でした(これはなんとなくちょっとしたショック・・・・・・御厨さと美が男だったのを知ったときと類比的)。2004年12月にサイトは閉じたらしい(ウィキペディア)のですが、2005年12月31日付の更新日記で、サイトの転居・移行中をアナウンスしています(どうやらbiglobe)。が、そちらのほうはInternet Archive (ってアメリカのサンフランシスコの Internet Archive とは別のものですが)でも復活できないようです。あと、今年の河童忌(芥川の)の記事のコメント応答で、osawaさんの物語倶楽部収録テキストの青空文庫への収録が彼との五年越しの約束だ、と書かれている人がいて、osawa さんの事情がとても気になっています。

  osawa さんは、「ジーン・ウェブスタ関連」で、ウェブスターの他の作品、 When Patty Went To College 
Jerry Junior 〔保存なし〕やJust Patty を、どうやら、Project Gutenberg などに先立って E-text 化していらしたようなのでした。パティーものについては日記で何度もコメントがあるようです。

  8月10日の、柳の木の股からの手紙はこんな感じの、ナウい訳になっていますし、ちゃんと devil down-heads は鳥と捉えられていたのでした(ちなみに、他の訳者の訳は、「デビルダウンヘッド (1)  Devil Down-Head」と「『蚊とんぼスミス』――東健而の『あしながおじさん』 (2) Azuma Kenji's Translation of Daddy-Long-Legs」を参照)。ちょっと二段落目、テクストが混乱しているようです。ちょっと前のヴァージョンも見てみます。

足長父さん:八月十日

「足長父さん」へ

拝啓 牧場の池の側に生えている柳の木の二番目の叉から、謹んで挨拶致します。下の方ではカエルが一匹ケロケロ鳴いています。頭上にはセミが唄い、二匹の小さな「悪魔ツツキ(カオジロゴジュウカラ)」が幹を登ったり降りたり。こうしてここに居座ってはや一時間。とても快適な木の叉なのです。特に、二つのソファークッションを下に敷いてからはね。不朽の短編を書こうと、はりきってペンとノートパッドを持って登ってきたのに、さっきからずっとヒロインに時間を取られっぱなし -- どうしてもあたしの言う通りに動いてくれないのよ。それで、とりあえずあの娘は放っておくことにして、あなた宛てに手紙を書いているところ。(大して気休めになりませんけど。だってあたしの思い通りにならないのは、あなたも同じだもの。)

あなたが、あのとんでもない街ニューヨークにいるなら、この素敵で涼やかで明るい陽射しに包まれた眺めを、差しあふれる、世界、良いお天気、太陽の恵み、景色、眺め、陽射しを浴びた、浴びるほどの、お日さま、明るい差しを受けた、包まれた少し分けて送ってあげたいくらい。当田舎は、雨の一週間が過ぎて天国になりました。〔osawa@物語倶楽部 2003 <http://web.archive.org/web/20040913202003/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/daddy/daddy-42.html>〕

 

  osawa さんはノート(日記)で率直に疑問を記していて、そのへん答えていければいいかな、というのと、全然思いもよらぬことを書いていこうというのと、osawa さんの翻訳(訳注があります)へのリンクをブログのカスタムペインに設定しようということを思いました。

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"Internet Archive Wayback Machine, Searched for http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/menu.html" <http://web.archive.org/web/*/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/menu.html>  〔物語倶楽部の復元〕

「こもれび 記事No. 3231」 <http://hpcgi1.nifty.com/hongming/komorebi/wforum.cgi?no=3231&reno=3222&oya=3222&mode=msgview&page=0> 〔青空文庫内 2009.9.14 「入力者osawaさんで青空文庫に登録してあるもののうち、「入力中」となっている作品」を挙げて「「物語倶楽部」テキストの登録へ..」の作業を考える、2009年7月末くらいからのスレの一部〕


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ジーン・ウェブスター/『あしながおじさん』関連地名 Place Names in Daddy-Long-Legs [Daddy-Long-Legs]

なかば自分の参照・リンク作成用にメモっておきます。 ページ番号はとりあえずペンギン・クラシックス版。

Adirondacks, the [= the Adirondack Mountains] アディロンダック山地。 New York州北東部の山地;最高峰Mount Marcy (1629m)。アディロンダック族はもとSt. Lawrence川北岸に住んでいた北米インディアンの一族。2年目の初夏に、一家で毎夏アディロンダック山地のロッジで避暑をしているらしいMcBrideから休暇をすごそうと誘われる( “The McBrides have asked me to spend the summer at their camp in the Adirondacks!”)(p. 73: June 2)が、Smithの指示 (June 9) により Judy はLock Willowですごすことになる。
Berkshires, the [= the Berkshire Hills]  バークシャー丘陵。Massachusetts 州西部の森林丘陵地帯で保養地; 最高峰 Mount Greylock (1604m)。2年生の8月、Jervis Pendleton がLock Willow へ来る前に旅行していた場所 (p. 80)。 
Binghamton ビンガムトン New York州南部の,Pennsylvania州境付近の市。1894年から96年までウェブスターはthe Lady Jane Grey boarding schoolに寄宿する。
Fredonia  フレドニア〔フリドウニア〕 New York州南西端Erie湖の近くにある村。New York State University College at Fredonia (1867) の所在地。1876年7月24日 Jean Websterが生まれた場所。
Lock Willow ロック・ウィロウ Connecticut州の特定できない場所。 “Master Jervie” が子供時代をすごしたLock Willow Farmで毎年の夏休みをJudyはすごすことになる。鉄道の駅から5マイル( “drove the five miles to the station”)(p. 130)。 “Sky Hill”と呼ばれる山があって(p. 120)、Master Jervieと登る。
Magnolia  マグノリア〔マグノウリア〕 Massachusetts州のCape Annにある村。かつては漁村だったが19世紀に夏の行楽地となった。3年生の夏にMrs. McBrideの紹介でCharles Patersonの娘の家庭教師をしたパターソン家の別荘がある(June 4)。
New York  ニューヨーク Pendletonの家がある。Judyは3年目のクリスマス休暇を Julia Pendletonの家ですごす。 Madison Avenue にはJohn Smithが住んでいる。
Princeton New Jersey州の中西部の町。Sally McBrideの兄 Jimmie McBrideの通うPrinceton Universityは1764年創立でIvy Leagueのひとつ。
Poughkeepsie   ポ(ー)キプシー New York州南東部,Hudson川東岸の市。オランダ人入植地として建設 (1867)、1778年から一時New York州都。市の北に1861年Vassar Collegeが女子大として創立された(開校は1865年; 1968年男女共学)。1897年から1901年に在校した Websterは英文学と経済学を専攻。
Worcester  ウ(ー)スター Massachusetts州中東部の市。Sallie and James [Jimmie]  McBrideの実家がある (p. 54)。Judyは2年目のクリスマス休暇に “Stone Gate” から手紙を書いている (p.55)。

 

  うまい地図が見つからないので、中途半端ですが、・・・・・・
とりあえずグーグルマップを貼っておきます

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